危篤者の権利

コロナ以降、私は以前より積極的に「移動」している。

原油価格の高騰や円安の影響により航空機燃料が値上がりしたことや、オンラインという選択肢を得たことなど、

国際間の「移動」を避ける理由はいくらでもある。

しかし、今年81歳になったイタリアの哲学者ジョルジオ・アガンベンが言及した「移動の権利」に触れてから、

私は「移動」が愛おしくてたまらない。

「移動」にかかるお金は自分にとってかなり優先順位の高い出費となっている。

(2021年に書いた「移動の自由」に関する記事:(コロナ禍での)滞在制作とは何か。

そして、アガンベンが、コロナ禍において警鐘を鳴らしたたもうひとつが「死者の権利」である。

アガンベンは、「死者が葬儀の権利をもたない」社会が訪れているのだと指摘した。

アガンベンは、あくまでも死者の側にたち、あえて死者に対して「権利」という言葉を使う。

「権利」というものは、決して生きているものだけが享受することのできる特権ではないということを思い知らされる。

コロナ禍において、親族のみでしか葬儀を執り行うことができないというニュースが多発していた。

親族以外の生きている側がしっかりと死者とお別れする時間を持てないことは辛いと感じたが、それはあくまでも、看取る側から生きてるものへの思いやりであり、死者の権利については考えたことがなかった。

そして、昨年末、父の死をきっかけに「危篤者の権利」というものについて深く考えさせられた。

父は長らくパーキンソン病を患っていたが、自分の意志で、在宅介護のサポートを受けながら、一人暮らしを続けていた。

担当のケアマネージャーからは、安全などの観点から、これ以上、一人暮らしを続けていくことは不可能と繰り返し言われており、数年前からさまざまな住宅型介護施設をふたりで見学して回った。

しかし、研究書で溢れかえった自宅で住み続けたいという意思は変わらなかった。

去年の夏頃にも、体調が悪化し、介護施設への入居を勧められたが、

コロナで外部からの訪問管理も厳しくなっており、せめて正月は家族で過ごしたいと、私も父も返答を後伸ばしにしてきた。

自宅には毎日5回から6回にわたる訪問看護師及びヘルパーさんの介入があり、彼の生活は総勢25人近いメンバーに支えられていた。

昨年11月なかば、フランスで仕事をしていた私のもとに、父の危篤の知らせが届いた。

数週間前から、食べ物や飲み物が飲み込めない状態が続いていたが、本人の意思で胃瘻などの延命処置はしないこととなった。

自宅での看取りが決まり、私は勤務先の劇場に事情を話し、すぐさま日本に帰国した。

帰国前日に、担当医師と話した時には、明日まで命が持つかわからないと告げられたが、そこから、彼の危篤状態は5日間続いた。

病院に入院せずに、在宅で看取ることの本当の意味を実感した5日間だった。

それは、「危篤者の権利」として、親族以外の人と面会していくことであった。

親族以外というと友人や同僚をまず思い浮かべるだろうが、

父にとって、ここ数年一番時間を共に過ごしたのは、紛れもなく、家族でも友人でもなく、

訪問介護チームの面々である。

病院に入院すると、基本的に訪問看護チームの仕事はなくなるので、もう会えなくなってしまうのが普通である。

しかし、本人の意思により、在宅で死期を迎えることを選択したため、毎日代わる代わる介護士さんたちが訪問してくれ、自宅は驚くほど賑やかであった。

危篤のあいだ、意識はほとんどなかったにもかかわらず、介護士の方々の端々に及ぶ気遣いには、心から感心させられた。

言葉で意思疎通することはできなくなっても、なんとか「心地よさ」を与えようと試行錯誤する姿は実にクリエイティブであった。

最期の日まで、父の枕元には、代わる代わる介護の方々が訪れた。

笑ったり泣いたり、喧嘩した思い出話を大声で話しながら、細やかな「ケア」を続けてくれた。

死が近い時、人間は「下顎呼吸」といって、あごで呼吸をするそうだ。

父の顎が動き始めた時、私は、最初に介護の方々の顔を思い浮かべた。

家族である私と同じくらい他人である介護の方に父が最後に会いたいと思っている可能性があると強く思った。

それは、血縁を超えた強くて太くて暖かい信頼であり、

「危篤者の権利」というものが存在するなら、それを血縁ぐらいの大義名分で奪ってはいけないと実感した。

結局、介護の方々は、コロナの状況も鑑みて、葬儀には出席することができなかったので、「死者の権利」を尊重できたかはわからない。

しかし、父が自分の意思で自宅に居続けたことで、結果として看取りに関わったすべての人々が「危篤者の権利」を尊重できたことには違いなかった。

息を引き取った直後も、訪問看護ステーションに連絡すると、日曜日にもかかわらず、20代の若い看護師さんが駆けつけてくれ、一緒に「エンゼルケア」を行なった。

エンゼルケアとは、人が死亡した後に行う死後処置ならびに死化粧までのケアのこと。

病院や介護施設で最期を迎える方も増えている昨今、エンゼルケアに遺族が立ち会える機会は少ないそう。

遺族は、エンゼルケアを経て、すでに整えられた状態で遺体と対面することも多いそうだが、望めば立ち会うことも可能。

私は、髪の毛を洗ったり、身体を拭いたり、クリームで保湿したり、排泄の処理など、すべて看護師さんの指示のもと、一緒に行なった。

エンゼルケアに参加できたことで、生死の境はよりあいまいになった。

志賀直哉『城の崎にて』を題材に、前年に撮影した映画を思い出しながら。

生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。

それほどに差はないような気がした。

ちなみに、このブログのトップページで使われている写真は、

子どもの頃からよく通っていた父の大学の研究室。

膨大な資料のコピーも、私がアルバイトで整理しました。

エネルギーを翻訳する。

時間が経ってしまいましたが、

昨年末にやった日仏通訳の仕事のまとめ。

フランス国立演劇センター ジュヌヴィリエ劇場とSPAC-静岡県舞台芸術センターで共催された『桜の園』、

フランス公演の通訳として参加させていただきました。

そもそも私は通訳ではないので、演劇(主に稽古場)の現場でのみ、「エネルギーを翻訳する」という使命を持って日仏通訳を引き受けている。

私が通訳として現場に入る時、通訳である私の存在は全く消えないので、普段本業の通訳の方々と仕事をされていると戸惑いが見られる。

通常、通訳の心得としてあげられる有名なものが以下の2点。

①「正確さ」を測る三つの指針:

  • 足さない (without addition)
  • 引かない (without omission)
  • 変えない (without distortion)

②通訳者は個人的な意見は言わない:「中立性(Neutrality)」と「公平性(Impartiality)」

今回は、一般参加者を含むワークショップやアフタートークなどの通訳と創作メンバーだけでの稽古場での通訳が主な仕事内容であった。

私は前者を「パブリックな通訳」、後者を「親密な通訳」と呼び分けていて、特に後者が得意だ。

(前者は単純にスキル不足で、フランス語から日本語はまだしも、日本語からフランス語は訓練が必要)

「親密な通訳」の特徴は、メンバーが随時固定であることにプラスし、付き合いが長くなるという特徴がある。

つまり、メンバーのなかで一定の「スキーマ」が既に共有されている状態である。

スキーマ(schema)というのは、自分の頭にある、構造化された知識・知識の枠組みのこと。

経験のある俳優や演出家、技術スタッフなら、創作現場でのスキーマは、創作チームが出来上がる前から各々が持っているのでは、と思われるかもしれないが、

稽古場というのは、実に千差万別である。

だからこそ、一定の時間を過ごした人々の間に生まれている「稽古場スキーム」を垣間見ることは非常に美しく、時として、魔法のようなことが起こる。

言語学習の読解教育では、スキーマを活性化させることで、読解が促進されるということが言われているのだが、

「稽古場スキーマ」の活性化は非常に優れているので、そこに関わるメンバーの読解能力は非常に高い。

これは、本来、演劇に関わる人たちが、「他者を読解する」ということを職業にしているということに起因すると思う。

共演者の意図を読解する。

登場人物の行動及び言葉を読解する。

スタッフの計らいを読解する。

演出家の指示を読解する。

このような読解能力が非常に高い現場において、通訳の心得①:「足さない、引かない、変えない」を実行してしまうと、稽古場に流れるエネルギーを停滞してしまうことになる。

俳優の立場から言わせてもらうと、稽古中に循環しているエネルギーの流れを止められることは、非常に気持ちが萎える。

また、停滞してしまったエネルギーを再稼働するにも、新たなエネルギーを消費することになるので、疲弊する。

通訳の立場で、稽古場のエネルギーの流れを止めてしまうことだけは避けたいのだ。

だから、「親密な通訳」に関しては、エネルギーごとまるまる翻訳できるように努めている。

そこで、重要になってくるのが、ビジネスシーンでも注目されている「メラビアンの法則」である。

メラビアンさんという人が行った実験によると、

コミュニケーションをとる際に最も重要なのは話の内容だと思いがちだが、

実際には言語情報はわずか7%しか優先されていないことがわかったそう。

人間は、顔の表情、顔色、視線、身振り、手振り、体の姿勢、相手との物理的な距離などを使って行われる「非言語的コミュニケーション」から得る情報も、かなり頼りにしているから。

通訳は本来、通訳者の心得②「中立性(Neutrality)」と「公平性(Impartiality)」を担保するため、

私たちが通常無意識に行ってしまう「非言語コミュニケーション」を排除する傾向にある。

しかし、稽古場というデリケートでフラジールな時間と空間において、部外者の介入は必ずしも心地いいものではない。

それだったら、稽古場通訳においては、「内部の人間」になってしまうのが適当であろうと個人的な意見である。

「非言語コミュニケーション」を排除しないということは、

自分も、個人として、それぞれの人とお付き合いさせていただく意思をそっとお伝えすること。

個人としてお付き合いさせていただくことで、ワークショップ前の事前準備を一緒にやらせていただいたり、

休憩時間にも、作品について一緒にディスカッションさせていただいたり、非常にありがたい時間だった。

そして、「エネルギーを翻訳する」ことに全力を注いで迎えた初日。

1週間前から少しづつ用意していた手作りのお菓子ボックスを俳優さんたちに渡した。

フランスでの初日(プルミエ)は、作品にとって本当に大切な日。

この日から、作品は演出家の手を離れて、俳優や技術スタッフとともに、観客に出会うべく「公共」のものとして巣立っていく。

日本では、すべてが無事におわった千秋楽の日にお祝いをする習慣があったので、

私も最初は慣れなかったけど、今は、「初日」という日を心から大切にしている。

まさに、作品のお誕生日。胎児が赤子となるように。

公演日を重ねるごとに、観客とともに、「公共」の場で育っていく。

それは、稽古の中で作品が育っていく過程とは全く違う。

だからこそ、それぞれが覚悟を持って「公共」への窓をしっかりと開け放ち、

作品が一人歩きしていくことを受け入れるためにも、しっかりと「初日」を祝うのだ。

そして、私の通訳も「親密な通訳」から「公共の通訳」へとゆっくりと移行していった。

そのためには、まだまだ修行が必要。

忍耐強く、そして、寛容に接してくださった『桜の園』チームの皆さま、

本当にありがとうございました。

創作における「謝罪」の効用

最近、「謝罪」についてよく考える。

「謝罪」には、ふたつの大きな役目がある。

ひとつ目に、自らの非を認めること。

ふたつ目に、相手に許しを請うこと。

年とともに、圧倒的に自分の意見を創作現場で発言しやすくなっている現実がある。

これは、経験値とともに、作品創作に関しての「提案」が持ちやすくなっているといういい面もあるのだが、

単純に、自分の立場を確立しやすくなって、発言のハードルが下がっているということに関しても認めなければならない。

今年は、城崎国際アートセンター、レジデンスアーティストとしてふたつの作品に関わっているが、

そのひとつに、フランス人との演出家フランソワ・グザビエ=ルイエとの共同制作がある。

http://kiac.jp/artist/604/

最終的には、私のソロパフォーマンスになる予定だが、今回の滞在では、リサーチと劇作を中心に行なった。

私が日本語で書いたテキストをフランス語に翻訳し、彼がフランス語で書いたテキストを日本語に翻訳しながら劇作を進めていったのだが、

フランス語と日本語、それぞれの言語が持つ文化的性格に翻弄され、「分かり合えない」状況が続くと、相手に対して言葉を紡ぐという行為よりも先に、感情の波に押し流されてしまい、ヒステリックな反応をしてしまったことは認めざるを得ない。

よくフランス語の師匠に、「リアクション(反射的反応)」から言葉を吐くのではなく、言葉というものは本来「リフレクション(内省)」と常にセットで使うものだ、と言われていた。

第二言語で会話をしている場合、どうしても母国語よりは、自分の感情を表現するための言語のパレットの色彩が乏しいので、感情が先立ってしまい、「リアクション」になりがちなのだとか。

この「リアクション」の中には、もちろん言葉が出なくなってしまい、沈黙してしまう反応も含まれる。

レジデンスの3日間はリサーチに集中していたので、フランス語で通訳をするというタスクも非常に多く、自分の能力の足りなさからくるもどかしさと疲れで、その頃から自分の中の雲行きが怪しくなり始めた。

そして、リハーサル中心の生活が始まると、ここ数年、演劇創作に関わる上で一番大切に考えてきた「稽古場におけるコミュニケーション」が崩壊していることにきづいた。

意を決して、「謝罪」を決行。

子どもの頃、「謝罪」という行為は、とてつもなく勇気のいる行為だったと思う。

いったんある関係性に「一石を投じる」というか、その「一石」を効果的なものにするために、言葉の「石」を選ぶというか、準備する長い時間が必要だった気がする。

でも、結局最後は「ごめんなさい」という一言を紡ぎ出す勇気が一番必要で、特に近しい関係の人に対して発射する「ごめんなさい」は、酩酊状態で針に糸を通すくらい難しいことである。

だから、大人になってからは、「ごめんなさい」という一言は封印したままに、翌日の態度でなんとなく場を収拾する技術を持った。

笑顔を浮かべて円滑さを取り戻し、何事もなかったことにしてしまう術をいつのまに覚えてしまったのだろう。

しかし、今回、あえて「謝罪」を決行したのは、以下の理由がある。

それは、創作現場で「間違えを認める」つまり、「意見を変える」、もっとわかりやすく言ってしまえば、

「一貫性をなくす」ということが非常に重要なこととだと考えるからだ。

創作の現場は決してひとりではないので、他者に影響され、自分の意見が変わってしまうということが、恥ずかしいことではなく、非常に「面白い」という感覚が掴めないとなかなか辛いものである。

「謝罪」という行為には、「一貫性をなくす」ことを面白がることができるという効用がある。

その一歩である、とも言える。

自らの非を認め、相手に許しを乞う、という行為のその先に希望がある。

他者の存在によって、その存在に影響され、昨日は絶対にそうだと思っていたことが、やっぱり違うかも、と思えること。

「一貫性をなくす」という姿勢を、自ら「素晴らしい」「面白い」と思えることってなかなか難しい。

「謝罪」によって、こんがらがっていると思い込んでいた糸が、すでにほどけていたと知ったり。

空気は読ませるものではなく、いちいち説明するものだ。

笑ったり、泣いたり、叫んだり、怒ったり、お昼はそうめんばっかりだったり、稽古終わりにアートセンターの前で何時間もビールを飲みながら語り合ったり、極々たまに奇跡的に意気が投合したり、そんなこんなで無事2週間のレジデンスが終了。

それにしても、フランソワ・グザビエの寛容さと忍耐力には、頭が下がる。

来年3月に2回目の滞在をし、作品を発表します。

お楽しみに!

演技力もコミュニケーション能力も、天性の才能ではない。

『ちょっとだけ “めんどくさい” 俳優になるためのワークショップ』と題し、早稲田大学どらま館で実施させていただいたワークショップは、自身にとっても非常に言語化能力を鍛えられる時間となった。

まず、「ちょっとだけ “めんどくさい” 俳優になる」という目標を抱えたワークショップに集まってきた大学生の男女比1対8であったことは、偶然なのか、はたまた社会現象なのか、これは、今後、慎重に考えていきたいと思う。

ここ数年力を入れているワークショップのかたちとして、

「創作の現場からハラスメントを排除するために、稽古場で必要なコミュニケーション能力を考える」

というテーマがある。

実際、昨年フランスで演劇教育者国家資格を取得したときの最終論文も、「創作を支える『コミュニケーション力』を育てる」というテーマで提出した。

そのとき、いろんな資料や本を読んで、頭の中で考えていたことを今年になって実践のなかで、再考する機会を与えてもらえてるのが非常にありがたい。

ワークショップを受け持つとき、感覚の言語化、他者へのフィードバック、そして、自分の意志を伝え方などのはなしになったとき、頻繁に参加者の方から「自分はしゃべることが苦手」という感想に出会う。

おそらく、参加者のみなさんに、講師もしくはファシリテーターである私は、立場上、「社交性があって明るい人」と見えているので、「あなたにはできるかもしれませんが、誰にでもできるわけではありませんよ」と思われてしまうことは想像にたやすい。

しかし、私が声を大にして言いたいのは、今、私が「ちょっとだけ “めんどくさい” 俳優」として強みにしている、創作の基盤を支えている「創作におけるコミュニケーション能力」は、完全に後天的に身につけたものである。

同じ言語であっても、いちから「外国語」を学ぶようなものとして、10年かけてこつこつ身につけてきた。

フランスの国立演劇学校で3年間、血の滲むようなスケジュールをこなしたが、演技力が身につきましたとは残念ながら言えない。

ただ、「創作におけるコミュニケーション能力」だけは、鍛えられた。

これは、単に「練習」のおかげで、私の「明るい」性格によるものでも、「おしゃべり好き」によるものでもない。

俳優は、自分とは異なるさまざまな人間や生物を演じることが仕事なのに、その人本人の「アイデンティティ」や「個性」「特性」といったものに言及されがちな職業でもある。

まず、この「特性」から自由になることが重要である。

子供のころから、〇〇ちゃんは「おとなしい」とか、〇〇くんは「我慢強い」とか、私は、「目立ちたがり」とか、性格というレッテルを一度貼られると剥がせないような環境で生きてきたように思う。

実際、私は、学級委員常連で「目立ちたがり」とか「でしゃばり」というレッテルがあったが、子どものときは、それに拍車をかけて、「演劇が好き」なんて口が裂けても言えないと思っていた。

渡仏したばかりの頃も、自分から意見をいうことは滅多になく、先生にさされるのを今か今かと待っていたが、その機会は一向に現れず、私はあやうく「やる気のない生徒」になりかかっていた。

正直、演技力に関しては、「センスの良さ」だとか、「華がある・ない」ということはあるかもしれない。

しかし、演劇は基本ひとりではできないので、「創作におけるコミュニケーション」次第で、俳優のパフォーマンスは如何様にも変わっていく。

つまり、演技力と「創作におけるコミュニケーション能力」は切っても切れない関係なのである。

自分の性格に関して「特性」という考え方をすてて、「スキル」と捉え、筋トレのように鍛えていくという感覚を、どのように参加者のみなさんと共有していくか試行錯誤をしている時に、素晴らしい本に出会った。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480815620/

二人の小さな子どもと移住した社会学者による、フィンランドから現地レポート的な本であるが、フィンランドの保育園の教育には、俳優教育の分野で真似したいところがたくさんであった。

クマの面談を受けたときは、「正直さ」「忍耐力」「勇気」「感謝」「謙虚さ」「共感」「自己規律」などなどを「才能」ではなく「スキル」と取ることについて、なんとなく狐につままれたような気分だった。でも、数日経つとなんとなく納得してきた。眼から鱗が落ちるような感じだった。

 私は、思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている。

朴沙羅『ヘルシンキ 生活の練習』

フィンランドの保育園では、「感受性が豊かだ」「好奇心が強い」「共感力がある」「根気が続く」といった、通常なら性格や才能などと結びつけられてしまいそうな事柄が「スキル」と呼ばれているらしい。

例えば、「根気がない」という「性質」は、単に「何かを続けるスキルに欠けている」ということになり、そのスキルを身につける必要があると感じるなら、ただ単に「練習する機会」を増やせばいいことになる。

俳優教育のワークショップでは、すでに正解を持っている人が指導者となり、生徒たちはその「正解」を学びにくるという姿勢で授業を受けてしまうということが多々あると思う。

自分の憧れの演出家のワークショップであったら、尚更である。

どうにか、ワークショップの場を「創作におけるコミュニケーション能力」の「練習の場」とできないか。

それぞれが自分に足りないことを、他のメンバーの力を借りて、気づいたり、身につけようと「練習する」場所。もちろん、練習には失敗がつきもの。

2,3日のワークショップを依頼されることが多いので、短時間で、参加者ひとりひとりが安心して「練習できる」場を作れるかが、毎回成功の鍵を握っている。

私も、毎日毎日、「練習しながら」生活していきたい。

#MeTooThéâtre2:俳優の身体はだれのもの?

「タイトル:女優の身体はだれのもの?」としたかったけど、

あえて、演劇教育に関わる者の立場から、「俳優」とします。

前回のブログで書いた、フランスで起こっている#MeTooThéâtre運動(https://mill-co-run.com/2021/10/26/metootheatre%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%97%e3%81%a6%e3%80%81%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8%e3%80%82/)に関して、被害者の証言のなかで一番多かったのが、演劇学校在学中に起こった(始まった)性的・性差別的暴力である。

以下、一部翻訳。https://www.franceinter.fr/societe/metootheatre-lever-de-rideau-sur-les-violences-sexistes-et-sexuelles-en-coulisses?fbclid=IwAR2BlfQB8JyGuO3-d9FlkB8HzHlVaojdXqtak0NfAmL6w-5qNH50rr78wHE

「外から見ると、社会問題に関心の高い、とてもオープンな職業のように見えますが、実際には女性にとって非常に厳しく、暴力的な環境です」18歳から25歳までの若い女子学生は、いい女優とは、服を脱ぐことも、セックスシーンを演じることも、卑劣で屈辱的な体位をとることも、すべてにイエスと言わなければならないと教えられています。

その一方で、彼女によると、同意の問題が取り上げられることはありませんでした。「リハーサルやトレーニングコースでは、非常に露骨なシーンを目にすることがあるのですが、その際、役者は事前に何をするか、何をしないかを聞かれていないのです」とアガタは付け加えます。若手女優にとっては、「演出家に選ばれたいなら、ケツに手を突っ込まれても、胸を張られても、全力を尽くす」というプレッシャーが大きいのです。

「女優の体は演出家のもの。」
これは私たちにつきまとう決まり文句です。女優の体は演出家のものであり、芸術の名のもとに暴発やトラウマを引き起こし、多くの女優が演技をやめてしまうとアガタは残念がった。

さすがに、私たちが通っていた演劇学校でこのようなことは起きていたり、教えられていたという事実はないが、

民間の演劇学校(今回の#MeTooThéâtre運動でも告発されている学校のひとつ)では、あるクラスで

「授業開始前に女生徒は全員ハイヒールに履き替えて、演技レッスンを受けなければならない」と聞いたことがある。

記事の中にある、この言葉について。

「女優の体は演出家のもの。」

答えはノー。

少なくとも、私の学校では、いい俳優は演出家の言いなりになる俳優ではない、という認識があり、

すべての生徒たちが、3年間の学校生活を通して、いい意味で「めんどくさい俳優」に育っていったと思うし、

私はそれを誇りに思っている。

学校や養成所で演劇を学ぶ生徒たちに伝えたいのが、大前提として、学校は、なんらかの結果または技術を身につける場所ではなく、そこにたどり着くための、安全かつ持続可能なプロセスを学ぶ場である、ということである。

先生から教えてもらうのは、うっとりするような発声でも、並外れた身体能力でも、すばらしい演技力でも、ましてや、演出家にいわれたら瞬時に服を脱げるようになることでも、歯を食いしばってセックスシーンを演じられるようになることではない。

どんなシーンであるかを俳優自らが的確に理解し、

そのシーンを実現するための演技を構築し、

心身ともに安全性を保った状態で、

演出の効果を存分に発揮できる「再現可能」なものにするためのプロセスを学ぶのである。

もし、このプロセスをすっ飛ばして、結果だけを求めてくるような講師がいれば、

それは教育と言えるものではないので、

疑ってみた方がいい。

演劇教育において、先生は答えを持っている人ではいけないと思う。

なぜなら、「私」と「先生」の身体は違うから。

生徒たちの身体の内部で起きること、外部で起こしたいこと、そのことに一番敏感であり、知識と体感をもっているのは自分自身である。

ただ、そこにたどり着くために、

俳優の心身の安全を第一に考え、その演技を持続可能なものにするためのプロセスを示唆し、伴走してくれる人。

演劇の講師は、それ以上でもそれ以下でもないと思う。

フランスでも日本でも演劇の講師は、

現役の演出家である場合が多い。

新米の俳優たちにとっては、学びの場であるとわかっていながらも、

仕事につながる可能性もある「オーディション」的な意気込みで挑んでしまいがち。

この態度が、生徒と講師のヒエラルキーを助長し、#MeTooThéâtreに発展する空気を作ってしまうこともある。

私も在学中に、講師として学校にやってきた、現役の演出家のもと、パゾリーニの戯曲で、人生はじめての全裸シーンに挑戦した。

その時は、演出家にまず作品を読み込んで準備ができたら言ってというようなことをいわれたので、

戯曲を読み解くと同時に、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』をすり切れるほど読んだ。

動物は生殖活動としての交尾しか行わないが、エロス的行為を行うのは人間だけである。

エロス的行為と交尾は、生物学的に共通点があるとしても、その意味や価値という点では本質的に異なるものとバタイユはこの本で言及している。

この本を通して、徹底的にエロス的行為を自分の身体を使って「再現」することの意味や価値をドキドキ、おどおどしながら考えた時間は、今思い出しても、必要不可欠であったと思う。

この本について演出家とも一緒に議論しながら、服を脱いで稽古していく段取りを決めた。

まず、ファーストステップとして、スタッフ、シーン以外の共演者を介入させず、

演出家と私とパートナー役の3人だけでリハーサルをし、シーンが固まってきたら、スタッフも含めての稽古に移行した。

すべて次のステップに移行するタイミングを決めたのは私だ。

今思い出すと笑ってしまうけど、

昼ごはんのあとのリハーサルで、「今日は食べ過ぎてしまってお腹がでていて恥ずかしいので、脱げません」と演出家に言いにいったこともあるが、笑われることなく「わかりました」と言われた。

俳優の身体はどこまでも俳優のものである。

作品のものでも、演出家のものでもない。

稽古で勇気なんかださなくていい。

稽古は本番じゃない。

「俳優魂」「女優魂」ということばが、最終的に生まれた大胆な演技に対するものではなく、

安全、持続可能でその素晴らしい演技にたどり着いたプロセスを称賛することばになることを願って。