『ほったらかしの領域』:教師は「教えるべきこと」について、「すでに知っているはず」の存在か。
先週日曜日2020年M1が終わった。

『M-1グランプリ』は吉本興業が主宰する漫才の日本一を決める大会である。
私はすべての大会を見届けてきているが、
今年は、教職研修の真っ只中ということもあり、
漫才よりも審査員の方により目がいってしまった。
まず、審査員が現役の「芸人」であるかということが重要なポイントになってくる。
若手芸人は漫才にしてもコントにしても、みんな「ネタ」をつくり、舞台に立ちながら芸を磨き、M1やキングオブコントのような、いわゆる「賞レース」に参加する。
「賞レース」はテレビで放映されるため、ここで結果が残せれば「芸人の人生が変わる」と言われている。
テレビに出演する仕事が増えるからである。
テレビ番組で面白いことをいうことと、劇場で観客の前で「芸」をすること。
このふたつは、違う種類の専門性を伴う仕事であるように感じる。
このメカニズムを演劇に置き換えれば、劇場で舞台俳優として「芸」を磨き、テレビドラマに出演が決まる、
という、「今までやってきたこととは別のアウトプット方法を求められる」キャリアアップなのかもしれない。
今回のM1審査員のなかで、漫才の舞台に立ち続けることに関して「現役」であったのは、「オール阪神・巨人」のオール巨人師匠である。
この人の立ち振る舞いから学ぶことが非常に多かった。
まず、若手の漫才をとにかく観ているということ。
ほぼ無名に近い若手芸人の過去の芸風や、作品まで、非常に詳しい。
また、他の審査員が無名の若手を「ツッコミの方」「ボケの方」と呼ぶときも、オール巨人師匠は、絶対に名前で呼ぶ。
「お笑い賞レース」という、審査員と参加者の間に、すでにヒエラルキーが存在する場所で、「人を名前で呼ぶ」という当たり前のことから感じられる敬意は計り知れない。
また点数の付け方も的確で、全く「テレビ用」ではなかった。オール巨人師匠が「学びのプロセス」の中に身をおいているということが、発言の端々から感じ取れた。
作品を観る、名前と顔を覚える。
このふたつは、自分が「現役」であり続けるためにもお手本にしたい。
フランスの演劇教育者国家資格取得のための研修では、
とにかく、教育者でありながら、演劇に関わるアーティストとして「現役」であることの重要性を強調される。
演劇教育に関する考察という論文の課題でも、自身の「現役」としての活動と結びつけた、演劇教育を考案することを求められる。
私が生徒さんたちと過ごした日々を振り返ると、教育者が「現役」でいることの意味とは、
「教師は教えるべきことについて、すでに知っているはずの存在である」という当たり前を疑うという点にあると思う。
「現役」である限り、どんなに生徒たちより経験と知識があっても、芸に対して、すでにすべて知っているということは、ありえない。
「現役」とは、日々、悩んだり模索したり、恐怖を感じたり、失敗したりしながら、芸を磨いている「過程」にいる人のことである。
その「現役」の言語感でもって、確信ではなく、疑いを持ちながら、生徒に言葉を伝えていく。それは、正解ではなく「過程」を教えているとも言える。
こんなお笑い大好きな私が、木村覚さんの『笑いの哲学』(講談社選書メチエ,2020) を読みながら、再度「笑い」について勉強していたとき、
まさに生徒さんたちに伝えたい、うつ治療で有名なデビッド・D・バーンズ氏の「レッテル貼り」の危険性に関する文章が引用されていた。
レッテル貼りは自己破壊的であるばかりでなく、不合理な考え方です。あなたの自己はあなたの行為と決して同一ではありません。人間の考え、感情、行動は常に変わっていきます。言い換えれば、あなたは銅像ではなく、川の流れなのです。
私たちは、「銅像ではなく、川の流れ」。
今日確信していた考えや体感が、明日になったら、180度かわっているかもしれない。
教師という「権威」をもつ立場になっても、この「非確実性」しっかりと認められることが重要。
私たちは、「川の流れ」の中にいるのだから、変化して当たり前。
このように考えていくと、教師は教えるべきことについて、すでに知っているはずの存在でなくてもいいんじゃん?と私は考える。
教師が、自分の「現役」として日々感じる「困難」を自覚することこそが、流動的でクリエイティブな場をつくってくれるのかも。
私も外国人として非常に悩まされた「教師は生徒の前でどう振る舞うべきか」という問いに、「現役」として答えたい。
『ほったらかしの領域』合宿メンバー募集は、本日23時59分にて締め切らせていただきます。
たくさんに方に興味を持っていただき、とても嬉しく思っています。以下詳細 ↓