#MeTooThéâtre2:俳優の身体はだれのもの?

「タイトル:女優の身体はだれのもの?」としたかったけど、

あえて、演劇教育に関わる者の立場から、「俳優」とします。

前回のブログで書いた、フランスで起こっている#MeTooThéâtre運動(https://mill-co-run.com/2021/10/26/metootheatre%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%97%e3%81%a6%e3%80%81%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8%e3%80%82/)に関して、被害者の証言のなかで一番多かったのが、演劇学校在学中に起こった(始まった)性的・性差別的暴力である。

以下、一部翻訳。https://www.franceinter.fr/societe/metootheatre-lever-de-rideau-sur-les-violences-sexistes-et-sexuelles-en-coulisses?fbclid=IwAR2BlfQB8JyGuO3-d9FlkB8HzHlVaojdXqtak0NfAmL6w-5qNH50rr78wHE

「外から見ると、社会問題に関心の高い、とてもオープンな職業のように見えますが、実際には女性にとって非常に厳しく、暴力的な環境です」18歳から25歳までの若い女子学生は、いい女優とは、服を脱ぐことも、セックスシーンを演じることも、卑劣で屈辱的な体位をとることも、すべてにイエスと言わなければならないと教えられています。

その一方で、彼女によると、同意の問題が取り上げられることはありませんでした。「リハーサルやトレーニングコースでは、非常に露骨なシーンを目にすることがあるのですが、その際、役者は事前に何をするか、何をしないかを聞かれていないのです」とアガタは付け加えます。若手女優にとっては、「演出家に選ばれたいなら、ケツに手を突っ込まれても、胸を張られても、全力を尽くす」というプレッシャーが大きいのです。

「女優の体は演出家のもの。」
これは私たちにつきまとう決まり文句です。女優の体は演出家のものであり、芸術の名のもとに暴発やトラウマを引き起こし、多くの女優が演技をやめてしまうとアガタは残念がった。

さすがに、私たちが通っていた演劇学校でこのようなことは起きていたり、教えられていたという事実はないが、

民間の演劇学校(今回の#MeTooThéâtre運動でも告発されている学校のひとつ)では、あるクラスで

「授業開始前に女生徒は全員ハイヒールに履き替えて、演技レッスンを受けなければならない」と聞いたことがある。

記事の中にある、この言葉について。

「女優の体は演出家のもの。」

答えはノー。

少なくとも、私の学校では、いい俳優は演出家の言いなりになる俳優ではない、という認識があり、

すべての生徒たちが、3年間の学校生活を通して、いい意味で「めんどくさい俳優」に育っていったと思うし、

私はそれを誇りに思っている。

学校や養成所で演劇を学ぶ生徒たちに伝えたいのが、大前提として、学校は、なんらかの結果または技術を身につける場所ではなく、そこにたどり着くための、安全かつ持続可能なプロセスを学ぶ場である、ということである。

先生から教えてもらうのは、うっとりするような発声でも、並外れた身体能力でも、すばらしい演技力でも、ましてや、演出家にいわれたら瞬時に服を脱げるようになることでも、歯を食いしばってセックスシーンを演じられるようになることではない。

どんなシーンであるかを俳優自らが的確に理解し、

そのシーンを実現するための演技を構築し、

心身ともに安全性を保った状態で、

演出の効果を存分に発揮できる「再現可能」なものにするためのプロセスを学ぶのである。

もし、このプロセスをすっ飛ばして、結果だけを求めてくるような講師がいれば、

それは教育と言えるものではないので、

疑ってみた方がいい。

演劇教育において、先生は答えを持っている人ではいけないと思う。

なぜなら、「私」と「先生」の身体は違うから。

生徒たちの身体の内部で起きること、外部で起こしたいこと、そのことに一番敏感であり、知識と体感をもっているのは自分自身である。

ただ、そこにたどり着くために、

俳優の心身の安全を第一に考え、その演技を持続可能なものにするためのプロセスを示唆し、伴走してくれる人。

演劇の講師は、それ以上でもそれ以下でもないと思う。

フランスでも日本でも演劇の講師は、

現役の演出家である場合が多い。

新米の俳優たちにとっては、学びの場であるとわかっていながらも、

仕事につながる可能性もある「オーディション」的な意気込みで挑んでしまいがち。

この態度が、生徒と講師のヒエラルキーを助長し、#MeTooThéâtreに発展する空気を作ってしまうこともある。

私も在学中に、講師として学校にやってきた、現役の演出家のもと、パゾリーニの戯曲で、人生はじめての全裸シーンに挑戦した。

その時は、演出家にまず作品を読み込んで準備ができたら言ってというようなことをいわれたので、

戯曲を読み解くと同時に、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』をすり切れるほど読んだ。

動物は生殖活動としての交尾しか行わないが、エロス的行為を行うのは人間だけである。

エロス的行為と交尾は、生物学的に共通点があるとしても、その意味や価値という点では本質的に異なるものとバタイユはこの本で言及している。

この本を通して、徹底的にエロス的行為を自分の身体を使って「再現」することの意味や価値をドキドキ、おどおどしながら考えた時間は、今思い出しても、必要不可欠であったと思う。

この本について演出家とも一緒に議論しながら、服を脱いで稽古していく段取りを決めた。

まず、ファーストステップとして、スタッフ、シーン以外の共演者を介入させず、

演出家と私とパートナー役の3人だけでリハーサルをし、シーンが固まってきたら、スタッフも含めての稽古に移行した。

すべて次のステップに移行するタイミングを決めたのは私だ。

今思い出すと笑ってしまうけど、

昼ごはんのあとのリハーサルで、「今日は食べ過ぎてしまってお腹がでていて恥ずかしいので、脱げません」と演出家に言いにいったこともあるが、笑われることなく「わかりました」と言われた。

俳優の身体はどこまでも俳優のものである。

作品のものでも、演出家のものでもない。

稽古で勇気なんかださなくていい。

稽古は本番じゃない。

「俳優魂」「女優魂」ということばが、最終的に生まれた大胆な演技に対するものではなく、

安全、持続可能でその素晴らしい演技にたどり着いたプロセスを称賛することばになることを願って。

#MeTooThéâtreに関して、私が考えること。

今年6月に行われた「#BalanceTonCirque」のハッシュタグで、サーカス業界でのmetoo運動がおこり、とうとう演劇界でもmetoo運動が勃発。

ナンシーの芸術監督、ミシェル・ディディムに対する性的・性差別的暴力の告発を受けて、「#METOOTHEATRE」運動が展開されている。

英語の記事:https://lejournaldupeintre2.wordpress.com/2021/10/03/michel-didym-accused-of-sexual-misconduct-and-rape/


私は公演中で参加することはできませんでしたが、10月16日(土)11時にパレロワイヤル前で大規模な集会があった。

https://www.franceinter.fr/societe/metootheatre-lever-de-rideau-sur-les-violences-sexistes-et-sexuelles-en-coulisses?fbclid=IwAR2BlfQB8JyGuO3-d9FlkB8HzHlVaojdXqtak0NfAmL6w-5qNH50rr78wHE

今回の告発、証言で注目すべき点は、なんといっても、演劇学校時代に受けた性的・性差別的暴力の実態だと思う。

映画界でのmetoo運動の時は、すでにキャリアをスタートした若い女優たちが、数々の被害を証言したが、

演劇界における証言は、演劇学校時代に受けたとされる暴力が非常に目立った。

ことの発端となった、ミシェル・ディディム氏に関する告発も、被害者が演劇学校時代に受けた暴力で、ふたりは生徒と講師の関係だった。

私自身も、このブログを通して、フランスの国立演劇学校に関して、多くのポジティブでクリエイティブに溢れためぐまれた環境に言及してきたので、

同等に、性的・性差別的暴力が演劇学校で起こっている現実に関しても考えてみたいと思う。

立場の弱い人間が声をあげ、社会単位のムーブメントとなっていくことの重要性は、

本来、自分はその問題に関係していないと思っていた人たちの記憶も修正されることであると思う。

自分が弱い立場、もしくは経験が浅い時分に受けた被害は、

往々にして、「自分のせいだ」と思い込んでいるものである。

私の場合も同じで、卒業公演のリハーサルをしている時に、

ゲオルク・ビューヒナーの『ダントンの死』という戯曲をある若手の演出家と創作した。

フランス革命を描いた戯曲で、女性の役が非常に少なかったが、

女子学生たちも、男性のフランス革命家たちを演じることになった。

そんな中、私は、数少ない女性の役、高級娼婦マリオンを配役され、天にも昇る気持ちだった。

フランス演劇界で、『ダントンの死』のマリオンといえば、非常に有名な人物で、

若い女優なら誰もが、マリオンの有名なモノローグを演じることを夢みるといっても過言ではないと思う。

私は自分で演出の構想を練っているところに、演出家がやってきて、

「小津安二郎の映画のようなマリオン」をイメージしているというようなことを言われ、目が点になった。

フランスで日本人として女優をしていると、小津安二郎作品にでてくるような女性像を想像されたり、求められたりすることは、それまでも頻繁にあり、それだけ、小津が浸透しているフランスを逆に尊敬していたが、

マリオンと小津のつながりは、全くわからなかった。

なんといっても、マリオンの有名なモノローグは、女性として自身の性欲を全肯定し、性への欲望を言葉にして紡いでいくところに、この作品のもうひとつの「革命」が起こるシーンなのだ。

私が、呆然としていると、その演出家は、「明日オリーブのマッサージオイルを持ってくるから、ダントンにオイルマッサージをしてあげながら、このセリフを言ったらいいと思う」と続け、

日本で東南アジアの女性がマッサージとかする店があるよね、というようなことも言った。

当時は、この発言の重大さがよくわからず、単純に演出としてダサいと思い悶々としていると、

当時から、人種差別や性差別に敏感だった同級生が、

その演出家の発言を聞いていて、「絶対にありえない!」と私のところに言いにきた。

もし、マリオンの役をできなくなってしまったらどうしようという気持ちもあったが、

勇気を振り絞って、「オリーブオイルは使いたくないので、一度自分たちだけでシーンを作らせてください」と演出家にいいに言った。

演出家は少し驚いた様子だったが、私に任せてくれて、最終的に、自分のイメージ通りのシーンとなり、上演はいい思い出として昇華されてしまっていた。

数年後、この演出家は性暴力である女子学生から訴えられた。

その時、私は、この「オリーブオイル演出事件」を反芻し、なんともいえない気持ちになっていた。

metoo運動に関して、なぜ数年もたってから告発するのかと疑問をもつ男性がいるが、

特に、学校のような環境では、まず「自分に問題がある」と学生たちは思うものである。

フランスの国立演劇学校はそれだけ力を持っているし、

入学するのも非常に大変だし、入ってからも、いろんな意味でプレッシャーは絶えない。

外部からやってくる講師との出会いは、卒業後の仕事にもつながるし、非常に重要な関係づくりを求められる。

何年間も、「自分に問題があった」から起こってしまったと、苦しんでいる女性たちがたくさんいる。

先月アテネの演劇祭に招待され、訪問した際、

私が一緒に仕事をしている演出家の事務所のカナダ人の社長とタクシーで劇場に向かう機会があった。

アテネの市街をでて、移民がたくさん住んでいる地区を車で走っている時、

タクシーの運転手が私たちに、

「ここは、アテネじゃないから、美しくないよ」と笑いながらいった。

カナダ人の社長はすぐに反応して「移民が住んでいる場所だからそういうことをいうの?カナダはギリシャ人の移民だってたくさん受け入れている。私はそれを誇りにおもっている。」と返した。

運転手は「ギリシャ人の移民とアラブ人の移民は違う。」という発言をし、

社長は怒って、「人種差別的な発言だから、もう話したくない」とその場ではっきりと自分の立場を明確にした。

劇場についてすぐに、フェスティバル事務所にタクシーの車内で起こったことを報告し、

タクシーの会社に電話するように指示していた。

私は、起きた出来事にあっけにとられて、その社長に「なんか、すごい感動しました」と意味のわからないコメントをすると、細かいことでも、気づいたときにすぐに行動しないと差別は絶対なくならない、と言われた。

しかし、この「気づいたときにすぐに行動」が一番難しい。

先日、とある撮影の衣装合わせで、大手プロダクションの衣装部門を訪れた時、

自分が演じるのは日本人の役だったので、

服の細部が、「ここはちょっとヨーロッパ的かも」とコメントしたら、

「日本人も韓国人も中国人も、みんなフランスに憧れて、フランスの真似してるんだからいいのよ。ヨーロッパの洗練さはないもの」

といわれ、その発言はおかしいのではないかとその場で思ったが、何もいえなかった。

「#METOOTHEATRE」から、話はずいぶん逸れてしまったが、性的・性差別的暴力の根源にあるのは、もっともっと小さな、どこにでも転がっているような差別する気持ちなのだと思う。

だから、どんなに小さなことでも、気づいた人が、その発言はよくないと思う、その行動はよくないと思うと、伝え続けていくということが、私には非常に重要に思えてならない。

自分たちが恵まれている環境にいるということは、それだけ、その恵まれた環境を濫用する人たちも多く存在する可能性があるということである。演劇学校に関しては、素晴らしい3年間を過ごした場所なので、美化したい気持ちもあるのだが、現実から目を逸らさないよう、今起きていることを自分なりに考えていこうと思う。

第64回岸田國士戯曲賞授賞式について

改めまして、市原さん、岸田國士戯曲賞受賞おめでとうございます。

先日、KAATで行われた第64回岸田國士戯曲賞の授賞式に関して、

俳優、女性、30代前半、そして、無名という立場で、

祝辞を述べさせていただいた立場から、どうしてもリポートしたいことがあってここに記します。

授賞式の数日前、市原さんから、最近演劇界で彼女が感じていることなどを踏まえ、受賞式での祝辞の依頼を受けました。

市原さんの受賞を誰よりも喜んでいるうちのひとりとして、

公の場で、祝辞を述べられるなんて、願ってもないことですが、

祝辞を述べる錚々たるメンバーのお名前を聞き、さすがに躊躇しました。

でも、市原さんに、「私のことは褒めなくていいから、こういう場を利用して言いたいことを言ってほしい」と言われ、心を決めました。

また、今年の岸田戯曲賞は、選考委員のハラスメント問題が浮き彫りになった年でもあります。

この件に関して、舞台芸術関係の友人から話をきいたり、創作現場における俳優という立場の危うさについて、議論を交わしました。

偶然にも、わたしは、授賞式の数日前まで、「『民主的演技』を考えるワークショップミーティング」というオンラインワークショップを開催していて、参加者の方々と3日間、さまざまな角度から創作現場における「民主主義」について考えていたところでした。

その中で、俳優の参加者の方が、声をつまらせながら、パワハラの件に言及し、「わたしたちが声をあげたところで、味方をしてくれる人は本当にいない」と勇気を持って発言してくださいました。

そして、私自身は、パワハラもセクハラも経験したことがないと10年間思ってきましたが、日本を離れる前の日々を思い出しました。

当時は、演出家からの行き過ぎた「ダメ出し」や威圧感、反民主的な態度に出会った時、

自分の俳優としての技量が足りないことに問題がある、もっと強くなるために修行をせねば、と心から思っていました。もちろん、自分が未熟だったことにも要因はありますが、当時はすべて「自己検閲」をして解決していたので、努力すればするほど自信を失っていきました。

そこでフランスに渡り、一から学校に入り演劇を勉強しましたが、そこで学んだことは、「創作現場における俳優のあり方」に関することばかりでした。

祝辞を書き始めた当初は、俳優というより、友人として祝いの言葉を送ろうと思っていましたが、次第に自分の「俳優、女性、30代前半、そして、無名」という立場で発言できることがどれだけ意味のあることか、そして、それを選んだ市原さんの覚悟と勇気と信頼にも応えたいと思いました。

授賞式当日。受賞者という立場でありながら、審査員のジェンダーバランスの話から、ハラスメントの問題にしっかりと言及しました。

「今回、選考委員の方のハラスメントの問題もあったと思います。私もハラスメントのようなことをしてしまったことが正直、あります。それで本人に謝ったこともあります。ハラスメント自体、気を付けていかないといけないというのは当たり前ですが、何かしてしまったときに謝れない、認められないということは良くないことだと思っています」(市原)

この言葉を受け、会場には、権威がある方々もたくさんいて、「は?」と思われるからもしれないけれど、市原さんにだけは、絶対に伝わるから大丈夫!と安心して壇上にあがりました。

そのあとは、相馬千秋さんの業界の圧倒的男性優位を力強く言及するスピーチ。その中で、市原さんの書く台詞は、「言葉が言えない人たちに、言いたくても言えなかった言葉を声に出す機会を与えている」という捉え方が、多義的な意味で本当に的を得た見解だったと思います。

フランスには「La Solidalité Féminine」という言葉があります。

これは直訳すると「女性の連帯」という意味ですが、

女性同士で生理の日程が被っただけでも使ったりするような、日常的によく耳にする言葉です。

あの日、わたしたちの間には、女性同士で「徒党を組む」的な堅苦しい連帯感ではなく、

この日のために、お洒落な洋服を選んだり、特別な日だからしっかりお化粧したり、そういうことも含めて、

非常に温かみのある「La Solidalité Féminine」が生まれていたと思います。

そこに絶対的な信頼と安心感があったからこそ、社会に立ち向かっていけるような「強いパフォーマンス」ができたこと、心から感謝しています。

最後に、わたしが「俳優」という肩書きだけで書いた祝辞の一部を、ここに公開したいと思います。

—————-

皆さん、俳優という生き物は、ベース真面目です。演出家の求める世界観に少しでも近づこうと必死に稽古します。その真面目さゆえに、本来役割がちがうのに、演出家を「先生」と取り違えてしまうこともあります。心から尊敬する演出家なら尚更です。わたし自身、同世代の市原さんに対して、彼女に抱く愛情と敬意のため、彼女を「先生」と崇めてしまったこともあります。演出家の側に、そんな俳優の気持ちを利用するような意図はなくても、このような関係をほっておくと危険です。収益を求めるようなビジネスの場でもなく、収益を度外視した奉仕活動でもなく、チーム一丸となり社会に問いを突きつける芸術創作の場だからこそ、お互いに安心して「NO」と言い合える、それぞれのプロフェッショナリズムを最大限発揮できる関係が必要ではないでしょうか。

沖縄滞在制作も終盤に迫ったある日、決死の覚悟で「もう続けられない」と市原さんに伝え、彼女はそれを受け入れました。しかし、翌日、沖縄の観客の前で、作品の一部を発表したとき、喜びと興奮でいっぱいになりました。そして、どんな苦労をしてでも、この作品を世に送り出したいと思わせる市原さんの戯曲の強度を痛感しました。小説と違って、「戯曲」という媒体で書き続けるということは、その作品を社会に提示するにあたり、人と関わることを選んだということだと思います。そんな覚悟を持った劇作家と仕事ができることは、俳優にとってとても幸せです。

 

 

「公共の芸術」って何?

無事、初日があけました◎
初日があけてから、R15指定だったことを知った。
国のお金で、堂々とR15指定作品を作り、
刺激が強いと出ていった観客の存在を、
「成功のしるし」と喜ぶ仲間たちを片目に、
あいちトリエンナーレへの文化庁補助金停止のタイミングだったので、
「芸術と公共」ということを強く考えさせられた。
私は、この3年半、フランスの公共劇場の作品だけに関わってきた。
今回の作品も含めて、政治的な主張が強い作品もあったけど、
常に、「公共劇場のプログラム」ということに守られてきた。
日本と同じように、フランスでも、パリと地方の芸術格差というものは存在する。
ただ、地方の公共劇場も、
全力でアーティストの表現の自由を守ってきた。
だから、フランスのアーティストは、地方の観客をバカにしない。
一言で言えば、R15指定されるような、「エッジ」の効いた作品を、地方の公共劇場にプログラムするリスクは高い。
観客が、劇場に「芸術」よりも「娯楽」を求めている場合が多いからだ。
しかし、公共劇場は、公共劇場だからこそ、「いい子」のプログラムになってはいけない。
古典もアヴァンギャルドも、
具体も抽象も、
より多様なプログラムを1年間で提供することで、最終的には、「公共的(みんなのため)」になる。
なぜなら、芸術に対する「公共的な」嗜好などというものは存在しないのだから。
芸術は、「みんな(公共)」を喜ばすものではない。
ただ、「みんな」の中の数人のために、
公共的に(国のお金で)存続させていかなければいけないのが、芸術である。
「国のお金は、みんな(が喜ぶもの)のために使うべき」という考え方は、
芸術の本来の意義(=多様なリアクションを引き出すこと)を理解していないと安易に使うことはできないのではないか。
国が、アーティストを全力で守らなければ、
国にとって「いい子」の作品しか生まれない。
国にとって「いい子」の作品は、芸術ではない。
芸術は、いつでも、国にとって厄介な存在であり、
それでいて、国が誤った方向に向かっている時に、
それを、いち早く気づかせてくれる存在なのだ。
だから、国は、国のために、
国にとって「厄介な子」である作品も全力で保護するべきだし、
より多くの人に届ける義務がある。
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語学習得者よ、媚びるな、「尊厳」を持て!

2018年、KYOTO EXPERIMENT、

私は、市原佐都子さんの『妖精の問題』に出演していて、

大好きなドイツのカンパニー、She She Popのメンバーたちが客席に観に来ていた。

「カンジダになったことがある方、いらっしゃいますか?」と、

客席に投げかける台詞で、

そのうちの一人の女性が、英語字幕を見るや否や、凄まじい勢いで手を挙げてくれた瞬間は、

今でも鮮明に覚えている。

終演後、ロビーで、彼らに英語で話しかけられて、

「私も、あなたたちの作品をたくさん見ている!」ということを伝えたかったのに、

「英語が話せない」という事実が頭を占有していたため、

なけなしの「センキュー」しか出てこなかった。

 

その時から、ずっと勉強したかった英語。

今年の夏休みと春休みに、日本に帰国していた時間を使って、英会話に通った。

この経験は、私にとって、「尊厳」の大切さを改めて考えるきっかけとなった。

 

La dignité (IPA: /di.ɲi.te/; Gender: feminine; Type: noun;)

フランス語で、「尊厳」または「品格」という意味のフランス語である。

これは、私が、母国語ではないフランス語という外国語を使って、演技をする上で、

ここ3年ほど、向き合ってきた言葉である。

どんなに専門的に発音を訓練しても、

自分の発している言葉にアクセントは残る。

自分の言語レベルに演技が引っ張られて、

どうしても、幼くなってしまう傾向が強かった。

声の響きや、身体のあり方。

自分の完璧ではない言語能力を誤魔化すかのように、

無意識のうちに、無駄な「笑顔」をつくっていることもあった。

そんな時、憧れの先輩女優から言われたのが、この言葉。

La dignité

「媚びるな、La dignitéを持て!」

結果的に、この訓練は、観客(他者)を心の底から信用することにもつながったと思う。

観客からの分かりやすい好感を得ることよりも、

もっと深い場所で、目には見えない水面下でつながる感覚。

一言で言えば、観客をナメないこと。

 

今回、私が通った英会話スクールは、

マンツーマンで、40分間の授業を60回、さまざまな先生と英語を学んだ。

何を隠そう、私のレベルは初級。

でも、「尊厳」だけは、絶対に失わなかったと思う。

後半は、個人の「尊厳」を守るためのバトルフィールドと化していたと思う。

そこで、「尊厳」を守るために初級の私が心がけたことが以下の3点。

1、英会話の「お客さん」にならない。

2、言葉が喋れなくとも、「思想」レベルは変えない。

3、英会話教師をナメない。

 

相手は、こちらのことをよく知らないわけだから、

放っておくと、当たり障りのない教科書的定型文を使って、

授業が進んでしまう。

というわけで、毎回、自分の関心の持った映画や本、新聞記事などを使い、自分の「思想」を語る準備をした。英会話教師が、興味を持つとは考え難い、芸術における専門的なテーマであっても恐れない。

もう一つは、白人男性講師と、フェミニズムやアジアの政治問題に関して話すことが、英会話を通して一つのアクションになるのでは、という勝手な使命感があった。

 

この夏、特に盛り上がったトピックが以下。

慰安婦問題ドキュメンタリー『主戦場』

レティシア・コロンバニ『三つ編み』

R65不動産「高齢者の入居お断り問題」

イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ――フェミニストは黙らない』

 

「政治的な問題には、触れられない」と怪訝な顔を見せられたこともあったけど、

基本的には、私の語学力の低さで、難解なお題を選んでくる姿勢に、

好意的であったと感謝している。

渡仏時も含め、

子供の頃から、言葉がわからない環境で生活していたことが多く、

言語習得時における「プライド崩壊」慣れをしている私でも、

あの「子どもにかえったような感覚」は、やはり辛い。

 

それでも、

大袈裟なようだが、

「尊厳」は決してなくしてはならない。

 

周りから笑われようと、

どんな状況でも、

たとえ英会話でも、

「尊厳」は持ち続けなければいけない。

 

最後に、自分への贈る言葉として、

望月衣塑子さんの著書『新聞記者』の最後に引用されていたガンジーの言葉を。

 

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。

そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、

世界によって自分が変えられないようにするためである。

 

 

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8年前の大学卒業製作で作った一人芝居のポスター原画を、

日本の新居に飾った。

私の滞在は、1年の4分の1にも満たないが、

すでに「自分大好き」の侵食が激しい。