「同化」のススメ。

今月は、公演のため、毎日17時出勤深夜1時あがりというリズムが続いていたので、

午後にひとりで過ごすことがおおく、おかげで今後の人生の教科書になるであろう2冊の本に出会った。

FullSizeRender.jpg『ちぐはぐな身体 ─ファッションって何?』 鷲田 清一 著

『日本の身体』  内田樹 著

 

子どものころ、一番遊んだおもちゃといえば、リカちゃんハウスと10体以上あったと思われるリカちゃん人形たち。

ハウスの方は、もはや人形をしまっておくだけのもので、私の興味はもっぱら人形たちと着せ替えのための洋服にあった。

「着せ替える」という行為そのものが、遊びの中心だったため、ほぼすべての人形は基本全裸で、持ち主に「着せられたり」「脱がされたり」を繰り返されていた。

なかでも覚えているのが、母が出張のために海外から買ってきた規格外の人形のための服。

サイズの大きすぎるチマチョゴリをリカちゃんに着せることに、強烈な喜びを感じていた。

はたまた、リカちゃんパパの背広をリカちゃんに着せ生じる違和感が大好きだった。

今、思えば、この「服」と「身体」が、私が演劇に夢中になった原点なのだと、この2冊の本を通して感じた。

 

私にとって、俳優とは、「衣装」を着る「身体」である。

今でも、心情(中身)を構築して、他者(自分でない何者)になりきるというような演技は、はっきり言ってできない。

だから、登場人物がどんなに苦しい状況にいて、悲しい気持ちになっているシーンでも、私自身は悲しくないので、泣けない。

登場人物の気持ちになりきって、泣くことはどうしてもできない。

私にとっての演劇は、私自身の「身体」が、私でない人の「服」を着ることであるから、泣く「演技」で十分だと思ってしまう。

こういう考え方が、俳優にとって、いいのか悪いのかは別として、

自分にとっての「俳優」の魅力というものを、再確認できるきっかけとなった素晴らしい本だった。

 

ずっと読んでみたかった鷲田氏の『ちぐはぐな身体』では、

まず、身体が<像(イメージ)>であることを定義される。

自分の身体というのは、自分にとって一番近いようで一番遠い存在なのである。

顔となれば、自分の目で直接見ることさえもできない。

そんな掴みきれないジラジールな存在である自身の身体を補強するために、人は「服」をきるのである。

つまり、なんだかのアイデンティーを「服」によってもたせている。

 

内田氏の『日本の身体』からは、実に身体が他の身体と同期することを欲しているかということが各方面の達人たちとのダイアローグによって見つめられる。

私的観点からみれば、「劇場」と「舞台芸能」の社会における必需性を見事に立証している一冊だと思う。

日本人の身体はもともと、勝敗を決めるスポーツ、つまり、自他をわけるスポーツに向いていないらしい。

例えば、著者は能楽と合気道に長く親しんだいるのだが、主に日本の武道というものは、勝敗をつけるというより、相手と呼吸を合わせることに特化している。

例えば、合気道の以心伝心の基礎稽古の目的は、互いの「五感の延長」、「拡大」、「同化」にあるという。

つまり、戦う対象と「同化」することで、相手の身体に起こっている感覚までわかってくる。

彼の師匠である、合気道家の多田宏氏の言葉。

呼吸法をよく行っているとびゅーんと、動きにノビが出てくる。そのノビが出る時に、相手(対象)と同化するんです。同化ですから、当然相手と対立的な感覚はありません。相手と一つになると、湧出といって、潜在意識の中から、習ったことと経験したことが融合されて新しい行動や発想が湧き出て、さらにそれが元になってより新しい世界が表れてくるのです。

つまり、合気道は、戦う技術というよりも、「同化」する技術を磨く。

 

これは、まさに、舞台作品がうまくいっている時に生じる感覚に非常に近い。

観客は、舞台で起きていることに「入り込もう」と努力するのではなく、

身体的に「同化」してしまっている感覚。

私が尊敬する俳優たちが、「緊張」という言葉から程遠い場所で、淡々としている姿も、この「同化」というキーワードにヒントが隠されているのだと思う。

つまり、自分に集中すると、自分が失敗する恐れや、自分が最高のパフォーマンスができるかという方向に意識がいってしまい、他者、もしくは、外に「同化」するエネルギーに欠けてしまう。

そもそも、演劇は、団体技なので、この「同化」への寛容さというものが、自分の最高のパフォーマンスにもつながっていくのだろうと想像する。

 

俳優=個性的な存在?

正直、私は、「個性」を強めることに疲弊しているし、そもそもなぜ「個性的」になる必要があるのかと思う。

「服」を着替えるだけで、自分とは違う誰かに、簡単に変身し、そんな「個性」のない「身体」だからこそ、他者と惜しみなく「同化」し、観客にまで、その「呼吸」が届いた時の、心地よさはこの上ないものだ。

 

『日本の身体』の中で、茶道家の千宗屋氏の言葉。

呼吸が同期し、脈拍が同期し、身体感覚が同期するのがどんなに気分のいいことか、人間が共同体を作った時の原点に、もう一度戻ってみないか、ということになったわけです。

 

 

 

 

 

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終戦記念日と個人史について

毎年、終戦記念日は日本で迎えていたのだが、

今年はめずらしく仕事の都合でパリで過ごすこととなった。

たまたま、パリに戻ってきてから改めて読み始めた本が、

イケメン社会学者、小熊英二氏の『生きて帰ってきた男』

『生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書、2015年) 

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この本は、著者が自らの父の人生を、こと細かくたどるという形式がとられている。

つまり、名もない一人の男の人生が一冊の本になったということである。

偶然にも、7月に日本に帰った時、

父が、自分の母親、つまり私の祖母の人生を編集者の手を借りて、

自伝におこす作業に立ち会わされた。

くだらないと思えるようなちょっとしたエピソードでも、編集者の方は、何度も質問を変え、より具体的な記憶をたどっていくという、なんとも忍耐のいる作業である。

私の父自身、名もない人々の歴史に焦点を当て続けてきた人で、

2012年に、名もない人々を記録し続けた『人名事典「満洲」に渡った一万人』という本を出版した。

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本の分厚さと価格に驚愕したことをよく覚えているが、

小熊英二氏の父、謙二氏の半生を読み進めていくと、

「戦争」という得体の知れない、怪物を理解するにあたって、

名もない人たちの「経験」と「記憶」がいかに重要であるかを思い知らされる。

 

特に、興味深いのが、戦争が始まる前の記述である。

私たちの世代にとって、戦前というと、どんなに原始的な生活をしていたのかと想像しがちだが、

まるで、サザエさんとかちびまる子ちゃんにみるような、

裕福ではなくとも、自ら社会に流れたり、もしくは、流されたりしながら、

世間の中で、たくましく生きてきた人たちの姿がある。

そして、誰もが、戦争というものが、実際に起こるなどということを危機的なまでに想像していなかったという現実がある。

戦争を経験した世代の方々が、今の日本は戦前の空気と似ている、という記事をよく目にするが、

まさに、戦争という怪物は、目に見えない敵なのだと、この本を読んで認識せざを得ない。

 

もし、今、戦争が始まったとして、

私は、「名もない人々」のひとりとして、

戦争に巻き込まれることになるのならば、

戦争が始まっていない今だからこそ、

当時の政治家や知識人からではなく、

「名もない人々」から過去を学び、

「名もない人々」として、尊厳ある行動をとりたいと思う。

そして、私たち「名もない人々」こそが、世の中の大多数をしめるのだから、

目に見えない敵に対してだからこそ、「名もない人々」の力を信じてみてもいいのだと思う。

 

とにかく、大熊氏のこの本は、

一瞬にして、人間を匿名化してしまうような、

「戦争」という怪物を前にしても、

自分の名前を忘れないための希望である。

演劇でいうなら、コロスとして「民衆」役としてではなく、

役名のある「個人」として生き続けることへの希望である。

 

 

 

 

 

 

 

 

親が有名じゃなくても、子どもは有名になれるか。

パリ・オペラ座バレエ団の第1舞踊手に、

日本人で初めて選ばれたオニール八菜さんのインタビューの言葉が印象的だった。

 

「バレリーナになることを夢見たことはありません。」(2016年1月29日朝日新聞

 

あまりにも印象的だったので、

この話を友人たちにしてみたところ、

やはり、気も遠くなるような大きな夢があった時、

「夢のまた夢」と思わなくてすむような生活環境に身を置くことが、

大切だという意見で一致した。

冗談交じりで、

「じゃあ、やっぱり親が大物の場合は、子どもも大物になる?」

なんて、話に発展。

 

フランスの国立系の演劇学校を受験の際には、

親の職業を書かされるのが普通である。

2次試験の時、

サングラスをした大物女優が、

子どもの受験の付き添いで来ていて、

呆気にとられたことを覚えている。

 

確かに、自分の身近に、

自分が将来的に夢みているような立場に、

すでに置かれている人がいると、

夢と現実の境はかなり曖昧なものになるだろう。

 

夢を「夢」のままにしてしまう、

決定的な要因はなにか。

そんなことをぐるぐると考えている時に、

友人にスーザン・ソンタグという人の名前を教えてもらった。

アメリカの知識人で、

生涯を通じて、人権問題に深く切り込んでいった女性である。

 

彼女は、著書『良心の領界』の序文で以下のように書いている。

 

若い読者へのアドバイス……(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

 人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。

 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。(後略)

【『良心の領界』スーザン・ソンタグ/木幡和枝〈こばた・かずえ〉訳(NTT出版、2004年)】

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おそらく、「夢」を「夢」として、

私たちから遠ざけてしまうものが、

まさに、彼女のいう「【自己】検閲」なのではないか。

 

私たち現代人が。

昔の人間たちより、

優れている点がもしあるとすれば、

それは、理性と適応能力が高い。

 

そして、この理性と適応能力こそが、

【自己】検閲と深く結びついているように感じる。

 

TPOに応じて、

私たちは無意識に、もしくは意識的に、リミット機能を作動させる。

「夢」に対しても、同じである。

他者が存在する限り、

理性の外側に出ることは困難を極める。

そして、理性を言い訳の道具にさえ、すり替えてしまう。

「『普通に考えて、』私には無理だろう。」

というような具合に。

 

女性がある程度の年齢、

つまり、結婚や出産に適齢であると思われる年齢に社会に出れば、

小さなことで、

【自己】検閲をし、

自分が思い描いていた道を逸れてしまう可能性なんて、

容易に想像できる。

 

先日、読んだ、  元 NHKアナウンサーで作家の、

下重暁子さんの著書『家族という病』には、

彼女の確固たる【自己】検閲への排除の姿勢が伺え、

いいタイミングでいいモデルに出会えた気分だった。

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黒田夏子さんとの共著のタイトル、

群れない媚びない こうやって生きてきた』からもわかるように、

「群れない」「媚びない」というのは、

【自己】検閲をさけるための、

具体的な手段かもしれないと思う。

 

 

最後に、最初に紹介した、スーザン・ソンタグ氏の『良心の領界』の序文は、

全文が素晴らしいので、引用させていただきます。

 

 

若い読者へのアドバイス……

(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

 

人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。

検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。

自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。

動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。

暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。

少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を【もたず】、冷蔵庫と電話のある住居を【もたない】でこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことの【ない】、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。

自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。

恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。

自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。

他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。

傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。

傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしてください。

良心の領界を守ってください……。

 

2004年2月

 

スーザン・ソンタグ

 

【『良心の領界』スーザン・ソンタグ/木幡和枝〈こばた・かずえ〉訳(NTT出版、2004年)】

 

 

 

「ぬか漬け」哲学で、プチ鬱解消。

先週から、舌の先の口内炎に悩まされている。
もともと、ビタミンが欠乏しやすい体質なので、
口内炎には慣れっこだが、
舌の口内炎というものが、
このほんの小さな舌の先のできものが、
ここまで、悪魔的なエネルギーを兼ね備えているとは知らなかった。
というのも、
何をするにも痛い。
水を飲むのも痛い。
食べるのも痛い。
歯を磨くのも痛い。
うがいをするのも痛い。
しゃべるのも痛い。
究極、口の中で、
舌が歯に触れただけでも激痛が走るので、
何もしなくても、痛いのである。
そんなこんなで、
無気力に陥る。
やらなきゃいけないことが、
たくさんあるのに、
進まない。
だるい。
いっそ、風邪でもひいてしまえば、
惜しげも無く休めるのだが、
所詮、口内炎なので、
休むことへの口実にもならない。
常に、
頑張って、
上へ上へと向上していくこと、
簡単に言ってしまえば、
忙しいこと、
つまり、睡眠不足が美徳とされるような現代社会において、
いまいち、
頑張れないときほど、
辛いことはないし、
疲れることはない。
2015年の時間の流れの中に、
口内炎ごときで、
自分を甘やかすことを許してくれる思想は、
ない。
そんなとき、
いつも、本棚から、
適当に、哲学書を一冊抜き取って、
よくわからないまま読み進めるという、
治療法がある。
哲学は、
時間の流れを変える力を持っているから。
二つの歴史がある。
ひとつは政治の歴史であり、もうひとつは文学と芸術の歴史だ。
前者は意思の歴史であり、後者は知性の歴史だ。
だから、政治史は始終、私たちをおびえさせ、おそろしい。(中略)
これに対して文学・芸術の歴史は、たとえ道を踏みちがえたくだりを描いているときも、
隠遁生活をおくる賢者のように常に好ましい晴れやかさをただよわせる。
その根幹をなすのが哲学史である。

以上は、ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの
『読書について』(鈴木芳子・訳)の中の一節である。
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現代の時間の流れから逃れて、
哲学の時間の流れに助けを求めて、
身を委ねた本の内容が、
「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。
自分の思想の手綱を他人の手にゆだねることだ。」
つまり、
安易な読書への痛烈な批判書であり、
アナーキーに富む内容だったので、
思わず笑ってしまった。
人生を読書についやし、
本から知識をくみとった人は、
たくさんの旅行案内書をながめて、
その土地に詳しくなった人のようなものだ。(中略)
これに対して、人生を考えることについやした人は、
その土地に実際に住んでいたことがある人のようなものだ。
そういうひとだけがそもそも語るべきポイントを心得、
関係ある事柄に通じ、
真に我が家にいるように精通している。

俳優が書かれた台詞を語るときに、
書かれた言語を、
自分の身体から出てきたもののように扱えていない時、
「propriété」できていない、
というふうにフランス語で言われるが、
「propriété」とは、主に土地などに用いる「所有」という意味の単語で、
大家さんのことを、「propriétaire」という。
つまり、自分が発している台詞の「大家さん」になりきれていないということ。
ショーペンハウアーが言うように、
他から得た知識を、
「真に我が家にいるように精通している」レベルに持っていくには、
相当の時間と労力が必要なのである。
読んだものをすべて覚えておきたがるのは、
食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ。
私たちは食物で身体をやしない、
読んだ書物で精神をつちかう。(中略)
私たちはみな、自分に興味があるもの、
つまり自分の思想体系や、目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。

そして、思想体系がない人が読書しても、
なにも、自分の中にとどめておけない、
という、とどめの一言で締めている。
「思想」を扱う人の言葉は、
とにかく気長である。
日本でいうなら、
「ぬか漬け」の極意である。
ぬか床(思想体系)ができたところで、
ようやく材料(読書)を入れることができる。
漬け込んだあとは、
毎日手入れすることで、発酵が進む。
そして、風味が増していく。
哲学の時間の流れの中には、
口内炎の痛みで、
本日はどうにもやる気が出ません、
という甘ったれな気持ちを、
包み込んでくれる優しさがある。
寛容な時間のゆったりとした流れがある。
おそらく、
人間は、
こういうときに、
いつも頑張ってるんだから、
今日ぐらい休みなよ、
と誰かに言って欲しい生き物なのだ。
それだけで、ほっとしたりできる生き物なのだ。
ただ、残念ながら、
いつもそういう人が周りにいるとは限らないのが現実。
バーチャルな世界に、
逃げ込むよりも、
今日は、哲学しながら、ぬか漬けを思う。

結婚も出産ももう少し先になりそうな私の魔女入門。

フランス語で、
抽象的すぎるとはわかっていながら、
音とイメージがあまりにもぴったり重なり合うので、
どうしてもよく使ってしまう、副詞がある。
esthétiquement [エステティックモン] (副)
-美的観点から言うと
-美しさの点では
自分的には、「美的に」という訳が、
絶妙にしっくりきている。
こんな、esthétiquementの派生語である、
esthétiqueというタイトルの雑誌が、
日本美学研究所より出版された。
美学文芸誌「エステティーク」Vol.1 特集:美
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「美」と日々向き合っている、
さまざまな職業の方々による、
まさしく、「文章」という媒体を用いた芸術作品。
その中でも、特に心臓を激しく愛撫してきたのが、
現代魔女術研究・実践家、谷崎榴美氏による文章『このましくない感じ』
谷崎榴美(たにざきるみ)公式サイト
http://lumitanizaki.com/
魔女という宗教の一信徒として、
私は「魔女です」と名乗っているのです。

さて、そんな彼女の魔女的観点から語られる、
「美」とは?
「このましくないもの」とは?
聞くところによると美しくなることは全女性の宿願らしい。
魔女として言わせてもらえば、
まず「このましくあること」をやめるべきだ。
中庸は、平均は、無条件の甘やかしを提供する無害な存在は、
先ほども述べた通り、
最も美から遠い存在なのだ。

(『エステティーク』谷崎榴美「このましくない感じ」p.56より引用)
この「このましい」という表現は、
言い得て妙だと思う。
特に、フランスの中にあった私の日本人である身体は、
日本の中に戻ってきて、
この「このましい」という感覚は、
惰性を許しながら、
すっぽりと包み込まれるような安心感と、
理由もなく、抗ってみたくなるような、
思春期的衝動と、
この背反するふたつの感情を絶えず与え続けた。
保存の眠りから目を覚まし、
美を貪り美に溺れ、
美の神とともに生きる事。
その誓いの証として私は、
私たちは、
自らを「魔女」と呼んでいるのだと思う。

(『エステティーク』谷崎榴美「このましくない感じ」p.58より引用)
年明けに、たまたま自分の本棚から見つけて、
たまたま読み始めたら、
ついつい夢中になってしまった本、
鹿島茂氏の悪女入門 ファム・ファタル恋愛論を思い出す。
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『マノン・レスコー』や、『椿姫』『ナナ』、
そして、『マダム・エドワルダ』まで、
フランス文学界を代表するファム・ファタルたちを、
作品ごとに徹底的に分析された一冊。
真のファム・ファタルは、
谷崎氏が言うように、
まさしく一種の宗教であり、
れっきとした哲学のもとに成り立っているのだと、
改めて感じさせる。
今回の日本滞在で思い知らされたことは、
現在の私には、
「名刺」がないということ。
フランスでは、
国立である学校の名前に少なからず守られている部分があるのだけれど、
一歩外に出れば、
私を説明し、
守ってくれるような組織は、
今のところ存在しない。
「帰属」しないということは、
自由なようでいて、
ふと、しんどくなることがある。
だから、
私は「魔女」を目指す。
自分の「名刺」は、
今、あなたの目の前にいる私自身でしかないのだから。
私の口から、紡ぎ出される言葉。
私の顔から、泳ぎ出る表情。
私の目から、示し出される方向。
私の手から、溢れ出るダンス。
私と、
私の夢を守るのは、
私自身。
とは言うものの、
久しぶりにページをひらいた大好きな写真集、
有田泰而『First Born』を見ると、
やっぱり結婚、出産を、
どんなに素晴らしいだろうと想像に浸るばかり。
ありた
くるま
あろた
被写体は、彼の奥さんと子ども。
ちなみに、この写真集の出版に協力したのは、
彼の二人目の奥さんだそう。
モラルが混在する世の中において、
この関係は何とも、
“esthétique….”