第64回岸田國士戯曲賞授賞式について

改めまして、市原さん、岸田國士戯曲賞受賞おめでとうございます。

先日、KAATで行われた第64回岸田國士戯曲賞の授賞式に関して、

俳優、女性、30代前半、そして、無名という立場で、

祝辞を述べさせていただいた立場から、どうしてもリポートしたいことがあってここに記します。

授賞式の数日前、市原さんから、最近演劇界で彼女が感じていることなどを踏まえ、受賞式での祝辞の依頼を受けました。

市原さんの受賞を誰よりも喜んでいるうちのひとりとして、

公の場で、祝辞を述べられるなんて、願ってもないことですが、

祝辞を述べる錚々たるメンバーのお名前を聞き、さすがに躊躇しました。

でも、市原さんに、「私のことは褒めなくていいから、こういう場を利用して言いたいことを言ってほしい」と言われ、心を決めました。

また、今年の岸田戯曲賞は、選考委員のハラスメント問題が浮き彫りになった年でもあります。

この件に関して、舞台芸術関係の友人から話をきいたり、創作現場における俳優という立場の危うさについて、議論を交わしました。

偶然にも、わたしは、授賞式の数日前まで、「『民主的演技』を考えるワークショップミーティング」というオンラインワークショップを開催していて、参加者の方々と3日間、さまざまな角度から創作現場における「民主主義」について考えていたところでした。

その中で、俳優の参加者の方が、声をつまらせながら、パワハラの件に言及し、「わたしたちが声をあげたところで、味方をしてくれる人は本当にいない」と勇気を持って発言してくださいました。

そして、私自身は、パワハラもセクハラも経験したことがないと10年間思ってきましたが、日本を離れる前の日々を思い出しました。

当時は、演出家からの行き過ぎた「ダメ出し」や威圧感、反民主的な態度に出会った時、

自分の俳優としての技量が足りないことに問題がある、もっと強くなるために修行をせねば、と心から思っていました。もちろん、自分が未熟だったことにも要因はありますが、当時はすべて「自己検閲」をして解決していたので、努力すればするほど自信を失っていきました。

そこでフランスに渡り、一から学校に入り演劇を勉強しましたが、そこで学んだことは、「創作現場における俳優のあり方」に関することばかりでした。

祝辞を書き始めた当初は、俳優というより、友人として祝いの言葉を送ろうと思っていましたが、次第に自分の「俳優、女性、30代前半、そして、無名」という立場で発言できることがどれだけ意味のあることか、そして、それを選んだ市原さんの覚悟と勇気と信頼にも応えたいと思いました。

授賞式当日。受賞者という立場でありながら、審査員のジェンダーバランスの話から、ハラスメントの問題にしっかりと言及しました。

「今回、選考委員の方のハラスメントの問題もあったと思います。私もハラスメントのようなことをしてしまったことが正直、あります。それで本人に謝ったこともあります。ハラスメント自体、気を付けていかないといけないというのは当たり前ですが、何かしてしまったときに謝れない、認められないということは良くないことだと思っています」(市原)

この言葉を受け、会場には、権威がある方々もたくさんいて、「は?」と思われるからもしれないけれど、市原さんにだけは、絶対に伝わるから大丈夫!と安心して壇上にあがりました。

そのあとは、相馬千秋さんの業界の圧倒的男性優位を力強く言及するスピーチ。その中で、市原さんの書く台詞は、「言葉が言えない人たちに、言いたくても言えなかった言葉を声に出す機会を与えている」という捉え方が、多義的な意味で本当に的を得た見解だったと思います。

フランスには「La Solidalité Féminine」という言葉があります。

これは直訳すると「女性の連帯」という意味ですが、

女性同士で生理の日程が被っただけでも使ったりするような、日常的によく耳にする言葉です。

あの日、わたしたちの間には、女性同士で「徒党を組む」的な堅苦しい連帯感ではなく、

この日のために、お洒落な洋服を選んだり、特別な日だからしっかりお化粧したり、そういうことも含めて、

非常に温かみのある「La Solidalité Féminine」が生まれていたと思います。

そこに絶対的な信頼と安心感があったからこそ、社会に立ち向かっていけるような「強いパフォーマンス」ができたこと、心から感謝しています。

最後に、わたしが「俳優」という肩書きだけで書いた祝辞の一部を、ここに公開したいと思います。

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皆さん、俳優という生き物は、ベース真面目です。演出家の求める世界観に少しでも近づこうと必死に稽古します。その真面目さゆえに、本来役割がちがうのに、演出家を「先生」と取り違えてしまうこともあります。心から尊敬する演出家なら尚更です。わたし自身、同世代の市原さんに対して、彼女に抱く愛情と敬意のため、彼女を「先生」と崇めてしまったこともあります。演出家の側に、そんな俳優の気持ちを利用するような意図はなくても、このような関係をほっておくと危険です。収益を求めるようなビジネスの場でもなく、収益を度外視した奉仕活動でもなく、チーム一丸となり社会に問いを突きつける芸術創作の場だからこそ、お互いに安心して「NO」と言い合える、それぞれのプロフェッショナリズムを最大限発揮できる関係が必要ではないでしょうか。

沖縄滞在制作も終盤に迫ったある日、決死の覚悟で「もう続けられない」と市原さんに伝え、彼女はそれを受け入れました。しかし、翌日、沖縄の観客の前で、作品の一部を発表したとき、喜びと興奮でいっぱいになりました。そして、どんな苦労をしてでも、この作品を世に送り出したいと思わせる市原さんの戯曲の強度を痛感しました。小説と違って、「戯曲」という媒体で書き続けるということは、その作品を社会に提示するにあたり、人と関わることを選んだということだと思います。そんな覚悟を持った劇作家と仕事ができることは、俳優にとってとても幸せです。

 

 

「公共の芸術」って何?

無事、初日があけました◎
初日があけてから、R15指定だったことを知った。
国のお金で、堂々とR15指定作品を作り、
刺激が強いと出ていった観客の存在を、
「成功のしるし」と喜ぶ仲間たちを片目に、
あいちトリエンナーレへの文化庁補助金停止のタイミングだったので、
「芸術と公共」ということを強く考えさせられた。
私は、この3年半、フランスの公共劇場の作品だけに関わってきた。
今回の作品も含めて、政治的な主張が強い作品もあったけど、
常に、「公共劇場のプログラム」ということに守られてきた。
日本と同じように、フランスでも、パリと地方の芸術格差というものは存在する。
ただ、地方の公共劇場も、
全力でアーティストの表現の自由を守ってきた。
だから、フランスのアーティストは、地方の観客をバカにしない。
一言で言えば、R15指定されるような、「エッジ」の効いた作品を、地方の公共劇場にプログラムするリスクは高い。
観客が、劇場に「芸術」よりも「娯楽」を求めている場合が多いからだ。
しかし、公共劇場は、公共劇場だからこそ、「いい子」のプログラムになってはいけない。
古典もアヴァンギャルドも、
具体も抽象も、
より多様なプログラムを1年間で提供することで、最終的には、「公共的(みんなのため)」になる。
なぜなら、芸術に対する「公共的な」嗜好などというものは存在しないのだから。
芸術は、「みんな(公共)」を喜ばすものではない。
ただ、「みんな」の中の数人のために、
公共的に(国のお金で)存続させていかなければいけないのが、芸術である。
「国のお金は、みんな(が喜ぶもの)のために使うべき」という考え方は、
芸術の本来の意義(=多様なリアクションを引き出すこと)を理解していないと安易に使うことはできないのではないか。
国が、アーティストを全力で守らなければ、
国にとって「いい子」の作品しか生まれない。
国にとって「いい子」の作品は、芸術ではない。
芸術は、いつでも、国にとって厄介な存在であり、
それでいて、国が誤った方向に向かっている時に、
それを、いち早く気づかせてくれる存在なのだ。
だから、国は、国のために、
国にとって「厄介な子」である作品も全力で保護するべきだし、
より多くの人に届ける義務がある。
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語学習得者よ、媚びるな、「尊厳」を持て!

2018年、KYOTO EXPERIMENT、

私は、市原佐都子さんの『妖精の問題』に出演していて、

大好きなドイツのカンパニー、She She Popのメンバーたちが客席に観に来ていた。

「カンジダになったことがある方、いらっしゃいますか?」と、

客席に投げかける台詞で、

そのうちの一人の女性が、英語字幕を見るや否や、凄まじい勢いで手を挙げてくれた瞬間は、

今でも鮮明に覚えている。

終演後、ロビーで、彼らに英語で話しかけられて、

「私も、あなたたちの作品をたくさん見ている!」ということを伝えたかったのに、

「英語が話せない」という事実が頭を占有していたため、

なけなしの「センキュー」しか出てこなかった。

 

その時から、ずっと勉強したかった英語。

今年の夏休みと春休みに、日本に帰国していた時間を使って、英会話に通った。

この経験は、私にとって、「尊厳」の大切さを改めて考えるきっかけとなった。

 

La dignité (IPA: /di.ɲi.te/; Gender: feminine; Type: noun;)

フランス語で、「尊厳」または「品格」という意味のフランス語である。

これは、私が、母国語ではないフランス語という外国語を使って、演技をする上で、

ここ3年ほど、向き合ってきた言葉である。

どんなに専門的に発音を訓練しても、

自分の発している言葉にアクセントは残る。

自分の言語レベルに演技が引っ張られて、

どうしても、幼くなってしまう傾向が強かった。

声の響きや、身体のあり方。

自分の完璧ではない言語能力を誤魔化すかのように、

無意識のうちに、無駄な「笑顔」をつくっていることもあった。

そんな時、憧れの先輩女優から言われたのが、この言葉。

La dignité

「媚びるな、La dignitéを持て!」

結果的に、この訓練は、観客(他者)を心の底から信用することにもつながったと思う。

観客からの分かりやすい好感を得ることよりも、

もっと深い場所で、目には見えない水面下でつながる感覚。

一言で言えば、観客をナメないこと。

 

今回、私が通った英会話スクールは、

マンツーマンで、40分間の授業を60回、さまざまな先生と英語を学んだ。

何を隠そう、私のレベルは初級。

でも、「尊厳」だけは、絶対に失わなかったと思う。

後半は、個人の「尊厳」を守るためのバトルフィールドと化していたと思う。

そこで、「尊厳」を守るために初級の私が心がけたことが以下の3点。

1、英会話の「お客さん」にならない。

2、言葉が喋れなくとも、「思想」レベルは変えない。

3、英会話教師をナメない。

 

相手は、こちらのことをよく知らないわけだから、

放っておくと、当たり障りのない教科書的定型文を使って、

授業が進んでしまう。

というわけで、毎回、自分の関心の持った映画や本、新聞記事などを使い、自分の「思想」を語る準備をした。英会話教師が、興味を持つとは考え難い、芸術における専門的なテーマであっても恐れない。

もう一つは、白人男性講師と、フェミニズムやアジアの政治問題に関して話すことが、英会話を通して一つのアクションになるのでは、という勝手な使命感があった。

 

この夏、特に盛り上がったトピックが以下。

慰安婦問題ドキュメンタリー『主戦場』

レティシア・コロンバニ『三つ編み』

R65不動産「高齢者の入居お断り問題」

イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ――フェミニストは黙らない』

 

「政治的な問題には、触れられない」と怪訝な顔を見せられたこともあったけど、

基本的には、私の語学力の低さで、難解なお題を選んでくる姿勢に、

好意的であったと感謝している。

渡仏時も含め、

子供の頃から、言葉がわからない環境で生活していたことが多く、

言語習得時における「プライド崩壊」慣れをしている私でも、

あの「子どもにかえったような感覚」は、やはり辛い。

 

それでも、

大袈裟なようだが、

「尊厳」は決してなくしてはならない。

 

周りから笑われようと、

どんな状況でも、

たとえ英会話でも、

「尊厳」は持ち続けなければいけない。

 

最後に、自分への贈る言葉として、

望月衣塑子さんの著書『新聞記者』の最後に引用されていたガンジーの言葉を。

 

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。

そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、

世界によって自分が変えられないようにするためである。

 

 

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8年前の大学卒業製作で作った一人芝居のポスター原画を、

日本の新居に飾った。

私の滞在は、1年の4分の1にも満たないが、

すでに「自分大好き」の侵食が激しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

西洋で日本人の役をやることは、 「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」

フランス人女性演出家が描く、

日本の社会現象「蒸発」に関する作品の3週間に渡るパリ再演、

無事、終了しました。

https://www.la-tempete.fr/saison/2018-2019/spectacles/les-evapores-567

 

会場のThéâtre de la Tempêteは、

パリ12区にあるヴェンセンヌの森の中にある『Cartoucherie』という、

かつての弾薬工場跡地にある劇場。

1970年に、太陽劇団率いるアリアンヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)が、演劇の聖地に変えた歴史的な場所である。

敷地内には、4つの劇場と3つのアトリエがあり、

クラシックな作品から、若手の作品まで常に数作品が上演されている。

 

この作品は、2年前に初演され、フランス国内で地方ツアーしたあとに、

再演が決まった作品。

出演者は、フランス人俳優1人と日本人俳優6人。

フランス人ジャーナリストが、日本に滞在し、日本人たちに出会っていくという設定なので、

日本人俳優のセリフは、すべて日本語。

フランス語の字幕が表示される。

フランス人の観客には、なかなか伝わらないのだが、

この芝居の一番の「ねじれ」であり、面白いところは、

私たちが演じている母国語(日本語)が、翻訳された言語であるということである。

フランス語で書かれたテキストが、日本語に翻訳され、

私たちは、ある種「純粋でない」日本語で演じる。

しかし、観客は、字幕を読んでいるので、

わたしたちの感じる「ねじれ」は、一切届いていない。

また、フランス人俳優は、

私たち日本人俳優と話す時には、日本語で(翻訳された)セリフを話す。

この作品は、「蒸発」という社会的テーマを扱っているだけで、

一切、ドキュメンタリー演劇ではないのだが、

演劇空間において、

「言語」と「容姿」が及ぼす「ドキュメンタリー要素」の高さには、

改めて驚かされる。

 

全くフィクションの芝居であっても、

「日本人の外見」をした人が、

「日本の社会現象」について、

「日本語」でしゃべることで、

観客は、無意識に、フィクションという程においての「リアル」でなく、

ドキュメンタリーという程においての「リアル(事実)」を見出してしまうのである。

 

私は、去年から2回続けて、

「日本人」の役で、演劇作品にかかわった。

一つ目は、セリフはフランス語で、日本人の役。

そして、今回は、セリフも日本語で、日本人の役。

 

いずれにせよ、日本人としての「容姿」を利用することには変わりない。

俳優としては、「衣装を2枚着ている」という感覚が常にある。

1枚目は、役に与えられた「肌」としての衣装。

2枚目は、役に与えられた通常の衣装。

 

俳優にとって、「演技をする」ということは、

どこかで、「憑依する・される」という側面があると考える。

私の場合、

稽古の中で、「自分」という存在を分析しながら、

自分でない「他者(役)」の要素(言葉、身体、歴史など)を、

少しづつ、自分に取り込んでいく過程がある。

そして、「自分」の中に、「他者(役)」が溶け込んできたところで、本番が始まる。

 

この時、1枚目の「努力を要さない」衣装(肌)の存在が大きすぎると、

俳優としては、少々自信を失うことになる。

つまり、「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」から始めるのである。

「言葉」に関しても同じことが言える。

 

おそらく、いろんな人種の人が暮らしているフランスでは、

日本人(外国人)の俳優が、舞台で日本語(外国語)をしゃべっている芝居をみることなんて、

そんなに特別なことではないのだろう。

ただ、単一民族国家である「日本」で育った私にとっては、

「日本人」であることを、

背が高いとか低いとか、

太ってるとか痩せてるとか、

それくらいのレベルで、

「俳優としての特徴」として捉えられうようになるには、

正直、まだ時間がかかりそうである。

 

2016年から、フランスで俳優として仕事を始めて以来、

西洋的な役名しか与えられなかったから、考えたこともなかった。

ヒポリタ、フィロメル、ポーラ、クララ、マリー…

 

「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」からキャスティングされた時に、

ここでも、重要なのは、やはり演出家とのコミュニケーションであると思う。

創作期間において、

「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」が、どうでもよくなるくらい華麗に、

2枚目の衣装を身に付けることができれば、

たとえ、本番が始まってから、

「日本人」であることの方が、「俳優」であることを上回って、

観客に見えていたとしても、気にならなくなるだろう。

 

どうしても「デリケート」になってしまう「フィクションでの使われ方」というものが、

それぞれの俳優にあると思う。

周りの人には、想像できないほど、傷つくこともあるかもしれない。

しかし、演劇は再現性がないと何も意味がないので、

「我慢する」という解決策だけは、絶対にやめてほしい。

私の俳優としての仕事の80%は、コミュニケーションである。

と、自分に言い聞かせる。

 

そして、明日からは、西洋も、日本も、吹っ飛ばして、

アラブの世界へ。

『千夜一夜物語』の稽古スタート。

私が演じるアラブ人の役名は「ゾベイダ」!

『蒸発』で親子役をした、藤谷由美さんと、楽屋にて。

 

『#体毛カワイイ』@ドラマツルギークリニック

4月27日28日に東京で行った、体毛から自由になるための勉強会『#体毛カワイイ』、

2日間で、予想をはるかに上回る、50名の方に参加をいただき、たくさんのリアクションとアドバイスを頂きました。

https://meetingengeki-taimo.peatix.com/view

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そして、先月末5月28日、カナダのモントリオール市にて毎年5月下旬から6月上旬に開催されているフェスティヴァル・トランスアメリーク(Festival TransAmériques)内のプロジェクト「クリニック・ドラマツルギー」にて、作品の「診察」を受けました。

Cliniques Dramaturgiques

この企画は、生まれたばかりの舞台芸術作品、もしくは、企画段階の作品に対して、

各国から集まったプロのドラマツルギーの方の「診察」を受ける、というもの。

今年は、フランス、ドイツ、カナダ、ブラジル、キューバから集まった、

ダンス、演劇、劇作を専門とするドラマツルギー7人が担当する。

まずは、事前に企画書による審査があり、

審査を通過した14作品が、フェスティバル側が指定したドラマツルギーの一人と、

一対一で90分間の「診察」を受けることができる。(言語はフランス語か英語を選択可能。)

このカウンセリング以外に、すべての人に開かれた「ドラマツルギー朝ごはん」と「ドラマツルギーミーティング」がある。

「ドラマツルギー朝ごはん」では、広義での”occupation”をテーマに、それぞれの国の舞台芸術の現状と、主に創作環境に関する課題を話し合う。

翌日の「診察」では、ブラジルで活動するドラマツルギー、演出家、映画監督であるマルタ(Martha Kiss Peronne)に90分のカウンセリングを受ける。

事前の説明会で、このカウンセリングは、作品をどう売り込んでいったらよいかを考える時間ではなく、アーティスト自身の創作背景を踏まえて作品を捉えていくことが狙いだと言われていたので、私は以下の3点の不安を軸に『#体毛カワイイ』という作品を紹介した。

1,女性として(子どもができたら、どうやって演劇続けたらいいの?)

2,俳優として(セリフって絶対覚えなきゃダメ?)

3,フェミニズム的主題(フェミニストって闘わなきゃダメ?)

 

「体毛」というテーマに関しては、2017年頃から、

東京に戻ってくるたびに、脱毛サロンの車内広告の存在が自分の中に大きくなっていき、

いつか、「体毛」についてしっかり勉強したいと考えていた。

昨年、結婚して、俳優と主婦の二重生活がスタートした。

と言っても、主婦であり俳優でもある、という同時進行ではなく、

私の場合、フランスでは主に俳優であり、日本では主に主婦である、という生活である。

公演やリハーサルに関わってない時期とはいえ、

俳優は俳優のままなのだが、非拘束な時間でのクリエイティビティの優先順位は、

簡単に下がってしまう。

将来、子どもができた時のことを考えると、ひどく不安である。

もし、あなたが俳優で、直接的な俳優活動に関わる拘束がないとき、

「日々の生活」は、あなたが俳優であり続けることをなかなか許してくれない。

さて、そんな時、どのように、自分の俳優として身体を「クリエイティブ」な空間に起き続けることができるか。

 

次に、俳優として。

地方公演を含め、年間半分以上の時間を舞台の上で過ごすようになり、いつになってもなくならないのが、台詞へのストレス。

フランス語の古典のテキストを扱う場合、どうしても台詞を「覚える」という感覚に陥ってしまうので、もし、忘れたらと思うとなかなか恐怖がなくならない。

「演じる」ではなく、「語る」へのシフトチェンジを求めて、台詞との新しい付き合い方を探していた時に出会ったのが「講演会」。

頭の中で、すでに深く理解していることを「語る」。これが、台詞でもできたらなあ。

 

そして、最後は、フェミニスト的主題を扱うことに関して。

体毛のことを調べながら、「闘わないフェミニスト」像とはなんだろうと、ひたすら考えてきた。

そこで、どうしても必要不可欠だったのが、男性の存在だった。

男性に囲まれて考える「体毛」、異性に対するコンプレックスは、異性と一緒に解決。

 

マルタは、私の話に耳を傾け、彼女の住む街リオデジャネイロの状況と照らし合わせて、東京やパリの環境と比較しながら、ひとつひとつ、私の不安の種を紐解いていく。

ブラジルには、文化省というものが存在しないので、

舞台芸術も、劇場というより、街の広場や工場跡地などで行われることが多いので、

演劇行為自体が、社会的もしくは政治的運動(ムーブメント)となるということ。

また、リオデジャネイロの女子高校生たちは、政府への反抗の気持ちで、

ムダ毛をあえて生やしている、という話をしてくれた。

「身体」というものは、コンテクストによって、

こんなにも勝手に「主張」を変えるのだということに驚愕。

 

それにしても、久しぶりに「希望」でしかない時間を過ごした。

何かを「産みだす」ということは、

常に、一喜一憂をもたらすもの。

ただ、舞台芸術は一喜一憂に合わせて、「育てる」ことも、「寄り添う」こともできる。

そんなときに、自分とは全く違う人生を生きてきた先輩に背中を押されたら、

自分が悩んでたことより、もっと壮大な課題が見えてきて、不安よりもわくわくする。

4月に神保町のカフェにこもって作った作品が、

フランス語の企画書になり、

フランス語圏のカナダ・モントリオールまで旅して、

ブラジル・リオデジャネイロのアーティストとの出会いを運んできてくれたことに感謝。