舞台上では、「優等生」が馬鹿を見る?

『千夜一夜物語』、パリ、オデオン座での1ヶ月公演が幕を開けました。

オデオン座は、1782年にオープンした歴史ある劇場だが、

今では、コンテンポラリー演出の作品も多くプログラムされている。

劇場がもつ歴史と品格のようなものに、

「守られながら」上演する感覚は、

地方の公共劇場ではなかなか味わえないものである。

当時は、タブー視されていたであろう、同性愛や裸体のシーンを、

この劇場空間で提示することは、なんとも心強いものがあり、

ヨーロッパ演劇の特色のひとつとも言えるであろう。

 

今回の公演がスタートして、

私はようやく俳優としてスタート地点に立った実感があった。

まずは、フランス語の発音。

俳優は、本番前に、声と身体をウォームアップするものだが、

私は、そのふたつに加えて、発音のウォームアップが必要である。

稽古中も、毎朝1時間は、口内の筋トレということで、発音だけを徹底的に練習する。

言語を学ぶということは、

言語の数だけ、新しい「口内」を持つことだというくらい、

言語によって求められる「口内」は変化する。

今、舞台上でも通用する第二の「口内」を手に入れつつある実感がある。

 

もうひとつは、その日の「演技」を見つけること。

 

今回の作品の稽古が始まってから、

自分自身に言い続けてきたことが、

「舞台上では、『優等生』が馬鹿を見る」

とうことである。

 

私は、小・中学校の9年間、ほぼ毎年、学級委員に立候補していたくらい、

「優等生」になりたがる体質である。

結局、「優等生」にはなれなかったが、常に、先生に褒められようとしていた。

そういう体質が、あまり生かされない芸術の世界に入ってしまったので、

そのことでよく苦労する。

 

例えば、芸術の世界に「正解」とか「模範」ということは、存在しない。

演出家に、何か指示されたからといって、

それが「正解」とは限らない。

その時には、成立していたものが、

次の瞬間には、成立しなくなっていることなんて、舞台芸術ではざらにある。

よって、演出家とは、「意見を変え続ける人」とも言える。

 

しかし、優等生体質の私は、演出家に言われたことを、

ひとつ残らず、ノートにメモして、

一度言われたことは、絶対にできるようにしたいと思う。

しかし、私の周りのフランス人俳優たちは、

演出家に言われたことを、頭の片隅には止めるけれど、

実際、舞台で通してやった時に、自分の感覚と合わなかったら、

ためらいなく自分の感覚の方を重視する。

それで、シーンが成立してれば、演出家も何も言わない。

逆に、私の方が、演出家に言われたことを守ってやって、

「そこちょっとうまくいってないよ」と指摘されて、

「いやいや、あんたに言われたからやったのに!」と、心の中でムッとすることが多々有る。

演出家の指示よりも、

その時に起こっている有機的な感覚を重視することは、

なかなか難しい。

 

今回の稽古で使っていた自分のノートを見たら、

「ギヨーム(演出家)の言うことを信じすぎない」という、

自分への戒めの言葉が何回も登場していた。

 

この教訓は、本番が始まってからも言えることで、

その日の自分の演技の答えは、

昨日の演技でも、演出家にダメだしで言われたことでもなく、

自分が出る「前」のシーンにある、と最近ようやくわかってきた。

 

俳優の場合、自分が舞台に出てる時間と裏で待ってる時間があるので、

観客にとっては、幕が開いた瞬間から、

シーンがずっと時間の経過とともに蓄積されているということを忘れがちである。

舞台裏で、自分の出番を待ちながら、

今日の「作品」に全神経を向ける。

自分の出番なんて言うものは、

点(出来事)ではなく、その日の「線」を紡ぐ、「続き」でしかない。

 

どんな職業も、30代になると緊張の質が変わるらしい。

「失敗したらどうしよう」から、

「めっちゃいいものができなかったらどうしよう」に変わったのが、私の場合だ。

 

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© Elizabeth Carecchio

 

 

 

 

 

 

「うちらと違うね」と君が言ったから十月三日はサベツ記念日

私にとって、10月3日は、

『サラダ記念日』ならぬ、『サベツ記念日』となった1日であった。

 

先月末に、『千夜一夜物語』の初日があけて、

以降、週に一回ペースで地方にツアー公演に行き、

週末はパリに戻ってきて、映画・ヨガ・鍋をして過ごすという生活。

3年前から、フランスの地方公演には慣れっこで、

半分近くのフランスの地方公共劇場で、すでに演じていると思うのだが、

3年目の今年は、ツアー公演をしながら、

各都市のさまざまな特徴が見えてくる。

 

まず、フランスの公共劇場にほぼ共通して見られる任務が、

地域の中高生のための「芸術鑑賞授業」受け入れである。

フランスの義務教育では、選択授業で「演劇」のクラスがあるので、

そのクラスを受講している、つまり、既に演劇に興味がある中高生の一行がくることもあれば、

学校の企画した芸術鑑賞会に、義務として参加する場合もある。

 

日本でも、中高生のための芸術鑑賞会というものは行われていて、

私も、高校生のとき、クラスメート全員で某老舗劇団の作品を鑑賞したが、

ほとんどの生徒が寝ていて、この環境でやる俳優は地獄だろうなと同情した記憶がある。

 

フランスの公共劇場、日本のそれと比べて、

「おとなしい」プログラムに収まっていないという違いことがある。

私がモンペリエに住んでいた時、

フランスにおける「芸術鑑賞事業」を強く意識するきっかけとなった出来事がある。

気鋭のフランス人振付家、ボリス・シャルマッツの『enfant(子ども)』という作品を見に行った際、

小学校低学年の芸術鑑賞会と重なり、

このエッジの効いたコンテンポラリーダンス作品を、小学生の集団と鑑賞したのである。

Boris Charmatz – enfant (extrait) from Charleroi danse on Vimeo.

 

もちろん、数人の子どもが出演しているしている作品ではあるが、

どう考えても「公共的」にいう「子ども向き」な作品とは言えない。

しかし、7歳にも満たないであろう子どもたちの集中力は凄まじいものであった。

公演後も、興奮しておしゃべりがとまらない。

付き添いの教員に促されながらも、なかなか客席をさろうとしない子どもたちの姿が目に焼き付いている。

 

さて、フランスにおける、こんなビビットな経験を子どもたちに経験させてくれる芸術鑑賞会の雰囲気は、地方によって千差万別である。

たとえば、ブルターニュ地方は、文化予算が豊かなことでも有名で、

教育関係者も、文化教育に関して、公共劇場との連携を必要不可欠だと捉えている。

ブルターニュで公演する時は、芸術鑑賞会の前に、生徒たちと演出家のディスカッションが企画されることもすくなくない。

 

そして、10月3日。

私たちが、降り立った街は、南仏のガール県に位置するアレス。

アレスで公演するのは、これが2回目となる。

アレス初日、客席前方に、明らかに、芸術鑑賞会で来ていると思われる高校生の集団が見受けられる。

幕が開けても、彼らのひそひそ声はとどまることを知らない。

ひそひそ声どころか、何をしゃべっているかまで聞こえるほどだ。

さらに、たちが悪いことには、俳優の外見に関する冷やかしのオンパレードである。

まず、女優3人で全裸になるシーンがあるのだが、私が脱いだ瞬間に、アジア人である私の陰毛を、下品な言葉で冷やかされる。(欧米は処理している人が多いというから、単純にありのままの陰毛に驚いたのかもしれない)

その後も、

アラブ系フランス人の髪の毛をバカにしたり、

私のフランス語のアクセントを笑ったり、

アラビア語のセリフをバカにして笑ったり、

しまいには、ハゲている俳優をバカにしたり。

 

とにかく、自分たちとの「違い」を一切受け入れることができないのだ。

作品の内容が、商業的なものから遠ざかれば遠ざかるほど、

つまり、「芸術」に傾倒すればするほど、

観客の好き嫌いはわかれる。

ただ、好き嫌いを言う前に、

観客に「自立した」観劇をしてもらわなければ始まらない。

 

人生で初めて体験した舞台上での「差別」に悶々としながら、

終演後のバーで、仲のいいスタッフに、高校生たちの反応を伝えると、

「あー、それは、アレスだからしょうがないよ。極右だもん。」

と、想像だにしなかった返答。

極右?!なぜ、政治の話?

彼女によると、フランスの観客の反応は、

地方都市の政治思想によって、かなり違うということ。

つまり、アメリカでトランプを大統領に就任させたような、

大都市と地方の格差はフランスでも大きいということ。

ホテルに帰ってから、早速調べてみると、

2017年のフランス大統領選、決選投票で、マクロンのパリでの得票率は約90%。

極右のルペンは10%しか取れなかった。

ロンドン同様に、パリはグローバル化の恩恵を享受している市民が多い。

一方、2015年の欧州委員会統計局に関するデータをみると、

失業率が高い地域ほど、国民戦線、つまり、極右を支持していることがわかる。

フランスの極右の特徴は、移民数を制限し、特に、就職や社会保障の面で、

外国人よりもフランス人を優先する政策であろう。

 

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これは、庶民のグローバル化への不信感、

つまり、文化の醍醐味でもある「多様性」を排除する方向性を導く。

そして、やはり、アレスは、極右支持率の高い都市であるということが判明した。

 

私は、自分の陰毛を、

高校生の集団に明らかに笑われて、

とても傷ついた。

何度上演回数を重ねても、作品が、全く同じように舞台の上に現れることは一度たりとない。

なんらかの歯車がずれて、

公演の質が落ちてしまったことによって、観客の集中を欠いたとも考えられる。

しかし、このような政治的背景が、

芸術鑑賞事業の一環で、

仕方なく劇場にやって来た彼らの反応に、

少しでも影響を及ぼしているという事実があるとするならば、

パリで、「芸術」作品として注目を浴びて舞台に立つよりも、

「公共的」側面からみて、

私にとっても、彼らにとっても、

よっぽど意味のある1日だったと思う。

 

 

 

 

「公共の芸術」って何?

無事、初日があけました◎
初日があけてから、R15指定だったことを知った。
国のお金で、堂々とR15指定作品を作り、
刺激が強いと出ていった観客の存在を、
「成功のしるし」と喜ぶ仲間たちを片目に、
あいちトリエンナーレへの文化庁補助金停止のタイミングだったので、
「芸術と公共」ということを強く考えさせられた。
私は、この3年半、フランスの公共劇場の作品だけに関わってきた。
今回の作品も含めて、政治的な主張が強い作品もあったけど、
常に、「公共劇場のプログラム」ということに守られてきた。
日本と同じように、フランスでも、パリと地方の芸術格差というものは存在する。
ただ、地方の公共劇場も、
全力でアーティストの表現の自由を守ってきた。
だから、フランスのアーティストは、地方の観客をバカにしない。
一言で言えば、R15指定されるような、「エッジ」の効いた作品を、地方の公共劇場にプログラムするリスクは高い。
観客が、劇場に「芸術」よりも「娯楽」を求めている場合が多いからだ。
しかし、公共劇場は、公共劇場だからこそ、「いい子」のプログラムになってはいけない。
古典もアヴァンギャルドも、
具体も抽象も、
より多様なプログラムを1年間で提供することで、最終的には、「公共的(みんなのため)」になる。
なぜなら、芸術に対する「公共的な」嗜好などというものは存在しないのだから。
芸術は、「みんな(公共)」を喜ばすものではない。
ただ、「みんな」の中の数人のために、
公共的に(国のお金で)存続させていかなければいけないのが、芸術である。
「国のお金は、みんな(が喜ぶもの)のために使うべき」という考え方は、
芸術の本来の意義(=多様なリアクションを引き出すこと)を理解していないと安易に使うことはできないのではないか。
国が、アーティストを全力で守らなければ、
国にとって「いい子」の作品しか生まれない。
国にとって「いい子」の作品は、芸術ではない。
芸術は、いつでも、国にとって厄介な存在であり、
それでいて、国が誤った方向に向かっている時に、
それを、いち早く気づかせてくれる存在なのだ。
だから、国は、国のために、
国にとって「厄介な子」である作品も全力で保護するべきだし、
より多くの人に届ける義務がある。
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語学習得者よ、媚びるな、「尊厳」を持て!

2018年、KYOTO EXPERIMENT、

私は、市原佐都子さんの『妖精の問題』に出演していて、

大好きなドイツのカンパニー、She She Popのメンバーたちが客席に観に来ていた。

「カンジダになったことがある方、いらっしゃいますか?」と、

客席に投げかける台詞で、

そのうちの一人の女性が、英語字幕を見るや否や、凄まじい勢いで手を挙げてくれた瞬間は、

今でも鮮明に覚えている。

終演後、ロビーで、彼らに英語で話しかけられて、

「私も、あなたたちの作品をたくさん見ている!」ということを伝えたかったのに、

「英語が話せない」という事実が頭を占有していたため、

なけなしの「センキュー」しか出てこなかった。

 

その時から、ずっと勉強したかった英語。

今年の夏休みと春休みに、日本に帰国していた時間を使って、英会話に通った。

この経験は、私にとって、「尊厳」の大切さを改めて考えるきっかけとなった。

 

La dignité (IPA: /di.ɲi.te/; Gender: feminine; Type: noun;)

フランス語で、「尊厳」または「品格」という意味のフランス語である。

これは、私が、母国語ではないフランス語という外国語を使って、演技をする上で、

ここ3年ほど、向き合ってきた言葉である。

どんなに専門的に発音を訓練しても、

自分の発している言葉にアクセントは残る。

自分の言語レベルに演技が引っ張られて、

どうしても、幼くなってしまう傾向が強かった。

声の響きや、身体のあり方。

自分の完璧ではない言語能力を誤魔化すかのように、

無意識のうちに、無駄な「笑顔」をつくっていることもあった。

そんな時、憧れの先輩女優から言われたのが、この言葉。

La dignité

「媚びるな、La dignitéを持て!」

結果的に、この訓練は、観客(他者)を心の底から信用することにもつながったと思う。

観客からの分かりやすい好感を得ることよりも、

もっと深い場所で、目には見えない水面下でつながる感覚。

一言で言えば、観客をナメないこと。

 

今回、私が通った英会話スクールは、

マンツーマンで、40分間の授業を60回、さまざまな先生と英語を学んだ。

何を隠そう、私のレベルは初級。

でも、「尊厳」だけは、絶対に失わなかったと思う。

後半は、個人の「尊厳」を守るためのバトルフィールドと化していたと思う。

そこで、「尊厳」を守るために初級の私が心がけたことが以下の3点。

1、英会話の「お客さん」にならない。

2、言葉が喋れなくとも、「思想」レベルは変えない。

3、英会話教師をナメない。

 

相手は、こちらのことをよく知らないわけだから、

放っておくと、当たり障りのない教科書的定型文を使って、

授業が進んでしまう。

というわけで、毎回、自分の関心の持った映画や本、新聞記事などを使い、自分の「思想」を語る準備をした。英会話教師が、興味を持つとは考え難い、芸術における専門的なテーマであっても恐れない。

もう一つは、白人男性講師と、フェミニズムやアジアの政治問題に関して話すことが、英会話を通して一つのアクションになるのでは、という勝手な使命感があった。

 

この夏、特に盛り上がったトピックが以下。

慰安婦問題ドキュメンタリー『主戦場』

レティシア・コロンバニ『三つ編み』

R65不動産「高齢者の入居お断り問題」

イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ――フェミニストは黙らない』

 

「政治的な問題には、触れられない」と怪訝な顔を見せられたこともあったけど、

基本的には、私の語学力の低さで、難解なお題を選んでくる姿勢に、

好意的であったと感謝している。

渡仏時も含め、

子供の頃から、言葉がわからない環境で生活していたことが多く、

言語習得時における「プライド崩壊」慣れをしている私でも、

あの「子どもにかえったような感覚」は、やはり辛い。

 

それでも、

大袈裟なようだが、

「尊厳」は決してなくしてはならない。

 

周りから笑われようと、

どんな状況でも、

たとえ英会話でも、

「尊厳」は持ち続けなければいけない。

 

最後に、自分への贈る言葉として、

望月衣塑子さんの著書『新聞記者』の最後に引用されていたガンジーの言葉を。

 

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。

そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、

世界によって自分が変えられないようにするためである。

 

 

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8年前の大学卒業製作で作った一人芝居のポスター原画を、

日本の新居に飾った。

私の滞在は、1年の4分の1にも満たないが、

すでに「自分大好き」の侵食が激しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

西洋で日本人の役をやることは、 「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」

フランス人女性演出家が描く、

日本の社会現象「蒸発」に関する作品の3週間に渡るパリ再演、

無事、終了しました。

https://www.la-tempete.fr/saison/2018-2019/spectacles/les-evapores-567

 

会場のThéâtre de la Tempêteは、

パリ12区にあるヴェンセンヌの森の中にある『Cartoucherie』という、

かつての弾薬工場跡地にある劇場。

1970年に、太陽劇団率いるアリアンヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)が、演劇の聖地に変えた歴史的な場所である。

敷地内には、4つの劇場と3つのアトリエがあり、

クラシックな作品から、若手の作品まで常に数作品が上演されている。

 

この作品は、2年前に初演され、フランス国内で地方ツアーしたあとに、

再演が決まった作品。

出演者は、フランス人俳優1人と日本人俳優6人。

フランス人ジャーナリストが、日本に滞在し、日本人たちに出会っていくという設定なので、

日本人俳優のセリフは、すべて日本語。

フランス語の字幕が表示される。

フランス人の観客には、なかなか伝わらないのだが、

この芝居の一番の「ねじれ」であり、面白いところは、

私たちが演じている母国語(日本語)が、翻訳された言語であるということである。

フランス語で書かれたテキストが、日本語に翻訳され、

私たちは、ある種「純粋でない」日本語で演じる。

しかし、観客は、字幕を読んでいるので、

わたしたちの感じる「ねじれ」は、一切届いていない。

また、フランス人俳優は、

私たち日本人俳優と話す時には、日本語で(翻訳された)セリフを話す。

この作品は、「蒸発」という社会的テーマを扱っているだけで、

一切、ドキュメンタリー演劇ではないのだが、

演劇空間において、

「言語」と「容姿」が及ぼす「ドキュメンタリー要素」の高さには、

改めて驚かされる。

 

全くフィクションの芝居であっても、

「日本人の外見」をした人が、

「日本の社会現象」について、

「日本語」でしゃべることで、

観客は、無意識に、フィクションという程においての「リアル」でなく、

ドキュメンタリーという程においての「リアル(事実)」を見出してしまうのである。

 

私は、去年から2回続けて、

「日本人」の役で、演劇作品にかかわった。

一つ目は、セリフはフランス語で、日本人の役。

そして、今回は、セリフも日本語で、日本人の役。

 

いずれにせよ、日本人としての「容姿」を利用することには変わりない。

俳優としては、「衣装を2枚着ている」という感覚が常にある。

1枚目は、役に与えられた「肌」としての衣装。

2枚目は、役に与えられた通常の衣装。

 

俳優にとって、「演技をする」ということは、

どこかで、「憑依する・される」という側面があると考える。

私の場合、

稽古の中で、「自分」という存在を分析しながら、

自分でない「他者(役)」の要素(言葉、身体、歴史など)を、

少しづつ、自分に取り込んでいく過程がある。

そして、「自分」の中に、「他者(役)」が溶け込んできたところで、本番が始まる。

 

この時、1枚目の「努力を要さない」衣装(肌)の存在が大きすぎると、

俳優としては、少々自信を失うことになる。

つまり、「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」から始めるのである。

「言葉」に関しても同じことが言える。

 

おそらく、いろんな人種の人が暮らしているフランスでは、

日本人(外国人)の俳優が、舞台で日本語(外国語)をしゃべっている芝居をみることなんて、

そんなに特別なことではないのだろう。

ただ、単一民族国家である「日本」で育った私にとっては、

「日本人」であることを、

背が高いとか低いとか、

太ってるとか痩せてるとか、

それくらいのレベルで、

「俳優としての特徴」として捉えられうようになるには、

正直、まだ時間がかかりそうである。

 

2016年から、フランスで俳優として仕事を始めて以来、

西洋的な役名しか与えられなかったから、考えたこともなかった。

ヒポリタ、フィロメル、ポーラ、クララ、マリー…

 

「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」からキャスティングされた時に、

ここでも、重要なのは、やはり演出家とのコミュニケーションであると思う。

創作期間において、

「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」が、どうでもよくなるくらい華麗に、

2枚目の衣装を身に付けることができれば、

たとえ、本番が始まってから、

「日本人」であることの方が、「俳優」であることを上回って、

観客に見えていたとしても、気にならなくなるだろう。

 

どうしても「デリケート」になってしまう「フィクションでの使われ方」というものが、

それぞれの俳優にあると思う。

周りの人には、想像できないほど、傷つくこともあるかもしれない。

しかし、演劇は再現性がないと何も意味がないので、

「我慢する」という解決策だけは、絶対にやめてほしい。

私の俳優としての仕事の80%は、コミュニケーションである。

と、自分に言い聞かせる。

 

そして、明日からは、西洋も、日本も、吹っ飛ばして、

アラブの世界へ。

『千夜一夜物語』の稽古スタート。

私が演じるアラブ人の役名は「ゾベイダ」!

『蒸発』で親子役をした、藤谷由美さんと、楽屋にて。