『ほったらかしの領域』:舞台芸術におけるフィードバックの重要性

フランスでコロナ第2波ロックダウン中の演劇の実習クラスで、

絶対守らないといけない超めんどくさいお約束がいくつかあった。

1. マスクの着用義務。

2. 生徒同士、及び教師ともに、身体に触らない。

3. 小道具はなるべく共有しない。止むを得ない場合は、アルコール消毒をする。

4. ひとクラスの人数は、教師、生徒、見学者(実習のため)含め10人以内にすること。

今考えるとこれらのお約束を守りながら、よく実習を行ったと思う。

生徒とやりたかったエクササイズやゲームなど、私は身体を扱うものを得意としていたので、泣く泣く諦めたことも、マスクを着用したまま、大きな声で長時間しゃべって、生徒さんの前で酸欠になってしまったこともあった。

こまめにアルコール消毒をしていたり、即興でも身体の接触は意識して避けていたりと、生徒たちの中に、明らかにコロナに対する緊迫した空気はあった。

それもそのはず、私たちが実習していたサンテティエンヌのコンセルヴァトワールの演劇クラス担任がコロナ陽性になり、生徒さんたちにも、実習生の私たちにも、保健所から濃厚接触の通知が届き、1週間は自宅隔離で過ごすという時間があったからである。

それまではコロナをそこまで身近に感じてなかったため、マスクも途中で外したり、真面目にお約束を守っていなかったのだが、この事件以降演劇クラス続行のため、「めんどくさいお約束」厳守を徹底した。

その状況下で、私は演劇クラスにおけるフィードバックの重要性に心奪われていく。

まず、マスクで生徒たちの表情が半分以上見えないというのは、教師にとって非常に不安な状況である。

今、彼らが興味をもって楽しんでくれているのか、疑問をもっているのか、冷めているのか、80%以上の情報がマスクによって阻害される。

また、自分ひとりが2分以上しゃべると息苦しくなるという経験から、いかに、「発言」を分散できないかと考え始めた。「私の分も生徒さんしゃべって」作戦である。

新しい戯曲に着手する時も、こちらが内容を説明するというより、「問い」形式でしゃべることによって、生徒さんたちに「発言」を分散させる。「発言」が分散されればされるほど、彼らの興味の現状把握にも大変有効である。

私はいまだかつて、フランスの教育で重要視されている「フィードバック」というプロセスにそこまで興味をもてないでいた。理由は単純。時間がかかる。そして、自分がそこまでしゃべれない。

自分が演劇学校で過ごした3年間は11人という超少人数クラスであったが、フィードバックを始めると1時間は余裕で超える。話しが盛り上がってしまうと、3時間かかることもざら。

そこまで語学力がなかった私は、フィードバックしてる時間あったら帰って台詞の練習がしたいと常々思っていた。

最近、日本の伝統芸能や武道における「わざ」の研究書(『「わざ」から知る』生田久美子 著)に面白い記述を発見した。

そもそも、「わざ」というものは、「教える」「学ぶ」プロセスとは区別して、「盗む」プロセスであると解釈されていた。そして、「わざ」の特徴として、「模倣」「非段階性」「非透明な評価」があげられていて、日本由来の「わざ」の伝達としては「身体全体でわかっていくわかり方」が基本であったということである。

また、「わざ」に関しての言語の介在方法も非常にユニークである。

「わざ」の習得プロセスにおいて見逃せないのは、そこには特殊な、記述言語、科学言語とはことなる比喩的な表現を用いた「わざ」言語が介在しているという点である。(『「わざ」から知る』p.93 生田久美子 著)

学習者にわかりやすく翻訳するというより、教師の身体のなかの感覚をありのままに表現することによって、学習者の身体のなかにそれと同じ感覚を生じさせる効果を期待するものである。

つまり、「わざ」言語において、発話者は「教える」側に限られる。

私の人生において、伝統芸能を学んだ経験は皆無であるが、学習者側の「沈黙」が私の身体にも植え付けられていたようである。

フィードバックの主役は学習者であり、これが舞台芸術において非常に有効な理由として、舞台芸術が「再現性」を求める芸術媒体だということがあげられる。

今、つかんだ感覚を、もう一度再現する必要があるのは、教師ではなく学習者である。

「わざ」習得における「身体全体でわかっていくわかり方」と西洋的な「言語化する力」を組み合わせたところに、フィードバックの面白さを感じている。

自分が演劇学校でフィードバックの時間に参加していた時は、フランス人は、誰でも人前で自分の感覚を論理的に、普遍性も交えて言葉にするのがうまいなあ、これは、文化の違いだなと、「カルチャーショック」として処理していたのだが、

今回、高校生や20代以下の国立演劇学校受験準備クラスの生徒たちを担当して、フランス人全員が初めから「言語化する力」を持っているわけではないということがわかった。

フィードバックも、筋肉と一緒。やればやるほど上達するものなのである。

実際、私も、語学力の上達だけではなく、フィードバックという環境に何回も何回も身をおくことで、発言する前も心臓がバクバクするということはなくなった。

身体で起こった感覚を言葉にする。

まずは自分のために、そして、他者と共有するために、他者と共有することで、またその感覚がより明確となって、自分の身体に還元されるというサイクルが、理想的なフィードバックでは生まれる。

演劇教育において、私が心掛けていることのひとつに、「演劇はひとりでは学べない、と自覚する」という過程がある。

俳優というと、ひとりで頑張ってスターまでのし上がっていくというイメージが多少ある。

しかし、そういう俳優を育てることは、俳優教育ならありえるのかもしれないが、「演劇」教育ではありえないであろう。

学びの過程で、「他者が必要」だと感じること、「他者ありきの上達」があること、「他者に傾注する面白さ」を感じられることが、非常に重要だと考えている。

毎日日当たりが最高すぎる自宅にて。

念願のハラスメントに関する実技授業をフランスの若者たちへ!!

私はこの15年間、自分でも問題にしてこなかったけど、フランスに旅立つ前、創作現場で壮絶なパワハラを受けた可能性がある。

そもそもハラスメントには2種類あると思っていて、

双方に原因がある場合と、片方だけに原因がある場合である。

私の場合は、あきらかに前者だったので、今でも、ハラスメントをうけた「可能性がある」というぐらいにしか言えない。

当時、自分の俳優としての態度にも相当問題があったし、俳優とは演出家に言われたことを「実行に移す」人のことだと思っていた。

そもそも創作という「プロセス」よりも、本番という「結果」が、常に人と関わることを必要とする演劇という媒体においても、重視されてきたことにも問題がある。

俳優や演出家の「心構え」を変えれば、ハラスメントがなくなるかというと、ことはそんなに簡単ではない。なんとなく、俳優と演出家の関係ってこんなもんだろうと「出来上がってしまっている」関係は、「心構え」なんかで変化するほどやわなものではない。

具体的な「実践」を伴う必要がある。

そこで、私が若者たちに伝えたかったのは、「俳優は常に自分のプロポジション(提案)を持つ」ということである。

自分の「提案」を持つとは具体的にどういうことか。

演出家があれこれ言ってくる前に、自分だったらどう演出するか、自分だったらどう演じるか、自分だったらどう解釈するか、ある程度自分のプロポジションを「持って」リハーサルに出向く。

提案を持つことによって、俳優は圧倒的に、「自分」を守ることができる。

なぜならば、提案には、「私自身 (what I am)」と「私がやっていること (what I do)」を切り離してくれる力を持っているからである。

「私自身 (what I am)」を批判されることは、耐えられない苦痛だが、

「私がやっていること (what I do)」を批判されたなら、「じゃあ、これは?」とめげずに新しい提案をすればいいだけのこと。

このことを、実技クラスで伝えるために、生徒さんたちに宿題を出した。

一つ前のクラスで「戯曲(舞台空間)において『女性』が発言するということ」というテーマで授業をしたのが、その中で扱ったスキャンダラスなさまざまな女性モノローグから、好きなテキストを選んでもらい、そのテキストを自分が演じるならどういう提案をするかを考えてきてもらった。

男子生徒たちは、自分が男性として、女性のモノローグを演じるならというところまで言及して準備してきた。

なによりも、自分たちが考えてきた演出プランを語るときの生徒の目の輝きが忘れられない。

ひとりの生徒が持ってきた提案をもちいて、みんなで「創作」をしてみた。

最初は、私に「答え」や「評価」をもとめていた生徒たちも、私が、「んーん、どうだろう。わたしもわからない。だれかわかる人いる?」を繰り返していたら、自分たちで、さまざまな「提案」をだしてきて、全部やってみながら、適切な「提案」を探して行った。

ハラスメントをなくすということは、演出家が俳優に率直に意見を言えなくなるということではない。

どんな演出や意見を受けても、「私自身 (what I am)」が批判されたのではなく、「私がやっていること (what I do)」に意見をいわれたのだなとすんなりわかる環境を構築することであると私は思う。

それは、俳優同士がお互いに意見をいいやすくなる環境にもつながる。

日本の文脈で起きたことに関して、

日本語でずっと考えてきたことを、

フランス語に言語化して、他者に「伝える」という作業は思いの外大変だった。

実習を担当していた先生に言われた言葉:

「教育とは、今まで自分が当たり前にやってきたすべてのことがらを、ひとつひとつ言葉に変換していく作業」

自分が興味があるテーマ、

俳優として感覚で気をつけていること、

コツやカン、

自分がなんとなく大切だと思っていること、

それらすべてに「なぜ?」を突きつけ、言葉にして答えを出していく。

果てしない作業に、絶望しそうになるけど、

生徒さんたちのマスクの下に隠れる笑顔を想像すると嬉しくなっちゃう。

一刻も早く、マスクなしで演劇の授業をさせてくれ、と願う今日この頃。

そして、なんとフランスは12月15日から劇場再開で、去年からツアーしている『千夜一夜物語』最終公演が、12月15日から17日にマスタードの街ディジョンで上演できるとのこと!! 

去年の9月に初演して、コロナに阻まれながらも、1年以上公演した作品の最後。

無事に舞台に立てますように。

芸術観賞教室『視点の学校』

教職研修も後半戦にさしかかった今週の課題は、芸術観賞教室におけるファシリテーションについて。

リヨンから『école des regards(視点の学校)』という名前で活動している、

芸術観賞教室のスペシャリストを招いて、観劇後のディスカッションにおけるファシリテーションについて学ぶ。

小学校中学校を通して、日本で芸術観賞教室をやった記憶があるが、

「芸術作品に触れる」ということが、芸術観賞教室の目的だと思っていた。

『視点の学校』の目的は、「好き・嫌いの感想を超えて、自分の言葉で観賞時に得た感覚を言語化する」ということ。

また、言語化する過程で、「好き・嫌い」という感想が「可変」的なものであると気づくことも大切。

本来なら、演劇作品を観て、そのあと生徒さんたちとディスカッションをするというクラスなのだが、今回はコロナで11月以降に予定されていた観劇がすべて中止になってしまったので、映画観賞で実施。

お題は以下のふたつ。

16年間で44本の映画作品を発表し、37歳の若さでこの世を去った天才、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『不安と魂』(1974)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%81%A8%E9%AD%82

近年フランス演劇界でドキュメンタリー演劇作家として注目を集める演出家、モハメッド・エル・カチブ監督作品『Renault 12』(2018)

https://fr.wikipedia.org/wiki/Mohamed_El_Khatib

『不安と魂』は、発表当時カンヌ映画祭で二冠をとり、ファスビンダーの名を一躍有名にした作品。掃除婦として働くドイツ人のおばさんとドイツで外国人労働者として働く若いモロッコ人男性の、歳の差、国際カップルの愛と苦悩の話。

『Renault 12』の方は、モロッコ系フランス人である作家の母が死んだことをきっかけにフランスに暮らす作家が、母との思い出を辿りながら、モロッコまでルノー社の車にのって旅するロードムービー。モロッコに住む作家の家族も登場し、「ドキュメンタリー」を思わせるつくりになっているが、実はシーンによっては俳優や作家自身が「ドキュメンタリー」を演じていたりと謎の多い作品。

今回は6人の研修生が2グループにわかれ、3人ひと組でファシリテーションを行う。今までは、一人で生徒さんたちへのクラスを準備する課題ばかりであったが、ここにきて、共同で準備することの難しさを思い知る。

わたしは、『Renault 12』に配属されたが、生徒さんとのディスカッションが始まる前に、まず、わたしたち3人の扱いたい方向性が全く違うので、その違いをわかり合うことに多大な時間と苦労を要する。

例えば、わたしの日本人でフランスで演劇をしているという立場からこの作品を分析すると、自分の母国(家族がいる国)と自分の働いている国の文化の違いや、多言語での生活とは、というところに焦点を当てたいと思う。

もう一人は、映画にも詳しかったので、「フィクション」「ドキュメンタリー」「ルポルタージュ(報道)」の違いに関して。

さらにもう一人は、家族の死を作品として扱うことに関して。

それぞれの想いを汲み取りながら、私たちが私たちの考えをベラベラ話すのではなく、生徒さんたち自身に語らせるためのさまざまな「問い」を構築していく。

もうひとつ重要なのは、ひとつの作品から派生して、いかに多くの芸術作品を参照するきっかけとなるか。

つまり、ファシリテーターとして、『Renault 12』を新しい視点で考察するきっかけとなるような絵画、映画、演劇、本、美術などから、紹介する。

『Renault 12』に関しては、モハメッド・エル・カチブが、多大なる影響を受けた映画監督アラン・カヴァリエ氏の自分の妻の死に関するドキュメンタリー的作品『Irène』の一部をみんなで鑑賞した。私たちには馴染みのある映画監督でも、15歳近く年の離れた生徒さんたちは、名前も聞いたことがないという。

私は、是枝裕和監督の助監督としても知られる砂田麻美氏の初監督作品『エンディング・ノート』を紹介した。この作品は、末期がんを宣告された砂田氏の実のお父さんが、”エンディングノート”を作成し自らの死に向けての準備を始める姿を追ったドキュメンタリー作品。http://www.bitters.co.jp/endingnote/about/index.html

『Renault 12』では、作家の家族が、「家族を見せ物にするな」と言って、映画に撮られることや、プライベートの生活を暴露されることを嫌悪するというシーンがあるのだが、「エンディング・ノート」は、作家の実の父親の映像作品として、自分の死が残されることへの同意がある。

自分がアーティストとして生きていく上で、さまざまな局面での「家族の同意・不同意」について、生徒さんに考えてほしいと思った。

私自身が、家族とコミュニケーションをとる言語(日本語)では言いにくい(例えば性的なセリフや暴力的なセリフ)も、フランス語では躊躇いなくいえてしまう。フランス語は自分にとって、「フィクション」を扱うための言語なのかもしれない。

という話をしたら、2時間くらいディスカッションにほとんど参加しないで、黙っていたチュニジア人の両親を持つ男の子が、「自分にとっては、家族と話す言葉がチュニジア語だから、フランス語では「親密」なことはなかなか話しにくい」と自分の想いを言葉にしてくれた。

自分の意見を人前でいうことは、誰にとっても難しい。

それでも、安心して自分の気持ちを「言語化」できる「空間」と「問い」と、自分を自身と距離を保つことができるような「材料」を準備してあげることによって、自分の口からはじめて出てきた「言葉」たちと出会えたらいい。

「『ドキュメンタリー』と『ルポルタージュ』の違いはなんだと思う?」の問いに対して、5分くらいひとりであーでもないこーでもないとしゃべっていた女の子が、自分の「答え」にたどり着いて、思わず「やったー!!!!!言えた!」と叫んで、水をごくごく飲んでいる姿がこの日の宝物だった。

先生だって、わからない時は「わからない」と言っていい!?

わたしには絶対無理と諦めていた、

戯曲を用いた教育実習が、まさかの「有終の美」を飾り終了。

課題戯曲は4つ。テーマは「亡命」。

1, ギリシャ悲劇 アイスキュロス『救いを求める女たち』

2. アレクサンドラン コルネイユ『王女メディア』

3. 現代イタリア戯曲 Lina Prosa 『ランペドゥーザ・ビーチ』

4. 現代イスラエル戯曲 Maya Arad Yasur『アムステルダム』

ある理由により、自分の国を離れなければならず、他の国に亡命するということはどういうことか、古典と現代戯曲を用いて生徒さんたちに考察させることが目的。

まず、私たちがドラマツルギーに関する授業を受けるが、古典、現代戯曲ともに全く言語についていけない。

歴史的、宗教的、政治的背景がわからないと戯曲って、こんなに身体に入ってこないものかと思い知らされる。

基本的には、

ードラマツルギーからのアプローチ

ーテキストを身体化するエクササイズ

ー戯曲の文体にあった「発話」の場所を探していく

上記の3点からのアプローチを求められる。

例えば、アイスキュロス『救いを求める女たち』は、コロスである50人の黒人女性たちが主役の作品。ドラマツルギー的背景として、ぶどう酒の神様である「ディオニュシオス神の祭典」を理解しているかどうかで演技のアプローチは大きく変わる。

ディオニュシオスは、アテナイ人が抑制しようとした野蛮な生まれながらの野性的な人間性をあらわす神様。つまり、演劇の機会というのは、人々が抑圧されたものを発散する機会であり、日常生活の中では、普通には話されることのない考えを浮き彫りにすることが許される場。

外国人や女性といった、社会的立場の低い人たちにも「発言」の機会を与えてくれる画期的な場なのである。

わたしは、コルネイユ『王女メディア』とMaya Arad Yasur『アムステルダム』を選択。

子殺しで有名な『王女メディア』は、以前自分が演じたことのある、ドイツ現代戯曲ボート・シュトラウス『時間と部屋』という戯曲より、カップルが『王女メディア』に関して喧嘩をしているというシーンをモデルに、三人称単数で「メディア」という人物をインプロビゼーションを通して、生徒さん自身で発掘していってもらった。

大苦戦したMaya Arad Yasur『アムステルダム』は、アムステルダム在住のユダヤ系イスラエル人移民女性の話。第二次世界大戦以降のアムステルダムの政治状況や移民の大量受け入れからの多文化主義破綻の現状を一から勉強。

アムステルダムという都市において、イスラム教であること、ユダヤ教であることとはどういうことか。移民であることとはどういうことか。

自分が他者から受けた「偏見をはらんだ視線」と、自分が他者にむけてしまった「偏見をはらんだ視線」をテーマにディスカッションをしてもらう。

生徒さんに何か質問された時に、答えられなかったらどうしようという恐怖と戦いながら、辞書を片手にめちゃめちゃ準備していたら、人生の師匠であり、フランス語の師匠から一言。

「質問されてわからなかった時は、生徒と一緒にスマホで調べればいい」

生徒さんたちにとっては、先生から教えてもらった答えより、自分で考えたり、調べたりして見つけた答えの方が、圧倒的に彼らの身体に残る。

だから、先生がすべての答えを知っている必要はないのだという。

それよりも、いかに彼らに自ら考えたくなる「問い」を与えられるが勝負。

一気に肩の荷がおりると、難しいフランス語の発音も生徒さんが助けてくれる。

そんな「学術的」には頼りない先生でも、「演劇」への愛と熱意とみんなよりもちょっとは多い経験では負けないので、夢中になってクラスを引っ張る。

こちらが堂々としていれば、生徒さんたちも、外国人からフランス語の戯曲をつかったクラスを受けるということに対して、なんの違和感も不信感もない様子。さすが、多文化多民族国家フランス。

アート教育全般において、何よりも重要なことは、

現在の教育制度の基本的なアプローチである「結果思考」に対して、

「結果に至るプロセス」に重きを置くということ。

芸術における教育者は、結果を出せる生徒さんを育てるのではなく、

生徒さんひとりひとりの探究のプロセスに寄り添い、そこに一緒に意味を見出していくことと、わたしは考える。

しかし、現実は芸術教育業界でも「結果思考」が蔓延っていて、

例えば、何人の生徒が自分のクラスから、国立演劇学校や有名ボザール(高等美術学校)に合格したとか、その結果をいい教育としている先生たちがいるのも現実。

有名芸術学校に進学するためには、それなりのテクニックも必要。

ただ、そこだけに特化するのではなく、将来、アーティスト以前に「自律的市民」となっていくような自立した学習者を育てていくべきではないか。

主体的な学習を促すことで、演出家やプロダクションに対し従属的立場をとる俳優ではなく、ひとりの主権者としての俳優を育てる方を選びたいと心から思う。

相変わらず仕事以外での外出禁止が続くフランス。

せめてもの救いは暖冬と日光!

教育とは、全身全霊をかけて、生徒たちに「自己検閲」を避けさせること。

現在、私が教職研修のため滞在している街サンテティエンヌでは、コロナ感染者の率が非常に高い。1週間の10万人当たり発生率はナンバーワンで、国内平均は250人のところ、サンテティエンヌは1000人以上を記録している。

リヨンの近くにある、そんなに大きな街ではないので、フランスのSNSでも、なぜサンテティエンヌが最大警戒地域?と話題になっていたほどである。

今朝のテレビで、コロナ感染者の率は貧困と関係しているというニュースは流れていた。貧困層が多ければ多いほど、コロナ感染率も高いということだ。

サンテティエンヌには、工場労働者のための集合住宅なども多く存在し、貧困を理由に共同生活を強いられている層もたくさんいるそう。

衣食住を共にする他人が多ければ多いほど、感染の可能性、及びクラスターが発生する可能性が高くなるのは当然である。

教職研修はパリでも受けることは可能だったのだが、私があえて、このサンテティエンヌという街を選んだのには理由がある。

ひとつには、教職のプログラム及び国家資格試験の審査を務める La Comédie de Saint-Etienneという劇場が芸術的にとても充実している点。

ふたつめは、サンテティエンヌから始まってフランス全国に広がったプロジェクト「L’égalité des chances(機会の平等)」に興味があったからである。

https://ecole.lacomedie.fr/egalite-des-chances/

「L’égalité des chances(機会の平等)」は、貧困層や移民が多く住む地域の生徒たちにも、国立高等演劇学校への受験を促そうという取り組みである。

フランスの国立高等演劇学校はグランゼコール(Grandes Écoles )という位置付けで、フランスの大学と違い、高校を卒業してバカロレアを取得しただけでは入学できない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB

通常、高校卒業後、グランゼコール準備級(予備校のようなもの)に通い、試験に備える。

国立高等演劇学校の場合にも、民間及び公立の準備級に通うのが通常である。

しかし、経済的理由により、準備級に通えない生徒たちもいる。そのような生徒たちに特化して門戸を開いたのが、「L’égalité des chances(機会の平等)」である。

具体的には、18歳から23歳の国立高等演劇学校受験を目指す生徒たちに、1年間週30時間の演劇クラスを開講するとともに経済的援助を受けることができる。

フランスにおける経済格差が一番顕著に現れるのが子供たちの教育である。

2週間前から、実習の一貫で、中高生を対象とした様々な場所でワークショップを受け持ったが、生徒たちの集中力や自己肯定力の高低と、貧富の差が関係がないとは決して言えない。

ただ一回心をひらいてもらえたら、彼らの芸術への貪欲は凄まじい。

街のコンセルバトワールに実習でクラスを2時間受け持った時、

若者に混じって50代後半の黒人女性がいた。

彼女は、経済的理由でずっと演劇がやりたかったけどできなかったそう。

体を動かす課題をたくさん準備してきたので、マスクしたままで苦しかったらいつでもやめていいよ、といったら、

「コロナで、演劇に飢えてるから、ちょっとくらい呼吸が苦しくてもやりたいんです!!」と目を輝かせながら言われて言葉につまってしまった。

貧困地域に生まれた子供たちは、自己肯定感が低いと言われる。

でも、演劇は「物語」を紡ぐ仕事だがら、自分の人生の「物語」をきちんと語れる人になってほしい。

私が、演劇教育に興味を持ち始めたときから、ずっと大切にしている文章がある。

スーザン・ソンタグ『良心の領界』の「若い読者へのアドバイス」という文章。

検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

教育に関わるものとして、どんな状況下にあっても、

生徒たちを「【自己】検閲」の危険から守らなけれないけないと思う。

自分で自分に制限をかけてしまうこと。

私の人生の師である、フランス語の先生から研修の前に言われたこと。

「自己紹介のときに、必ず、フランス語が母国じゃないということを伝えろ、そして、言葉がうまくしゃべれなくても決して謝るな。」

教職を受けようと決めたとき、どうやってアクセントや語彙力のなさを隠そうかとそればかり考えていた私は度肝を抜かれた。

「え?それじゃ、『先生』としての威厳がなくなっちゃう!」

師匠に言わせれば、言葉の問題なんて特性のひとつだという。堂々と自分の特性を生徒たちに伝える。

今思えば、言葉がしゃべれないことが、「先生」としてマイナスになると思い込んでいたことも「【自己】検閲」だったのだろう。

師匠のいうとおり、毎回、自己紹介で言葉のことをいうと、自分が堂々としていられることに気づいた。2回目からは、「みんなのがフランス語うまいんだから、助けてね!」とちゃっかりお願いまでしていた。

「【自己】検閲」さえしなければ、道は開ける!

Susan Sontag, Cambridge, Massachusetts, ca. 1970s. Donald Dietz.

若い読者へのアドバイス……

(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。

検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。

自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。

動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。

暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。

少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を【もたず】、冷蔵庫と電話のある住居を【もたない】でこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことの【ない】、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。

自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。

恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。

自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。

他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。

傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。

傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしてください。

良心の領界を守ってください……。

2004年2月

スーザン・ソンタグ

【『良心の領界』スーザン・ソンタグ/木幡和枝〈こばた・かずえ〉訳(NTT出版、2004年)】