『ほったらかしの領域』中間報告

EUはEU圏外から渡航禁止を発表したが、

フランスはコロナ禍でも「教育は止めない!」という決断をしてくれたので、

コンセルバトワールでの教育実習のためパリに戻る。

帰りの飛行機の乗客は私含め6名で、キャビンアテンダントより少ない。

フランスの入国審査時に、さまざまな書類を求められていたので、税関でのやりとりを危惧していたが、

「ワタシ、吉野家ダイスキダヨ!スゴイヨ!」といいはら、謎のフランス人にあたり、なんなくクリア。

コロナ禍でも、ラテンの精神、恐るべし。

最後の荷物検査担当のフランス人には、なんの仕事をしているのかと聞かれ、

演劇と答えると、「劇場をあけるために、文化庁はもっと頑張らなきゃいけないんだ!」と本気で怒ってくれる。

演劇教育の実習があって戻ってきたことを告げると、「素晴らしい!頑張って!」と鼓舞される。

PCR検査陰性証明は求められたものの、シャルルドゴール空港についてからの検温もアルコール消毒もPCR検査も一切なし。7日間は自宅待機をして、7日目にPCR検査を受けて、陰性だったら晴れて普通の生活へ、というシステム。

さてさて、『ほったらかしの領域』合宿に関して。

https://mill-co-run.com/2020/12/14/%e3%80%8e%e3%81%bb%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%82%89%e3%81%8b%e3%81%97%e3%81%ae%e9%a0%98%e5%9f%9f%e3%80%8f%e5%90%88%e5%ae%bf%e5%8f%82%e5%8a%a0%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%90%e3%83%bc%e5%8b%9f%e9%9b%86%e4%b8%ad/

12月中旬にメンバーを募らせていただいた『ほったらかしの領域』合宿ですが、緊急事態宣言にもかかわらず1月23日24日に、無事決行することができました。

緊急事態宣言下において、この合宿を実施するか否かということが、

今振り返ると、まさに、今回の合宿の一番の問いである「意志」を考える第一歩となった。

そもそも、この合宿は、「あなたは『la volonté(意志・意欲)』が強すぎて、身体の声を聞けていない」と歌の先生に痛い指摘をされたことがきっかけとなっている。

そこから、この先生からの指摘と、「中動態」を介して向き合えないか、というところから出発した。

國分功一郎先生の中動態に関する言及によると、

中動態が残っていた古代ギリシャの世界では、「意志」という概念が存在していなかった。

意志とは、西洋文化において、責任のありかをはっきりさせるための装置であった。

つまり、実際には、さまざまな要素が積み重なり、ある行為が行われたとしても、その責任の主体を明確にするために、「意志」を持った人が社会では必要なのである。

今回の合宿を「意志」を持ってやろうとした人物は、発起人である「私」である。

そこに、企画段階から関わってくれた主要メンバー3人。

さらに、私たちの問いに賛同し、合宿に参加してくれることになった7名の合計11名で、企画は進行していた。

1月7日、新型コロナウイルスの感染拡大に伴って政府の「緊急事態宣言」が再発令された。

その前日、合宿の開催場所である藤野倶楽部・柚子の家のため、神奈川県相模原市を訪れていた。

すでに、緊急事態宣言が発令される噂が飛び交っていたので、どうせ合宿中止するのに、下見だけ行くのも辛いなと思いながら足を運んだ。

私の諸々の予想に反して、藤野倶楽部を経営されている方から、非常に暖かい待遇を受ける。

感染対策を万全にして、東京から皆さんがくるのを心待ちにしています、とのこと。

自分の「意志」とそれに付随する「責任」の所在が、少しづつ自分以外の場所へと広がっていくのを感じた。

この企画は、完全に個人的な試みだったので、なにかあった時に、責任の所在が「私」ひとりになってしまうことを恐れ、ごく自然に合宿の中止もしくは延期を考えていたが、企画メンバーは「やりましょう!」と彼らの「意志」を表明してきた。

これが大きな後押しとなり、企画メンバー全員の「意志」として、合宿は実施される方向となった。他の参加メンバーも、彼らの「意志」と「責任」のもと、全員がPCR検査を受け陰性を証明したうえでの決行となった。

そして、藤野倶楽部の方のすばらしいおもてなしのもと、誰もが時間がたりないと感じる一泊二日を過ごした。

しかも、当日は雪。

合宿を通して、「あなたは『la volonté(意志・意欲)』が強すぎて、身体の声を聞けていない」という先生の言葉は、「意志が強すぎて、自分の『欲望』を聞けていない」とも言い換えられるのではないかということに気づいた。

「意志」というと、「責任の所在」を求められるが、

「欲望」に基づいた行為には、「責任」は伴わないのではないか。

昨年11月から準備してきた「ほったらかしの領域」、プレイベントや勉強会を重ね、私は本当に「やりたかった!」のだと思う。

それは、やりたいという「欲望」を、「意志」と取り違えて、「責任」の付随を恐れ、一時はあきらめそうになったけど、周りの人の「欲望」に支えられて、実現にたどり着いた。

コロナ禍において、なにかを自分の「意志」で実施する時、「責任」のありかを無視することはできないけれど、

こんな時代だからこそ、「欲望」でつながれる人間関係を築けたことに心から感謝します。

「ほったらかしの領域」合宿の内容に関しては、今後アーカイブとして、一般に公開することを予定しています。

『ほったらかしの領域』:教師は「教えるべきこと」について、「すでに知っているはず」の存在か。

先週日曜日2020年M1が終わった。

M-1グランプリ』は吉本興業が主宰する漫才の日本一を決める大会である。

私はすべての大会を見届けてきているが、

今年は、教職研修の真っ只中ということもあり、

漫才よりも審査員の方により目がいってしまった。

まず、審査員が現役の「芸人」であるかということが重要なポイントになってくる。

若手芸人は漫才にしてもコントにしても、みんな「ネタ」をつくり、舞台に立ちながら芸を磨き、M1やキングオブコントのような、いわゆる「賞レース」に参加する。

「賞レース」はテレビで放映されるため、ここで結果が残せれば「芸人の人生が変わる」と言われている。

テレビに出演する仕事が増えるからである。

テレビ番組で面白いことをいうことと、劇場で観客の前で「芸」をすること。

このふたつは、違う種類の専門性を伴う仕事であるように感じる。

このメカニズムを演劇に置き換えれば、劇場で舞台俳優として「芸」を磨き、テレビドラマに出演が決まる、

という、「今までやってきたこととは別のアウトプット方法を求められる」キャリアアップなのかもしれない。

今回のM1審査員のなかで、漫才の舞台に立ち続けることに関して「現役」であったのは、「オール阪神・巨人」のオール巨人師匠である。

この人の立ち振る舞いから学ぶことが非常に多かった。

まず、若手の漫才をとにかく観ているということ。

ほぼ無名に近い若手芸人の過去の芸風や、作品まで、非常に詳しい。

また、他の審査員が無名の若手を「ツッコミの方」「ボケの方」と呼ぶときも、オール巨人師匠は、絶対に名前で呼ぶ。

「お笑い賞レース」という、審査員と参加者の間に、すでにヒエラルキーが存在する場所で、「人を名前で呼ぶ」という当たり前のことから感じられる敬意は計り知れない。

また点数の付け方も的確で、全く「テレビ用」ではなかった。オール巨人師匠が「学びのプロセス」の中に身をおいているということが、発言の端々から感じ取れた。

作品を観る、名前と顔を覚える。

このふたつは、自分が「現役」であり続けるためにもお手本にしたい。

フランスの演劇教育者国家資格取得のための研修では、

とにかく、教育者でありながら、演劇に関わるアーティストとして「現役」であることの重要性を強調される。

演劇教育に関する考察という論文の課題でも、自身の「現役」としての活動と結びつけた、演劇教育を考案することを求められる。

私が生徒さんたちと過ごした日々を振り返ると、教育者が「現役」でいることの意味とは、

「教師は教えるべきことについて、すでに知っているはずの存在である」という当たり前を疑うという点にあると思う。

「現役」である限り、どんなに生徒たちより経験と知識があっても、芸に対して、すでにすべて知っているということは、ありえない。

「現役」とは、日々、悩んだり模索したり、恐怖を感じたり、失敗したりしながら、芸を磨いている「過程」にいる人のことである。

その「現役」の言語感でもって、確信ではなく、疑いを持ちながら、生徒に言葉を伝えていく。それは、正解ではなく「過程」を教えているとも言える。

こんなお笑い大好きな私が、木村覚さんの『笑いの哲学』(講談社選書メチエ,2020) を読みながら、再度「笑い」について勉強していたとき、

まさに生徒さんたちに伝えたい、うつ治療で有名なデビッド・D・バーンズ氏の「レッテル貼り」の危険性に関する文章が引用されていた。

レッテル貼りは自己破壊的であるばかりでなく、不合理な考え方です。あなたの自己はあなたの行為と決して同一ではありません。人間の考え、感情、行動は常に変わっていきます。言い換えれば、あなたは銅像ではなく、川の流れなのです。

私たちは、「銅像ではなく、川の流れ」。

今日確信していた考えや体感が、明日になったら、180度かわっているかもしれない。

教師という「権威」をもつ立場になっても、この「非確実性」しっかりと認められることが重要。

私たちは、「川の流れ」の中にいるのだから、変化して当たり前。

このように考えていくと、教師は教えるべきことについて、すでに知っているはずの存在でなくてもいいんじゃん?と私は考える。

教師が、自分の「現役」として日々感じる「困難」を自覚することこそが、流動的でクリエイティブな場をつくってくれるのかも。

私も外国人として非常に悩まされた「教師は生徒の前でどう振る舞うべきか」という問いに、「現役」として答えたい。

『ほったらかしの領域』合宿メンバー募集は、本日23時59分にて締め切らせていただきます。

たくさんに方に興味を持っていただき、とても嬉しく思っています。以下詳細 ↓

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『ほったらかしの領域』:言葉(聴覚)で導くか、身体(視覚)で導くか。

『ほったらかしの領域』合宿に向けて、演劇の教職研修で学んだことを回想している。

今回の合宿は、身体表現における意思ではない領域を、ワークショップと対話を通じて探索しようという企画なのだが、私が教職研修を通して、身体系の実習で常に考えていたことが以下である。

言葉で指示を出すか?/やってみせるか?

例えば、ヨガのクラスを思い浮かべて欲しい。

チャンネル登録数は58万人、動画再生回数は1億回を突破する日本一のヨガユーチューバ―と言われる

Mariko先生のyoutube動画は完全に「やってみせる」タイプである。

「やってみせる」ことに関しても、さまざまな工夫が施されており、

視聴者は、左右を気にせず、鏡のように、視覚的に捉えたポーズをストレスなくとることができる。

同時に口頭で行われる解説も、視聴者の左右に合わせて、Mariko先生が左右を逆にしてガイドしてくれるので、どんなにややこしいポーズでも迷うことはない。

さらに、ヨガマットを縦に使うか、横に使うかに合わせて、口頭のインストラクションでの左右は変化する。

太陽礼拝など、縦にヨガマットを使う場合は、視聴者と同じ左右を用い、

あぐらの姿勢で、ヨガマットを横に使い中央に座る場合などは、鏡になっているので、視聴者とは反対の左右を口頭で操る。

ここまで完璧なインストラクション動画だと、ほぼ頭で考えることはない。

Mariko先生のように完璧にポーズをとることはできなくても、とにかく「見様見真似」でやってみるのである。

毎日youtube動画をみて、繰り返しポーズをとっているうちに、だんだんとMariko先生のポーズに近づいてくる。

しかし、教職のヨガ教授法のクラスを担当した超イケメン元ダンサー、ブライアンはMariko先生とは対照的な方法で、私たちにヨガ教授法を伝授した。

初めての実習で、目を閉じることを促され、それぞれがヨガマットに横たわる。

間違ってもいいから、これから彼がいう言葉をきいて、体を動かしてみるようにといわれる。

ブライアンから紡ぎ出される言葉だけで、正解のわからないポーズを探索していくのは、

ヨガ経験のある私にとっては多大なストレス。

〇〇のポーズをやります、とか最初にいってくれれば、すぐに最終目的地(ポーズ)がわかって、身体を動かすことができるのに。

そっと目を開けて、声のする方を見ても、彼の端正なルックスがあるだけで、彼は一切ポーズをとっていない。

言葉によるインストラクションだけで、身体を動かすのは、非常に難しく、正解とか程遠くおもえるポーズをとる生徒たちが多発するなか、ブライアンは一貫して言葉のみによるインストラクションを少しづつ言葉に変化をつけながら続ける。

1時間のクラスが終わると参加者全員が輪になってフィードバック。

生徒たちは、自分の思うように動かせなかった自分の身体へのイライラを遠慮することなく吐露。

ブライアンは傷つく様子もなく極上の笑顔で肯いている。

このイケメン、メンタル強いな、と感心していると、ブライアンはただのヨガの先生ではなかったことが発覚。

彼は、コンテンポラリーダンサーなら誰でもご存知、イスラエルのバッドシェバ舞踊団率いるオハッド・ナハリンが開発した独自の身体開発メソッド「GAGA(ガガ)」インストラクターとしても活動するヨガ講師だったのである。

バッドシェバ舞踊団は、過去に何度も来日していて、2017年に公開されたドキュメンタリー『ミスター・ガガ 心と身体を解き放つダンス』で、「GAGA(ガガ)」の存在を知った人も少なくないだろう。

ちなみに、Netflixのダンスドキュメンタリーシリーズ『MOVE-そのステップを紐解く-』でも、バッドシェバ舞踊団と「GAGA(ガガ)」を視聴することができる。

まさに、この「GAGA(ガガ)」こそ、言葉で振り付けしていくダンスの時間なのである。

「GAGA(ガガ)」は、ダンサー向けと一般向けのクラスが考案されており、

演劇を志す俳優の身体訓練にも非常に効果が高いと言われている。

photo by GADI DAGON

「GAGA(ガガ)」の特徴は、自発的に己の身体の声に耳を傾けさせること。

振付家に与えられた身体の動きを自分の身体にコピーするのではなく、

振付家が言葉でなげかけるイメージによって、自分の身体と対話しながら、動きの可能性を探っていく。

「GAGA(ガガ)」にはいくつかのルールがある。

ー鏡は使わない。

ー講師はイメージと動きのタイミングを言葉によって受講者に投げかける。

ー60分ノンストップで動く。

ークラスが始まったら、私語、質問、見学はできない。

ダンス経験の全くない50代後半の教職研修生ふたりも、いつのまにか「GAGA(ガガ)」に首ったけ。

フィードバックの時間にブライアンに質問。

なんでヨガのポーズを、「やってみせる」のではなく、言葉で指示を出すの?

ブライアン曰く、言葉で出された指示を頭でイメージ身体に転化していくのには、長い時間がかかる。

1回目のレッスンではできないかもしれない。

それでも、そのプロセスを踏むことで、そのポーズがより長く身体に残るのだという。

見様見真似でやったポーズは、自分の身体感覚と必ずしも一致していなくてもとれてしまうから、

忘れるのも非常に早い。

まさに、「急がば回れ」。

私は、自分でもつくづく、この「急がば回れ」が苦手だと思う。

やってみせられると、他人の身体にお邪魔しやすい。

これは、本を読む時と一緒で、本に書かれている文章をそのまま引用すれば、

他人の感覚にお邪魔したまま感動したり、伝えたりできる。

そうではなく、自分の身体にいったん取り込んでから、自分の言葉に翻訳して、アウトプットするというプロセスがまさに重要なのだろう。

教えることと学ぶことは表裏一体。

自分が教育に携わるうえで、どのように教えるかという問いと、どのように学ぶかという問いの両方を同時に探索することを常に求められる。

自分のからだの声を傾聴し、その微妙な差異をことばで表現してみるというプロセスを伴う学びに挑戦してみる『ほったらかしの領域』合宿、参加メンバー募集中です。

詳細はこちら:https://mill-co-run.com/2020/12/14/%e3%80%8e%e3%81%bb%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%82%89%e3%81%8b%e3%81%97%e3%81%ae%e9%a0%98%e5%9f%9f%e3%80%8f%e5%90%88%e5%ae%bf%e5%8f%82%e5%8a%a0%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%90%e3%83%bc%e5%8b%9f%e9%9b%86%e4%b8%ad/

『ほったらかしの領域』合宿参加メンバー募集中‼︎

みなさん、こんにちは。フランスで俳優をしています、竹中香子です。

今年は、フランスの演劇教育者国家資格取得のための研修を受けていて、日々、教育について考えています。

演劇の教職では、実技・理論と共に、今まで俳優として当たり前にやってきたことすべてを「言語化」する作業が求められます。中でも、身体へのアプローチや感覚を「言語化」することの難しさを目の当たりにしています。

ある日、地域で一番予約がとれないことで有名な歌の先生による発声教授法のクラスにて、自分が俳優として一番言われたくないことを指摘されました。

「あなたは『la volonté(意志・意欲)』が強すぎる。」

さらっと一言いいはなち、また他の生徒に指導を始める大先生。ここ10年くらい「意欲」だけで突っ走ってきた俳優としてのキャリアを完全否定された気分になりましたが、勇気を振り絞り、「ちょっとその話詳しく聞かせて頂きたい」と苦笑いで志願してみました。

『la volonté(意志・意欲)』が強い人は、努力もするし、よくできるんだけど、それ以上にはいかない。なぜなら、身体の声を聞けてないから。常に、「I must…」でものを考えている。舞台に立つ人間は、「I dream…」でものを考え、自分の意志ではなく、「こうやれたらいいなあ」くらいで、体に身を委ねる必要があるとのこと。

なんと!たしかに、私は、先生に与えられる「正解」に向かって努力するのは得意だけど、自分の中にある「正解」を見つけるために、自分の身体に耳をすますことは超苦手。ずっと「能動的」に生きてきた人生を振り返りながら、私が尊敬してやまない哲学者・國分功一郎先生の『中動態の世界 意志と責任の考古学』の本から、「中動態」という言葉を発見しました。中動態に関するインタビューで國分氏は以下のように答えています。

 能動態と受動態の対立に支配された僕らの思考に対して、能動態と中動態の対立を別の思考の型として持ってくることで、普段、見えなくなっているものを見えるようにできるのではないか。僕はそんなことを考えながら『中動態の世界』を書いたんです。 

 その中で僕が最も強調し、また強く批判的に論じたのは「意志will」という概念です。「する」と「される」の対立、能動と受動の対立は意志の概念と強く結びついているのではないかというのが、僕が本の中で提示した仮説でした。というのも、能動というのは自分が自分の意志で行うこと、受動とは意志とは無関係に強制されることを意味するからです。それに対し、中動態では、先ほどの「惚れる」がいい例ですが、意志が問題になりません。(http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/

ふと考えてみると、自分の「意志」によって行動していることなんて本当に少ない。「歩く」行為ひとつとってみても、自分の意志で歩いてるかと言われると自信がない。ある状態が「現れる」かもしれない「プロセス」(あえて意志を問題にしない場所)に身をおいてみること。意志の領域のそと、「ほったらかしの領域」で、私の身体は何を発見するんだろう。

と前置きが長くなりましたが、そんな「ほったらかしの領域」に、私を誘っていただくべく、創作及び身体との関係において、「プロセス」を重視しているアーティスト、武本拓也さんと奥野美和さん、フィードバックモデレーター兼アーカイブ執筆担当として、ドラマトゥルクの朴建雄さんをお招きし、意志と身体を探索する一泊二日の合宿を企画しました。

企画概要

この合宿は、創作過程・作品ともに、「プロセス」に重きを置いているアーティストと参加者が、実践(ワークショップ)と対話(フィードバック)を通し、「意志」と「身体」の関係について、言葉にしてみながら過ごす一泊二日の「プロセス」である。また、未来の「観客」の存在に向けて、新しい思考・実践の道具を作り出すための記録/発信(アーカイブ)を試みる。

日時:2021年1月23日~24日(一泊二日)

場所:藤野倶楽部 柚子の家(JR藤野駅より車での送迎あり)

参加費:食事代(3食+おやつ+宅配料)65oo円 ※宿泊費は主催者側が負担。

参加メンバー

ワークショップ担当:奥野美和、武本拓也、竹中香子(プレワークショップ)

フィードバックモデレーター・アーキビスト:朴建雄

(全員で12名程度を予定しています)

内容詳細

企画内容の詳細、タイムテーブルや参加メンバープロフィール・コメントなどを以下のグーグルドライブに保存した企画書に掲載していますので、よろしければご確認ください。https://drive.google.com/drive/folders/1rccdwyr3vqyu3kp_JbjvRAHVNkZXg4tl?usp=sharing

参加メンバー募集中!!!

私たちと一緒に『ほったらかしの領域』合宿に来てくれるメンバーを若干名募集しています。ワークショップ受講者ということではなく、「共同研究」といった感じで関わっていただける方にぜひ参加していただきたいです。参加メンバー募集にあたり、プレイベントとして企画メンバー4人でのオンライントークを開催します。ご興味ある方は、まずプレイベントに来てみてください!

プレイベントについて

12月21日(月)21:00~22:00 

  • 「身体のプロセス」

上演するパフォーマーにとっての「身体のプロセス」について話します。

12月22日(火)21:00~22:00 

  • 「創作のプロセス」

パフォーマーの上演を観てフィードバックする「創作のプロセス」について話します。

ZOOM オンライン開催 無料

(参加を希望される方は、お名前を添えて「連絡方法」のメールアドレスまでご連絡ください。参加用URLをお送りします)

連絡方法

『ほったらかしの領域』のメンバーになってみたい!という方は、以下のアドレスに、タイトルを「ほったらかし合宿」として、下記3点を本文に記載の上、12月25日(金)23:59までにご連絡ください。12月中にお返事させて頂きます。

連絡先メールアドレス:hottarakasi2021@gmail.com

  • お名前
  • 普段どういうことをしているか
  • 『ほったらかしの領域』で考えてみたいこと

(字数制限はありません)

わたしが「民主主義」という言葉をつかう理由

コロナウィルスが「普通の」生活を完全に呑み込むまで、3日もかからなかったと思う。3月の初め、わたしはフランス・ブルターニュ地方の1000人規模のホールで公演をしていて、次のツアー公演までの1週間の休みをパリの自宅で過ごしていた。つい数日前まで、わたしたちは頬と頬で挨拶のキスを交わすたびに、おっと、コロナがうつっちゃう!と冗談を言って笑っていた。ところが、あっという間に感染者数は幾何級数的に増えていった。200人が400人、400人が800人、800人が1600人にという具合に。そして、3月13日金曜日、ベッドの中で、スマホの画面から公演中止のメールを読んだ。ベッドから起き上がれないまま、演出家に次の公演の時に伝えようと思っていたアイディアをショートメールで送りながら、なぜ今みんなと一緒にいることができないのかどうしても納得できなかった。昨年は、黄色いベスト運動によるデモで、1日だけ公演が中止になった。あの時は、みんなで決めた。楽屋の前の廊下で、大きな身体のフランス人たちが地べたに座って、横に長い円になって長い時間話し合った。今回はそれもできなかった。どんなに小さなことでも、話し合って決めてきたのに。公演の機会を奪われることよりも、わたしたちがなによりも大事にしてきた「話し合い」をコロナに奪われたことが、一番辛かった。

気持ちが整理できないまま日本に帰国したわたしは、民主主義について考えていた。かといって、政治について考えていたわけではない。2018年夏に放送されたNHKの番組で、「哲学界のロックスター」こと、マルクス・ガブリエル氏は、民主主義について聞かれ、以下のメッセージを残している。

 

日本に張り巡らされた網の目は窮屈かもしれない

だが そこにある見えない壁(ファイアウォール)を乗り越えないといけない

それを毎日アップデートすることが大切

日々 家族でも友人でも 冷笑的で反民主的な態度に出会ったら、ノーと言おう

みんなと違っても言おう

「自由」に考えることに最上の価値を置くべきです

(NHK BS1スペシャル「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」2018年7月15日放送)

 

今まで、社会主義とか、民主主義とか、政治体制など考えたこともなかったが、いきなり「民主主義」という言葉がわたしの身体に、ドゥルーズのいうところの「不法侵入」をし、ジジェクのいうところの「事件」を起こした。政治的な言葉だと思っていた「民主主義」が、哲学的な言葉として存在していた場面に遭遇したのだ。かつて、ミッシェル・フーコーは、哲学の役割をこのように定義した。

 

すでに久しい以前から哲学の役割は、隠れていたものを露呈させることではなく、見えるものを見えるようにすることだった。(中略)見えないものを見えるようにするのは科学の役割なのだ。(ミッシェル・フーコー,渡辺守章『哲学の舞台』朝日出版社,2007 p.148)

 

マルクス・ガブリエル氏は、毎日のように見聞きしていた「民主主義」という概念を、わたしに「見える」ようにしてくれたのだ。「日々、家族でも友人でも、冷笑的で反民主的な態度に出会ったら、ノーと言おう」には胸をつかれた。わたしはできていなかったから。

日本では、舞台で体験する演劇が好きだった。フランスに行ってからは、表舞台よりも舞台裏で営まれる「演劇」の虜になった。そこは、「民主主義」が実現されている場所だった。いつも笑顔でみんなのやりとりを聞いているだけだったわたしは、「冷笑的で反民主的な態度に出会った」とき、演出家でも、憧れの先輩俳優でも、ちょっととっつきにくい技術スタッフでも、徐々に「ノー」と言えるようになった。そして、わたしたちの中心には、作品に関係することでもしないことでも、どんな時でも「話し合い」があった。だから、コロナ禍で演劇の仕事が一切なくなったとき、わたしが、なによりも欠乏感を感じていたのは、「民主主義」だったのである。

豊岡演劇祭において、演劇を通して「民主主義」を考える、そして、感じる場を与えていただいたこと、心から感謝します。たとえ未熟でも、言葉にしようとしたことだけが、考えることにつながります。「言葉にしようとする」行為の連続が、なんだか大事そうだけど、超とっつきにくい「民主主義」という言葉を、もっと「見える」ように手助けしてくれるはずだと信じて。

https://note.com/toyooka_tf/n/n6086be229650