俳優と観客のための『共振力』のすすめ

遅ればせながら、2020年もよろしくお願い致します。

『千夜一夜物語』フランス地方ツアー、2020年度2都市目は、ブザンソン。

スイス国境近くに位置するこの街は、かのヴィクトル・ユーゴーを輩出した街でもある。

 

さて、ブザンソンは、演出家ギヨーム・ヴァンサンにとって、特別に思い入れのある街で、

彼が無名の時代から今まで、全作品に出資していた劇場だそう。

フランスの場合、カンパニーだけで作品製作を受け持つことは珍しく、

特に公共劇場の場合は、地方の劇場も、作品が出来る前から、co-productionというかたちで、共同出資する。

2年目の地方ツアー先は、出来上がった作品を観て、気に入れば作品が買うわけだが、

1年目の地方ツアー先は、作品が出来る前から、お金を出してくれた、いわばビジネスパートナー的な劇場なので、これからの関係性のためにも、作品で恩返しすることが重要だと、私は考えている。

つまり、ブザンソンの街の公共劇場は、

ギヨームのビジネスパートナーとして、

彼が若い時から、彼のカンパニーと共にリスクをとって、彼の創作を支え続けた歴史がある。

パリの劇場の場合、ある劇場に訪れる観客は、作品によっても変わるが、

地方に行けば行くほど、観客は固定化する。

つまり、劇場のカラーは、「観客」がつくるというっても過言ではない。

 

そんなブザンソンの観客は、天下一品。

ここ3年くらいで、フランスの40都市近くの街で、公演を経験してきた私だが、

いまだかつてブザンソンほど、質の高い観客を抱える劇場には、出会ったことがない。

最初に訪れたのは、2年前。今回で、2回目である。

ブザンソンの観客の何がすごいかというと、

それは、『共振力』の高さである。

この言葉は、数年前に、落語についての作品をフランス人とつくっていて、

落語と仏教の関係について調べていた時に、学んだ言葉である。

 

説教と語り芸能の深い関係における、落語の「共振力」について書かれた素晴らしい本がこちら。演劇にも共通することもたくさん書かれている。

『落語に花咲く仏教 -宗教と芸能は共振する』朝日選書-釈徹宗

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この本によると、

落語はとても動きが制限されているがゆえに、多くの共振現象を起こすともいえる。それが落語の特性なのだ。落語は聞き手のイマジネーションに頼った話芸である。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.146

 

これは、多様な表現形態からなら現代演劇に直接当てはめて、「多くの共振現象」を起こそうと考えるのは、少々酷である。

 

では、以下はどうだろう。

語り手と聞き手のイマジネーションが共有されると、その場は高度なものになる。もっと高度な場になれば、その場にいる大勢のイメージがかみ合い出し、まるで宗教のような場がクリエイトされ、非日常へとジャンプさせてくれる。

(中略)

つまり、説教も落語も、語り手と聞き手の双方が「自らその場にチューニングしていく」ことで成り立つのである。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.147

 

ここで、書かれている「語り手」と「聞き手」の関係を、

「俳優」と「観客」に置き換えると、双方に、「自らその場にチューニングしていく」能力が求められることになる。

落語において、観客に求められるスキルとレスポンサビリティは非常に大きいということがわかる。

 

そして最も重要なことは、その場にシンクロすることができれば、心身が心地よい喜びに満たされるということである。我々はシンクロした場が心地よいと感じる心身をもっている。これは、遥か古代から連綿と続いてきた人類の本性である。

シンクロした場を繰り返し経験することで、チューニング能力も身についてくる。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.147

 

ここで書かれている「チューニング能力」を「共振力」と捉えると、

ブザンソンの観客の「共振力」は非常に高いといえる。

まず、舞台芸術空間において、「観客」という自分たちの立場が必須要素であるという自覚が極めて高い。

舞台に出た瞬間から、尋常ではない観客の集中力にさらされる。

そこから、徐々に、この空間において俳優と観客が「シンクロ」していくための、

「チューニング」が始まり、一気に「共振」へと向かう。

 

公演後の劇場ロビー及びバーの賑わい方も半端ではない。

3時間に及ぶ公演にもかかわらず、「シンクロ」を経た成果、俳優も観客もエネルギーに満ち溢れていて、そこかしこから笑い声が絶えない。

 

『共振力』は、決して、俳優だけが身に付けたい能力ではない。

俳優たちだけの力によって、何かとてつもないものを、この場に産み落とそうと闇雲になるのではなく、

ちょっと肩の力を抜いて、私たちの身体に備わっている『共振力』に頼ってみる。

俳優が与える側に、観客が受け取る側に徹するのではなく、

その間に生まれる、全く新しいものを恐れない力。

言葉にするのは、本当に難しいけれど、

公演が終わって、いつもとは違う拍手に包まれていた時、

もう何度も公演しているのに、ちょっと泣きそうになって、急いで楽屋に戻った。

あとで、40歳を越したベテラン俳優たちと話していたら、彼らもそうだったようで、

「なんか感動しちゃった」と、

すこし赤くなった目で、照れ笑いしていた。

 

 

 

「感覚」が鈍い俳優に未来はあるか。

パリで12月5日起きた大規模デモの影響を受け、

交通機関がほぼ麻痺しながらも、

観客は減ることなく、

『千夜一夜物語』、無事、5週間のオデオン座公演を終えることができました。

 

歌舞伎俳優やミュージカル俳優でもない限り、

1ヶ月連続公演は、

なかなか経験できない体験。

私も、人生2回目の経験。

初めての時は、セリフも少なかったのに、毎朝、声が出なかったらどうしようという恐怖とともに目覚め、

語学レベルがそんなに高くなかったにもかかわらず、

シェイクスピアのテキストだったので、

いつ何時もセリフがすっぽ抜ける恐怖と戦っていて、

正直、俳優としてクリエイティブな仕事ができていたか聞かれると自信を持って答えることは難しい。

 

よく、芸術に携わるものには、言葉にならない「感覚」という能力を期待される。

俳優も然り。

残念ながら、私は、この「感覚」というものが非常に疎い。

例えば、「感覚」が優れている人は、耳がいい。

視覚よりも、聴覚で空間を捉えることに長けている。

例えば、音楽に携わっている人は、外国語習得が早いという傾向は、想像に容易いであろう。

私の場合、「感覚」及び「聴覚」が鈍いので、

すべて、口の中の形(舌や唇の位置)を、ひとつひとつ理解して、自分なりの「言葉」で解釈してから練習しないと、フランス人の発音に近づくことは不可能であった。

 

私がパフォーマンス向上のために目をつけたテーマが「言語化」である。

「感覚」が鋭い人にとっては、邪魔になるだけだと思うが、

「感覚」が鈍い人だからこそ、「言語」の力をかりて、

俳優のパフォーマンスをあげることができるのではないかと考えている。

 

数年前から、人工知能AIの研究などで、「身体知」という言葉を、よく耳にするようになった。

もともと、「身体知」という言葉は、スポーツ選手のパフォーマンス向上のために、よく注目さていた技術である。

この「身体知」を利用し、俳優の終演後の「なんか今日は良かった」「なんか今日はダメだった」を分析していくことで、翌日の自分に対して、より具体的な指示かつ有機的な指示を出していけるようになるのではないか。

元ラグビー選手から、「スポーツ教育学」の研究者となった、平尾剛氏の『脱・筋トレ思考』

の中の「身体知」への言及が非常にわかりやすい。

身体知には、以下の3種類がある。

1 始原身体知(生まれつき備わってるもの)

2 形態化身体知(コツとカンで特定の動きや技術を身につける):ゼロを1にする。

3 洗練化身体知(すでに身につけた動きや技術をより精妙にしていく):1を2や3にする。

 

ここでいう「動きや技術」を「パフォーマンス」という言葉に差し替えると、

2が稽古期間、3が本番中(もしくはツアー中)と当てはめることができる。

さらに、2 形態化身体知の過程で重要になってくるのが「コツ」と「カン」で、

発生論的運動学では、この「コツ」と「カン」を以下のように説明している。

 コツとカンはおおよそ同じものであると私たちは認識しているが、この両者はその性質において明確に異なる。発生論的運動学では、「骨」を語源とするコツを「自我中心化身体知」といい、論理的思考と対照を成すカンは「情況投射化身体知」という。

平尾剛『脱・筋トレ思考』

 

つまり、「コツ」は自分の内側から、「カン」は自分の外側で知覚されている。

 

ここまで、「身体知」を理解したところで、

この「身体知」をより具体的に獲得するために、

「舞台経験を積む」にプラスして、

「日々の経験を言語化」してみる。

 

ここでいう「言語」というのは、まさに「自分に響く言葉」である。

例えば、演出家の指示や共演者との話し合いで、

「そのシーンは、もう少しテンポをあげて」という無機質な指示が出たとする。

ここで、テンポをあげるのは簡単なのだが、

より具体的になぜテンポをあげるのかを身体にわからせないと演技としては成立しない。

そこで、この無機質な指示を自分にとって「有機的な指示」に翻訳してみる。

この時は、最終的に「自分をめちゃめちゃ美人だと思い込む」という言葉と出会った時に非常に適切なテンポにたどり着けた。

 

ここで参考にしたのが、諏訪正樹氏の「からだメタ認知」という研究である。

彼が提唱しているのは、「ことばの力をかりて体感への留意を保つ」ということである。

この方法と出会わなかったら、

5週間クリエイティブなモチベーションを保ち続けることは不可能だったと思う。

 

方法は簡単。

毎日、前日のパフォーマンスを振り返り、パフォーマンスをしている際の「感覚」を、ただひたすらに言語化していく。

この時に「コツ的側面(自分の内側)」と「カン的側面(自分の外側)」、両方の感覚に注目することもポイント。

そして、それを踏まえた上で、その日の夜に行われるパフォーマンスに向けて、

自分への「指示」や「キーワード」、「気をつけること」を記述していく。

場合によっては、共演者もしくは演出家との話し合いを必要とすることもある。

 

これは、まさに新しい言語を学ぶ感覚と同じで、

はじめはどのように「感覚」を言葉に置き換えていいのかわからないのだが、

続けていると、日々、確実に言語記述量が増えていく。

言語記述量の増加に伴って、言葉の種類やニュアンスの差がより細かくなっていく。

演劇の場合、スポーツのように「体感」だけでは成立しないので、

トラマツルギー的にシーンの「解釈」においても、思考の「筋肉」が少しづつついてきて、演技の細かい選択肢が広がる。

 

諏訪正樹氏の著『身体が生み出すクリエイティブ』によると、

 

ことばの力を借りるとは、身体だけではどうしようもない別の機能を合わせて発揮させることである。ことばは連想という技を有している。ことば同士の連想関係や、知識に基づく論理的関係をたぐって、あることばから別のことばに飛躍することができる。

諏訪正樹『身体が生み出すクリエイティブ』

 

やりたいことができることだとは限らないし、

できることがやりたいことだとは限らないのが人生である。

でも、本当にやりたいことは、自分に合った方法さえ見つけ出せば、

自分なりにはできるようになるものである。

 

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舞台上では、「優等生」が馬鹿を見る?

『千夜一夜物語』、パリ、オデオン座での1ヶ月公演が幕を開けました。

オデオン座は、1782年にオープンした歴史ある劇場だが、

今では、コンテンポラリー演出の作品も多くプログラムされている。

劇場がもつ歴史と品格のようなものに、

「守られながら」上演する感覚は、

地方の公共劇場ではなかなか味わえないものである。

当時は、タブー視されていたであろう、同性愛や裸体のシーンを、

この劇場空間で提示することは、なんとも心強いものがあり、

ヨーロッパ演劇の特色のひとつとも言えるであろう。

 

今回の公演がスタートして、

私はようやく俳優としてスタート地点に立った実感があった。

まずは、フランス語の発音。

俳優は、本番前に、声と身体をウォームアップするものだが、

私は、そのふたつに加えて、発音のウォームアップが必要である。

稽古中も、毎朝1時間は、口内の筋トレということで、発音だけを徹底的に練習する。

言語を学ぶということは、

言語の数だけ、新しい「口内」を持つことだというくらい、

言語によって求められる「口内」は変化する。

今、舞台上でも通用する第二の「口内」を手に入れつつある実感がある。

 

もうひとつは、その日の「演技」を見つけること。

 

今回の作品の稽古が始まってから、

自分自身に言い続けてきたことが、

「舞台上では、『優等生』が馬鹿を見る」

とうことである。

 

私は、小・中学校の9年間、ほぼ毎年、学級委員に立候補していたくらい、

「優等生」になりたがる体質である。

結局、「優等生」にはなれなかったが、常に、先生に褒められようとしていた。

そういう体質が、あまり生かされない芸術の世界に入ってしまったので、

そのことでよく苦労する。

 

例えば、芸術の世界に「正解」とか「模範」ということは、存在しない。

演出家に、何か指示されたからといって、

それが「正解」とは限らない。

その時には、成立していたものが、

次の瞬間には、成立しなくなっていることなんて、舞台芸術ではざらにある。

よって、演出家とは、「意見を変え続ける人」とも言える。

 

しかし、優等生体質の私は、演出家に言われたことを、

ひとつ残らず、ノートにメモして、

一度言われたことは、絶対にできるようにしたいと思う。

しかし、私の周りのフランス人俳優たちは、

演出家に言われたことを、頭の片隅には止めるけれど、

実際、舞台で通してやった時に、自分の感覚と合わなかったら、

ためらいなく自分の感覚の方を重視する。

それで、シーンが成立してれば、演出家も何も言わない。

逆に、私の方が、演出家に言われたことを守ってやって、

「そこちょっとうまくいってないよ」と指摘されて、

「いやいや、あんたに言われたからやったのに!」と、心の中でムッとすることが多々有る。

演出家の指示よりも、

その時に起こっている有機的な感覚を重視することは、

なかなか難しい。

 

今回の稽古で使っていた自分のノートを見たら、

「ギヨーム(演出家)の言うことを信じすぎない」という、

自分への戒めの言葉が何回も登場していた。

 

この教訓は、本番が始まってからも言えることで、

その日の自分の演技の答えは、

昨日の演技でも、演出家にダメだしで言われたことでもなく、

自分が出る「前」のシーンにある、と最近ようやくわかってきた。

 

俳優の場合、自分が舞台に出てる時間と裏で待ってる時間があるので、

観客にとっては、幕が開いた瞬間から、

シーンがずっと時間の経過とともに蓄積されているということを忘れがちである。

舞台裏で、自分の出番を待ちながら、

今日の「作品」に全神経を向ける。

自分の出番なんて言うものは、

点(出来事)ではなく、その日の「線」を紡ぐ、「続き」でしかない。

 

どんな職業も、30代になると緊張の質が変わるらしい。

「失敗したらどうしよう」から、

「めっちゃいいものができなかったらどうしよう」に変わったのが、私の場合だ。

 

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© Elizabeth Carecchio

 

 

 

 

 

 

「うちらと違うね」と君が言ったから十月三日はサベツ記念日

私にとって、10月3日は、

『サラダ記念日』ならぬ、『サベツ記念日』となった1日であった。

 

先月末に、『千夜一夜物語』の初日があけて、

以降、週に一回ペースで地方にツアー公演に行き、

週末はパリに戻ってきて、映画・ヨガ・鍋をして過ごすという生活。

3年前から、フランスの地方公演には慣れっこで、

半分近くのフランスの地方公共劇場で、すでに演じていると思うのだが、

3年目の今年は、ツアー公演をしながら、

各都市のさまざまな特徴が見えてくる。

 

まず、フランスの公共劇場にほぼ共通して見られる任務が、

地域の中高生のための「芸術鑑賞授業」受け入れである。

フランスの義務教育では、選択授業で「演劇」のクラスがあるので、

そのクラスを受講している、つまり、既に演劇に興味がある中高生の一行がくることもあれば、

学校の企画した芸術鑑賞会に、義務として参加する場合もある。

 

日本でも、中高生のための芸術鑑賞会というものは行われていて、

私も、高校生のとき、クラスメート全員で某老舗劇団の作品を鑑賞したが、

ほとんどの生徒が寝ていて、この環境でやる俳優は地獄だろうなと同情した記憶がある。

 

フランスの公共劇場、日本のそれと比べて、

「おとなしい」プログラムに収まっていないという違いことがある。

私がモンペリエに住んでいた時、

フランスにおける「芸術鑑賞事業」を強く意識するきっかけとなった出来事がある。

気鋭のフランス人振付家、ボリス・シャルマッツの『enfant(子ども)』という作品を見に行った際、

小学校低学年の芸術鑑賞会と重なり、

このエッジの効いたコンテンポラリーダンス作品を、小学生の集団と鑑賞したのである。

Boris Charmatz – enfant (extrait) from Charleroi danse on Vimeo.

 

もちろん、数人の子どもが出演しているしている作品ではあるが、

どう考えても「公共的」にいう「子ども向き」な作品とは言えない。

しかし、7歳にも満たないであろう子どもたちの集中力は凄まじいものであった。

公演後も、興奮しておしゃべりがとまらない。

付き添いの教員に促されながらも、なかなか客席をさろうとしない子どもたちの姿が目に焼き付いている。

 

さて、フランスにおける、こんなビビットな経験を子どもたちに経験させてくれる芸術鑑賞会の雰囲気は、地方によって千差万別である。

たとえば、ブルターニュ地方は、文化予算が豊かなことでも有名で、

教育関係者も、文化教育に関して、公共劇場との連携を必要不可欠だと捉えている。

ブルターニュで公演する時は、芸術鑑賞会の前に、生徒たちと演出家のディスカッションが企画されることもすくなくない。

 

そして、10月3日。

私たちが、降り立った街は、南仏のガール県に位置するアレス。

アレスで公演するのは、これが2回目となる。

アレス初日、客席前方に、明らかに、芸術鑑賞会で来ていると思われる高校生の集団が見受けられる。

幕が開けても、彼らのひそひそ声はとどまることを知らない。

ひそひそ声どころか、何をしゃべっているかまで聞こえるほどだ。

さらに、たちが悪いことには、俳優の外見に関する冷やかしのオンパレードである。

まず、女優3人で全裸になるシーンがあるのだが、私が脱いだ瞬間に、アジア人である私の陰毛を、下品な言葉で冷やかされる。(欧米は処理している人が多いというから、単純にありのままの陰毛に驚いたのかもしれない)

その後も、

アラブ系フランス人の髪の毛をバカにしたり、

私のフランス語のアクセントを笑ったり、

アラビア語のセリフをバカにして笑ったり、

しまいには、ハゲている俳優をバカにしたり。

 

とにかく、自分たちとの「違い」を一切受け入れることができないのだ。

作品の内容が、商業的なものから遠ざかれば遠ざかるほど、

つまり、「芸術」に傾倒すればするほど、

観客の好き嫌いはわかれる。

ただ、好き嫌いを言う前に、

観客に「自立した」観劇をしてもらわなければ始まらない。

 

人生で初めて体験した舞台上での「差別」に悶々としながら、

終演後のバーで、仲のいいスタッフに、高校生たちの反応を伝えると、

「あー、それは、アレスだからしょうがないよ。極右だもん。」

と、想像だにしなかった返答。

極右?!なぜ、政治の話?

彼女によると、フランスの観客の反応は、

地方都市の政治思想によって、かなり違うということ。

つまり、アメリカでトランプを大統領に就任させたような、

大都市と地方の格差はフランスでも大きいということ。

ホテルに帰ってから、早速調べてみると、

2017年のフランス大統領選、決選投票で、マクロンのパリでの得票率は約90%。

極右のルペンは10%しか取れなかった。

ロンドン同様に、パリはグローバル化の恩恵を享受している市民が多い。

一方、2015年の欧州委員会統計局に関するデータをみると、

失業率が高い地域ほど、国民戦線、つまり、極右を支持していることがわかる。

フランスの極右の特徴は、移民数を制限し、特に、就職や社会保障の面で、

外国人よりもフランス人を優先する政策であろう。

 

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これは、庶民のグローバル化への不信感、

つまり、文化の醍醐味でもある「多様性」を排除する方向性を導く。

そして、やはり、アレスは、極右支持率の高い都市であるということが判明した。

 

私は、自分の陰毛を、

高校生の集団に明らかに笑われて、

とても傷ついた。

何度上演回数を重ねても、作品が、全く同じように舞台の上に現れることは一度たりとない。

なんらかの歯車がずれて、

公演の質が落ちてしまったことによって、観客の集中を欠いたとも考えられる。

しかし、このような政治的背景が、

芸術鑑賞事業の一環で、

仕方なく劇場にやって来た彼らの反応に、

少しでも影響を及ぼしているという事実があるとするならば、

パリで、「芸術」作品として注目を浴びて舞台に立つよりも、

「公共的」側面からみて、

私にとっても、彼らにとっても、

よっぽど意味のある1日だったと思う。

 

 

 

 

「公共の芸術」って何?

無事、初日があけました◎
初日があけてから、R15指定だったことを知った。
国のお金で、堂々とR15指定作品を作り、
刺激が強いと出ていった観客の存在を、
「成功のしるし」と喜ぶ仲間たちを片目に、
あいちトリエンナーレへの文化庁補助金停止のタイミングだったので、
「芸術と公共」ということを強く考えさせられた。
私は、この3年半、フランスの公共劇場の作品だけに関わってきた。
今回の作品も含めて、政治的な主張が強い作品もあったけど、
常に、「公共劇場のプログラム」ということに守られてきた。
日本と同じように、フランスでも、パリと地方の芸術格差というものは存在する。
ただ、地方の公共劇場も、
全力でアーティストの表現の自由を守ってきた。
だから、フランスのアーティストは、地方の観客をバカにしない。
一言で言えば、R15指定されるような、「エッジ」の効いた作品を、地方の公共劇場にプログラムするリスクは高い。
観客が、劇場に「芸術」よりも「娯楽」を求めている場合が多いからだ。
しかし、公共劇場は、公共劇場だからこそ、「いい子」のプログラムになってはいけない。
古典もアヴァンギャルドも、
具体も抽象も、
より多様なプログラムを1年間で提供することで、最終的には、「公共的(みんなのため)」になる。
なぜなら、芸術に対する「公共的な」嗜好などというものは存在しないのだから。
芸術は、「みんな(公共)」を喜ばすものではない。
ただ、「みんな」の中の数人のために、
公共的に(国のお金で)存続させていかなければいけないのが、芸術である。
「国のお金は、みんな(が喜ぶもの)のために使うべき」という考え方は、
芸術の本来の意義(=多様なリアクションを引き出すこと)を理解していないと安易に使うことはできないのではないか。
国が、アーティストを全力で守らなければ、
国にとって「いい子」の作品しか生まれない。
国にとって「いい子」の作品は、芸術ではない。
芸術は、いつでも、国にとって厄介な存在であり、
それでいて、国が誤った方向に向かっている時に、
それを、いち早く気づかせてくれる存在なのだ。
だから、国は、国のために、
国にとって「厄介な子」である作品も全力で保護するべきだし、
より多くの人に届ける義務がある。
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