第64回岸田國士戯曲賞授賞式について

改めまして、市原さん、岸田國士戯曲賞受賞おめでとうございます。

先日、KAATで行われた第64回岸田國士戯曲賞の授賞式に関して、

俳優、女性、30代前半、そして、無名という立場で、

祝辞を述べさせていただいた立場から、どうしてもリポートしたいことがあってここに記します。

授賞式の数日前、市原さんから、最近演劇界で彼女が感じていることなどを踏まえ、受賞式での祝辞の依頼を受けました。

市原さんの受賞を誰よりも喜んでいるうちのひとりとして、

公の場で、祝辞を述べられるなんて、願ってもないことですが、

祝辞を述べる錚々たるメンバーのお名前を聞き、さすがに躊躇しました。

でも、市原さんに、「私のことは褒めなくていいから、こういう場を利用して言いたいことを言ってほしい」と言われ、心を決めました。

また、今年の岸田戯曲賞は、選考委員のハラスメント問題が浮き彫りになった年でもあります。

この件に関して、舞台芸術関係の友人から話をきいたり、創作現場における俳優という立場の危うさについて、議論を交わしました。

偶然にも、わたしは、授賞式の数日前まで、「『民主的演技』を考えるワークショップミーティング」というオンラインワークショップを開催していて、参加者の方々と3日間、さまざまな角度から創作現場における「民主主義」について考えていたところでした。

その中で、俳優の参加者の方が、声をつまらせながら、パワハラの件に言及し、「わたしたちが声をあげたところで、味方をしてくれる人は本当にいない」と勇気を持って発言してくださいました。

そして、私自身は、パワハラもセクハラも経験したことがないと10年間思ってきましたが、日本を離れる前の日々を思い出しました。

当時は、演出家からの行き過ぎた「ダメ出し」や威圧感、反民主的な態度に出会った時、

自分の俳優としての技量が足りないことに問題がある、もっと強くなるために修行をせねば、と心から思っていました。もちろん、自分が未熟だったことにも要因はありますが、当時はすべて「自己検閲」をして解決していたので、努力すればするほど自信を失っていきました。

そこでフランスに渡り、一から学校に入り演劇を勉強しましたが、そこで学んだことは、「創作現場における俳優のあり方」に関することばかりでした。

祝辞を書き始めた当初は、俳優というより、友人として祝いの言葉を送ろうと思っていましたが、次第に自分の「俳優、女性、30代前半、そして、無名」という立場で発言できることがどれだけ意味のあることか、そして、それを選んだ市原さんの覚悟と勇気と信頼にも応えたいと思いました。

授賞式当日。受賞者という立場でありながら、審査員のジェンダーバランスの話から、ハラスメントの問題にしっかりと言及しました。

「今回、選考委員の方のハラスメントの問題もあったと思います。私もハラスメントのようなことをしてしまったことが正直、あります。それで本人に謝ったこともあります。ハラスメント自体、気を付けていかないといけないというのは当たり前ですが、何かしてしまったときに謝れない、認められないということは良くないことだと思っています」(市原)

この言葉を受け、会場には、権威がある方々もたくさんいて、「は?」と思われるからもしれないけれど、市原さんにだけは、絶対に伝わるから大丈夫!と安心して壇上にあがりました。

そのあとは、相馬千秋さんの業界の圧倒的男性優位を力強く言及するスピーチ。その中で、市原さんの書く台詞は、「言葉が言えない人たちに、言いたくても言えなかった言葉を声に出す機会を与えている」という捉え方が、多義的な意味で本当に的を得た見解だったと思います。

フランスには「La Solidalité Féminine」という言葉があります。

これは直訳すると「女性の連帯」という意味ですが、

女性同士で生理の日程が被っただけでも使ったりするような、日常的によく耳にする言葉です。

あの日、わたしたちの間には、女性同士で「徒党を組む」的な堅苦しい連帯感ではなく、

この日のために、お洒落な洋服を選んだり、特別な日だからしっかりお化粧したり、そういうことも含めて、

非常に温かみのある「La Solidalité Féminine」が生まれていたと思います。

そこに絶対的な信頼と安心感があったからこそ、社会に立ち向かっていけるような「強いパフォーマンス」ができたこと、心から感謝しています。

最後に、わたしが「俳優」という肩書きだけで書いた祝辞の一部を、ここに公開したいと思います。

—————-

皆さん、俳優という生き物は、ベース真面目です。演出家の求める世界観に少しでも近づこうと必死に稽古します。その真面目さゆえに、本来役割がちがうのに、演出家を「先生」と取り違えてしまうこともあります。心から尊敬する演出家なら尚更です。わたし自身、同世代の市原さんに対して、彼女に抱く愛情と敬意のため、彼女を「先生」と崇めてしまったこともあります。演出家の側に、そんな俳優の気持ちを利用するような意図はなくても、このような関係をほっておくと危険です。収益を求めるようなビジネスの場でもなく、収益を度外視した奉仕活動でもなく、チーム一丸となり社会に問いを突きつける芸術創作の場だからこそ、お互いに安心して「NO」と言い合える、それぞれのプロフェッショナリズムを最大限発揮できる関係が必要ではないでしょうか。

沖縄滞在制作も終盤に迫ったある日、決死の覚悟で「もう続けられない」と市原さんに伝え、彼女はそれを受け入れました。しかし、翌日、沖縄の観客の前で、作品の一部を発表したとき、喜びと興奮でいっぱいになりました。そして、どんな苦労をしてでも、この作品を世に送り出したいと思わせる市原さんの戯曲の強度を痛感しました。小説と違って、「戯曲」という媒体で書き続けるということは、その作品を社会に提示するにあたり、人と関わることを選んだということだと思います。そんな覚悟を持った劇作家と仕事ができることは、俳優にとってとても幸せです。

 

 

わたしが「民主主義」という言葉をつかう理由

コロナウィルスが「普通の」生活を完全に呑み込むまで、3日もかからなかったと思う。3月の初め、わたしはフランス・ブルターニュ地方の1000人規模のホールで公演をしていて、次のツアー公演までの1週間の休みをパリの自宅で過ごしていた。つい数日前まで、わたしたちは頬と頬で挨拶のキスを交わすたびに、おっと、コロナがうつっちゃう!と冗談を言って笑っていた。ところが、あっという間に感染者数は幾何級数的に増えていった。200人が400人、400人が800人、800人が1600人にという具合に。そして、3月13日金曜日、ベッドの中で、スマホの画面から公演中止のメールを読んだ。ベッドから起き上がれないまま、演出家に次の公演の時に伝えようと思っていたアイディアをショートメールで送りながら、なぜ今みんなと一緒にいることができないのかどうしても納得できなかった。昨年は、黄色いベスト運動によるデモで、1日だけ公演が中止になった。あの時は、みんなで決めた。楽屋の前の廊下で、大きな身体のフランス人たちが地べたに座って、横に長い円になって長い時間話し合った。今回はそれもできなかった。どんなに小さなことでも、話し合って決めてきたのに。公演の機会を奪われることよりも、わたしたちがなによりも大事にしてきた「話し合い」をコロナに奪われたことが、一番辛かった。

気持ちが整理できないまま日本に帰国したわたしは、民主主義について考えていた。かといって、政治について考えていたわけではない。2018年夏に放送されたNHKの番組で、「哲学界のロックスター」こと、マルクス・ガブリエル氏は、民主主義について聞かれ、以下のメッセージを残している。

 

日本に張り巡らされた網の目は窮屈かもしれない

だが そこにある見えない壁(ファイアウォール)を乗り越えないといけない

それを毎日アップデートすることが大切

日々 家族でも友人でも 冷笑的で反民主的な態度に出会ったら、ノーと言おう

みんなと違っても言おう

「自由」に考えることに最上の価値を置くべきです

(NHK BS1スペシャル「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」2018年7月15日放送)

 

今まで、社会主義とか、民主主義とか、政治体制など考えたこともなかったが、いきなり「民主主義」という言葉がわたしの身体に、ドゥルーズのいうところの「不法侵入」をし、ジジェクのいうところの「事件」を起こした。政治的な言葉だと思っていた「民主主義」が、哲学的な言葉として存在していた場面に遭遇したのだ。かつて、ミッシェル・フーコーは、哲学の役割をこのように定義した。

 

すでに久しい以前から哲学の役割は、隠れていたものを露呈させることではなく、見えるものを見えるようにすることだった。(中略)見えないものを見えるようにするのは科学の役割なのだ。(ミッシェル・フーコー,渡辺守章『哲学の舞台』朝日出版社,2007 p.148)

 

マルクス・ガブリエル氏は、毎日のように見聞きしていた「民主主義」という概念を、わたしに「見える」ようにしてくれたのだ。「日々、家族でも友人でも、冷笑的で反民主的な態度に出会ったら、ノーと言おう」には胸をつかれた。わたしはできていなかったから。

日本では、舞台で体験する演劇が好きだった。フランスに行ってからは、表舞台よりも舞台裏で営まれる「演劇」の虜になった。そこは、「民主主義」が実現されている場所だった。いつも笑顔でみんなのやりとりを聞いているだけだったわたしは、「冷笑的で反民主的な態度に出会った」とき、演出家でも、憧れの先輩俳優でも、ちょっととっつきにくい技術スタッフでも、徐々に「ノー」と言えるようになった。そして、わたしたちの中心には、作品に関係することでもしないことでも、どんな時でも「話し合い」があった。だから、コロナ禍で演劇の仕事が一切なくなったとき、わたしが、なによりも欠乏感を感じていたのは、「民主主義」だったのである。

豊岡演劇祭において、演劇を通して「民主主義」を考える、そして、感じる場を与えていただいたこと、心から感謝します。たとえ未熟でも、言葉にしようとしたことだけが、考えることにつながります。「言葉にしようとする」行為の連続が、なんだか大事そうだけど、超とっつきにくい「民主主義」という言葉を、もっと「見える」ように手助けしてくれるはずだと信じて。

https://note.com/toyooka_tf/n/n6086be229650

 

【豊岡演劇祭2020 フリンジ】「民主的演技」を考えるワークショップミーティング

みなさん、こんにちは。竹中香子です。
普段は、フランスで演劇をやっています。

國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』という本があります。
哲学の先生である國分功一郎氏が、一般の人から寄せられた人生相談に答えていくというシンプルな本です。
この本を読んだときに、俳優として、この本で展開されている國分氏と相談者のような関係を、演出家及び共演者、スタッフと結ぶことができたら、演劇界は革命的に変わると直感しました。

哲学の先生の人生相談というと、なんだか小難しい教えを請うというイメージですが、國分氏はとにかく相談者の文章を読み解きます。
セックスの悩みから、恋愛相談、上司の愚痴まで、正直、しょうもないと思える相談もたくさん…。しかし、國分氏は、相談者の一文一文と真摯に向き合い、そこに隠された「真理」を見つけようとします。自分の引き出しから何かを取り出すのではなく、あくまでも、相手の引き出しから何かを見つけ出そうとする。この行為は、相談者が自分とはちがう人間であることへの自覚と、それゆえの相談者に対する敬意と信頼がなければできないことでしょう。

他者の話を全力で聴き、他者の自立をそっと促す。
なんて民主的な空間が実現されていることでしょう!

「演じる」という行為もしかり。
「演じる」という行為は、自分と異なる他者の思想に耳をすまし、
「わたしとあなたは違う」を知覚するところからはじまる非常に民主的な行為です。

というわけで、私からみなさんに与えられる演技のスキルやアドバイスは一切ありません。
演技における民主的側面を考えるきっかけになれば幸いです。

【企画の概要】

「演技」というもの、あるいは、演技が生まれる「現場」を、社会背景とセットで考えてみようという企画。多文化多民族国家であるフランスの演劇教育、及び劇場の役割を紹介したのち、多文化多民族国家に求められる「民主的」演技のかたちを考えるワークショップの実践を行う。参加者とともに、人々の多様性を認識することを目的とした、学修者主体の演劇教育現場、および、主体性を獲得した俳優たちが可能とする「民主的」な創作現場の条件を考える。

【ワークショップ内容】

1.フランス国立高等演劇学校における演劇教育の紹介(約30分)

2.「わたしとあなたは違う」を知覚するためのワークショップ実践(約65分)
ZOOMブレイクアウトルーム機能を使用した参加型ワークショップ。

休憩(10分)

3.日本における「民主的」な演技が生まれる創作現場を考えるミーティング(約45分)
あらかじめ参加者から募集した演劇の創作現場及び教育現場における「モヤモヤ」を他の参加者とも共有し、「モヤモヤ」との新しい付き合いや解消方法を模索する。

【日時】

9月17日(木) 18時30分~21時

9月18日(金) 18時30分~21時

9月19日(土) 14時30分~17時

*各回とも同じ内容になります。ご都合の良い日時をお選びください。
*各回6-12名の参加者を予定。
*各回とも、15分前よりZOOM設定の案内開始。不安な方はお早めにお入りください。

【料金】

一般:1000円

学生:500円

前半後半問わず、演劇祭パスポートをお持ちの方:無料  (こちらからどうぞ。)

*peatixよりご購入ください。→ https://minshutekiengi.peatix.com/view
*チケットの販売は各日とも開演1時間前までとなっております。
*コンビニ決済をお選びの方は、開演1時間前までのお支払いをお願いします。未決済の場合、視聴URLをご案内できません。
*定員となり次第販売終了いたします。

【対象】

– 演劇の創作現場でなんらかの「モヤモヤ」を抱えている演劇関係者の方々(演劇を志す学生、俳優、演出家、スタッフ)
-(演劇)教育の現場でなんらかの「モヤモヤ」を抱えている教育関係者の方々

【参加方法】

オンラインミーティングツール(ZOOM)を利用したワークショップミーティングです。チケット購入者には、開始の30分前に、Peatixにご登録のメールアドレスに参加リンクをお送りします。

*事前にZOOMアプリのインストールをお願いいたします。
https://zoom.us/download

*開始時間15分を過ぎてのご参加はできません。あらかじめご了承の上ご購入ください。開始時間5分前までのご集合(ZOOMミーティングへの参加)へご協力をお願いいたします。

【竹中香子プロフィール】

1987年生まれ、埼玉県出身。2011年、桜美林大学総合文化学群演劇専修卒業。幼少期に、親の都合で中国に滞在。全く中国語ができないのに、北京の現地小学校で1年間サバイブした経験から、2011年、全くフランス語ができない状態で、演劇を学びに渡仏。2013年、日本人としてはじめてフランスの国立高等演劇学校の俳優セクションに合格し、2016年、フランス俳優国家資格(Diplôme National Supérieur Professional de Comédien)取得。パリを拠点に、フランス国公立劇場の作品を中心に多数の舞台に出演。Gillaume Vincent演出作品に多く出演する。第72回アヴィニョン演劇祭、公式プログラム(IN)作品出演。2017年より、日本での活動も再開。一人芝居『妖精の問題』(市原佐都子 作・演出)では、ニューヨーク公演を果たす。日本では、さまざまな大学で、自身の活動に関する特別講義を行う。2020年より、カナダの演出家Marie Brassardとのクリエーションをスタート。2020年秋からは、フランス演劇教育者国家資格(Diplôme d’État de professeur de théâtre)取得のための2020年度研修クラスに参加し、演劇公演と並行し、演劇教育を学ぶ。

主催:竹中香子
提携:豊岡演劇祭実行委員会

<免責事項>
■キャンセル・再発行について
・ご購入後は原則として、開催中止の場合を除き キャンセル・返金不可です。
・やむを得ない事情によりキャンセルの場合は主催者までご連絡ください。
・チケットは、紛失、盗難、破損、 その他いかなる事情によっても再発行いたしません。

■譲渡について
チケットの譲渡は不可です。

■販売の終了・再開について
チケットの販売期間中であっても、販売予定枚数に達した時点で販売を終了いたします。
但し、追加開催を行う場合は、 チケット販売を再開することがあります。

俳優と観客のための『共振力』のすすめ

遅ればせながら、2020年もよろしくお願い致します。

『千夜一夜物語』フランス地方ツアー、2020年度2都市目は、ブザンソン。

スイス国境近くに位置するこの街は、かのヴィクトル・ユーゴーを輩出した街でもある。

 

さて、ブザンソンは、演出家ギヨーム・ヴァンサンにとって、特別に思い入れのある街で、

彼が無名の時代から今まで、全作品に出資していた劇場だそう。

フランスの場合、カンパニーだけで作品製作を受け持つことは珍しく、

特に公共劇場の場合は、地方の劇場も、作品が出来る前から、co-productionというかたちで、共同出資する。

2年目の地方ツアー先は、出来上がった作品を観て、気に入れば作品が買うわけだが、

1年目の地方ツアー先は、作品が出来る前から、お金を出してくれた、いわばビジネスパートナー的な劇場なので、これからの関係性のためにも、作品で恩返しすることが重要だと、私は考えている。

つまり、ブザンソンの街の公共劇場は、

ギヨームのビジネスパートナーとして、

彼が若い時から、彼のカンパニーと共にリスクをとって、彼の創作を支え続けた歴史がある。

パリの劇場の場合、ある劇場に訪れる観客は、作品によっても変わるが、

地方に行けば行くほど、観客は固定化する。

つまり、劇場のカラーは、「観客」がつくるというっても過言ではない。

 

そんなブザンソンの観客は、天下一品。

ここ3年くらいで、フランスの40都市近くの街で、公演を経験してきた私だが、

いまだかつてブザンソンほど、質の高い観客を抱える劇場には、出会ったことがない。

最初に訪れたのは、2年前。今回で、2回目である。

ブザンソンの観客の何がすごいかというと、

それは、『共振力』の高さである。

この言葉は、数年前に、落語についての作品をフランス人とつくっていて、

落語と仏教の関係について調べていた時に、学んだ言葉である。

 

説教と語り芸能の深い関係における、落語の「共振力」について書かれた素晴らしい本がこちら。演劇にも共通することもたくさん書かれている。

『落語に花咲く仏教 -宗教と芸能は共振する』朝日選書-釈徹宗

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この本によると、

落語はとても動きが制限されているがゆえに、多くの共振現象を起こすともいえる。それが落語の特性なのだ。落語は聞き手のイマジネーションに頼った話芸である。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.146

 

これは、多様な表現形態からなら現代演劇に直接当てはめて、「多くの共振現象」を起こそうと考えるのは、少々酷である。

 

では、以下はどうだろう。

語り手と聞き手のイマジネーションが共有されると、その場は高度なものになる。もっと高度な場になれば、その場にいる大勢のイメージがかみ合い出し、まるで宗教のような場がクリエイトされ、非日常へとジャンプさせてくれる。

(中略)

つまり、説教も落語も、語り手と聞き手の双方が「自らその場にチューニングしていく」ことで成り立つのである。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.147

 

ここで、書かれている「語り手」と「聞き手」の関係を、

「俳優」と「観客」に置き換えると、双方に、「自らその場にチューニングしていく」能力が求められることになる。

落語において、観客に求められるスキルとレスポンサビリティは非常に大きいということがわかる。

 

そして最も重要なことは、その場にシンクロすることができれば、心身が心地よい喜びに満たされるということである。我々はシンクロした場が心地よいと感じる心身をもっている。これは、遥か古代から連綿と続いてきた人類の本性である。

シンクロした場を繰り返し経験することで、チューニング能力も身についてくる。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.147

 

ここで書かれている「チューニング能力」を「共振力」と捉えると、

ブザンソンの観客の「共振力」は非常に高いといえる。

まず、舞台芸術空間において、「観客」という自分たちの立場が必須要素であるという自覚が極めて高い。

舞台に出た瞬間から、尋常ではない観客の集中力にさらされる。

そこから、徐々に、この空間において俳優と観客が「シンクロ」していくための、

「チューニング」が始まり、一気に「共振」へと向かう。

 

公演後の劇場ロビー及びバーの賑わい方も半端ではない。

3時間に及ぶ公演にもかかわらず、「シンクロ」を経た成果、俳優も観客もエネルギーに満ち溢れていて、そこかしこから笑い声が絶えない。

 

『共振力』は、決して、俳優だけが身に付けたい能力ではない。

俳優たちだけの力によって、何かとてつもないものを、この場に産み落とそうと闇雲になるのではなく、

ちょっと肩の力を抜いて、私たちの身体に備わっている『共振力』に頼ってみる。

俳優が与える側に、観客が受け取る側に徹するのではなく、

その間に生まれる、全く新しいものを恐れない力。

言葉にするのは、本当に難しいけれど、

公演が終わって、いつもとは違う拍手に包まれていた時、

もう何度も公演しているのに、ちょっと泣きそうになって、急いで楽屋に戻った。

あとで、40歳を越したベテラン俳優たちと話していたら、彼らもそうだったようで、

「なんか感動しちゃった」と、

すこし赤くなった目で、照れ笑いしていた。

 

 

 

「感覚」が鈍い俳優に未来はあるか。

パリで12月5日起きた大規模デモの影響を受け、

交通機関がほぼ麻痺しながらも、

観客は減ることなく、

『千夜一夜物語』、無事、5週間のオデオン座公演を終えることができました。

 

歌舞伎俳優やミュージカル俳優でもない限り、

1ヶ月連続公演は、

なかなか経験できない体験。

私も、人生2回目の経験。

初めての時は、セリフも少なかったのに、毎朝、声が出なかったらどうしようという恐怖とともに目覚め、

語学レベルがそんなに高くなかったにもかかわらず、

シェイクスピアのテキストだったので、

いつ何時もセリフがすっぽ抜ける恐怖と戦っていて、

正直、俳優としてクリエイティブな仕事ができていたか聞かれると自信を持って答えることは難しい。

 

よく、芸術に携わるものには、言葉にならない「感覚」という能力を期待される。

俳優も然り。

残念ながら、私は、この「感覚」というものが非常に疎い。

例えば、「感覚」が優れている人は、耳がいい。

視覚よりも、聴覚で空間を捉えることに長けている。

例えば、音楽に携わっている人は、外国語習得が早いという傾向は、想像に容易いであろう。

私の場合、「感覚」及び「聴覚」が鈍いので、

すべて、口の中の形(舌や唇の位置)を、ひとつひとつ理解して、自分なりの「言葉」で解釈してから練習しないと、フランス人の発音に近づくことは不可能であった。

 

私がパフォーマンス向上のために目をつけたテーマが「言語化」である。

「感覚」が鋭い人にとっては、邪魔になるだけだと思うが、

「感覚」が鈍い人だからこそ、「言語」の力をかりて、

俳優のパフォーマンスをあげることができるのではないかと考えている。

 

数年前から、人工知能AIの研究などで、「身体知」という言葉を、よく耳にするようになった。

もともと、「身体知」という言葉は、スポーツ選手のパフォーマンス向上のために、よく注目さていた技術である。

この「身体知」を利用し、俳優の終演後の「なんか今日は良かった」「なんか今日はダメだった」を分析していくことで、翌日の自分に対して、より具体的な指示かつ有機的な指示を出していけるようになるのではないか。

元ラグビー選手から、「スポーツ教育学」の研究者となった、平尾剛氏の『脱・筋トレ思考』

の中の「身体知」への言及が非常にわかりやすい。

身体知には、以下の3種類がある。

1 始原身体知(生まれつき備わってるもの)

2 形態化身体知(コツとカンで特定の動きや技術を身につける):ゼロを1にする。

3 洗練化身体知(すでに身につけた動きや技術をより精妙にしていく):1を2や3にする。

 

ここでいう「動きや技術」を「パフォーマンス」という言葉に差し替えると、

2が稽古期間、3が本番中(もしくはツアー中)と当てはめることができる。

さらに、2 形態化身体知の過程で重要になってくるのが「コツ」と「カン」で、

発生論的運動学では、この「コツ」と「カン」を以下のように説明している。

 コツとカンはおおよそ同じものであると私たちは認識しているが、この両者はその性質において明確に異なる。発生論的運動学では、「骨」を語源とするコツを「自我中心化身体知」といい、論理的思考と対照を成すカンは「情況投射化身体知」という。

平尾剛『脱・筋トレ思考』

 

つまり、「コツ」は自分の内側から、「カン」は自分の外側で知覚されている。

 

ここまで、「身体知」を理解したところで、

この「身体知」をより具体的に獲得するために、

「舞台経験を積む」にプラスして、

「日々の経験を言語化」してみる。

 

ここでいう「言語」というのは、まさに「自分に響く言葉」である。

例えば、演出家の指示や共演者との話し合いで、

「そのシーンは、もう少しテンポをあげて」という無機質な指示が出たとする。

ここで、テンポをあげるのは簡単なのだが、

より具体的になぜテンポをあげるのかを身体にわからせないと演技としては成立しない。

そこで、この無機質な指示を自分にとって「有機的な指示」に翻訳してみる。

この時は、最終的に「自分をめちゃめちゃ美人だと思い込む」という言葉と出会った時に非常に適切なテンポにたどり着けた。

 

ここで参考にしたのが、諏訪正樹氏の「からだメタ認知」という研究である。

彼が提唱しているのは、「ことばの力をかりて体感への留意を保つ」ということである。

この方法と出会わなかったら、

5週間クリエイティブなモチベーションを保ち続けることは不可能だったと思う。

 

方法は簡単。

毎日、前日のパフォーマンスを振り返り、パフォーマンスをしている際の「感覚」を、ただひたすらに言語化していく。

この時に「コツ的側面(自分の内側)」と「カン的側面(自分の外側)」、両方の感覚に注目することもポイント。

そして、それを踏まえた上で、その日の夜に行われるパフォーマンスに向けて、

自分への「指示」や「キーワード」、「気をつけること」を記述していく。

場合によっては、共演者もしくは演出家との話し合いを必要とすることもある。

 

これは、まさに新しい言語を学ぶ感覚と同じで、

はじめはどのように「感覚」を言葉に置き換えていいのかわからないのだが、

続けていると、日々、確実に言語記述量が増えていく。

言語記述量の増加に伴って、言葉の種類やニュアンスの差がより細かくなっていく。

演劇の場合、スポーツのように「体感」だけでは成立しないので、

トラマツルギー的にシーンの「解釈」においても、思考の「筋肉」が少しづつついてきて、演技の細かい選択肢が広がる。

 

諏訪正樹氏の著『身体が生み出すクリエイティブ』によると、

 

ことばの力を借りるとは、身体だけではどうしようもない別の機能を合わせて発揮させることである。ことばは連想という技を有している。ことば同士の連想関係や、知識に基づく論理的関係をたぐって、あることばから別のことばに飛躍することができる。

諏訪正樹『身体が生み出すクリエイティブ』

 

やりたいことができることだとは限らないし、

できることがやりたいことだとは限らないのが人生である。

でも、本当にやりたいことは、自分に合った方法さえ見つけ出せば、

自分なりにはできるようになるものである。

 

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