再演を初演以上にエキサイティングする方法と卒業クライシス。

ランスでの初演を終えて、引っ越したばかりの自宅で二日ほど過ごし、もっとだらだらyoutube見ていたい欲求を押し殺し、リハーサルのためモンペリエへ。

なんと、11月は、5つの作品の「再演」に出演する。

これからも、一ヶ月のうちに、5作品に出演することは、到底ありえないだろうと予想する。

1作品目は10月に初演を迎えた作品で、11月は、フランス国内3カ所でツアーを回り、その他の4作品は6月にモンペリエで3週間の初演を終えた作品のパリツアーである。

1年以上前に、この怒涛のスケジュールが決まった時には、もはや雲の上の出来事という感じで、想像もつかなかったのだが、渦中に入ってしまえば、肉体も精神も意外にたくましくついてきてくれるものである。

再演のためのリハーサルは、基本、2日あればいい方で、新しい劇場で、ゲネプロなしに、本番を迎えることもざらにあるらしい。

今回はモンペリエで、それぞれの作品に2日づつ稽古日がもたれ、4ヶ月ぶりに作品を舞台の上に再度立ち上げていく。

身体に残る記憶と、脳内に残る記憶、そして、それらが、共演者たちの記憶とパズルが少しづつ組み合わさるように出来上がっていく感覚はくすぐったいような、何とも言えない感覚。

久しぶりに実家にきて、いろいろ変わってしまってはいるんだけど、すぐに、自分の居場所をみつけられるような「ただいま」が言いたくなってしまうようなたまらない感覚なのである。

もちろん、再演には、初演のときに味わったような緊張やストレス、プレッシャー、それがもたらす極上の興奮はないにしろ、もっと熟練した「大人の」楽しみ方があるように思う。俳優たちは、すでに出来上がっている地図を変えることなく、小さなアトラクション(もしくは、サプライズ)を仕掛けあう。

もう何回も繰り返しているからとあぐらをかいた瞬間に、作品が腐ってしまうことを防ぐために、毎日毎日新たな刺激を与え合うことが求められる。それは、リハーサルにしても同じ。

 

そんな、実家に戻ったときのようなホーム感を味わいながらも、同期の卒業クライシスを目の当たりにすることになる。

今年、卒業した私たちのプロモーションは11人。

失業保険制度(Intermittent du spectacle)の資格がもらえる、年間507時間以上の契約が取れたのは、いまのところわずか3人。

(Intermittent du spectacle:舞台芸術に関わる仕事は、定期的ではないので、約12ヶ月の間に、507時間以上の契約があれば、生活費が保証されるというもの)

 

つまり、凄まじい倍率を通って、国立の演劇学校に入学できたとしても、卒業してから、また俳優としての仕事を安定したものにするまでには、いばらの道が続くわけである。

フランスの地方における文化政策が進んでいるとは言っても、オーディションや稽古はなんだかんだパリで行われることが多いので、地方の国立学校の卒業生たちは、パリの国立コンセルヴァトワールの卒業生たちとは機会均等とは言えない。

そもそも、演劇の場合、映画と違って、自分が出演した作品を時間が経ったあともプロモーションとして見せることは難しいので、若いうちに、いかに、舞台に立っている機会を多くして、たくさんの人の目につけるかということが重要になってくる。

そこで、フランスの若い俳優たちも、キャスティング事務所や、自分が仕事をしたいと思っている演出家に直接自分が出演する舞台の招待を送り、自らをプロデュースしていくのである。

フランスが、芸術を受容する側にいる時は、フランスが芸術大国と言われることもすんなりと納得がいくのだが、アーティストとしては、そんなにたやすいことでないという実態は、まさに日本と同じだと思う。

しかし、そんな不安定な人生を選んだことを後悔させない輝ける大人たちが少なからずいる国でもある。

 

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©Patrick Laffont

 

公演詳細:

http://www.midiminuit.fr/songes-et-metamorphoses/ (舞台写真みれます!)

Tournée 2016 – 2017

Du 7 au 9 et du 13 au 16 octobre 2016 – Comédie de Reims – CDN
Le 18 novembre 2016 – Avant Seine – Théâtre de Colombes
Les 23 et 24 novembre 2016 – Espace Malraux-Scène Nationale de Chambéry et de la Savoie
Du 30 novembre au 4 décembre 2016 – Théâtre du Nord-CDN Lille Tourcoing Nord Pas-de-Calais
Les 13 et 14 décembre 2016 – Scène nationale de Saint-Nazaire
Les 11 – 12 – 13 janvier 2017 – Le Lieu Unique-Scène nationale de Nantes
Les 19 et 20 janvier 2017 – Le Parvis-Scène nationale de Tarbes
Les 25 et 26 janvier 2017 – Scène Nationale d’Albi
Les 2 – 3 – 4 février 2017 – CDN Orléans Loiret Centre
Du 9 au 12 février 2017 – CDN Besançon Franche-Comté
Les 23 et 24 février 2017 – Le Cratère-Scène Nationale d’Alès
Les et 9 mars 2017 – Théâtre de Caen
Les 14 et 15 mars 2017 – Le Quai – CDN Angers Pays de la Loire
Les 23 et 24 mars 2017 – Le TANDEM – scène nationale de Douai
Du 19 avril au 20 mai 2017 – L’Odéon-théâtre de l’Europe
juin 2017 – Le Printemps des Comédiens – Montpellier

 

quatre fois onze
projets mis en scène par Jean-Pierre Baro, Robert Cantarella, Alain Françon, Gildas Milin
8 NOVEMBRE AU 19 NOVEMBRE 2016
(EN ALTERNANCE)

Quatre metteurs en scène, onze acteurs. L’équation promet d’être belle, et le pari risqué. De jeunes comédiens, tous issus de l’École Nationale Supérieure d’Art Dramatique de Montpellier, ont trouvé auprès d’artistes des générations précédentes des ressources pour « aller de l’avant ». Réciproquement, ces derniers ont trouvé dans le travail avec la jeunesse de quoi renouveler leur art. Qu’il s’agisse de percer le secret des aspirations révolutionnaires dans La Mort de Danton (Jean-Pierre Baro), de penser un droit des consciences dans NNN (Gildas Milin), de retrouver la figure lumineuse du monde grâce à Botho Strauss (Alain Françon) ou de chercher comment vivre ensemble selon les voies ouvertes par Out-One, le film monstre de Jacques Rivette (Robert Cantarella), tous œuvrent pour que le passé et l’avenir soient les porteurs d’un nouveau monde.

Personne d’Autre (Fragments)
montage de textes de Botho Strauss – Alain Françon
mardi 8 à 19h30, samedi 12 à 16h, mardi 15 à 19h30
Monstres
de Stéphane Bouquet – Robert Cantarella
mercredi 9 à 19h30, samedi 12 à 19h, mercredi 16 à 19h30

La Mort de Danton
de Georg Büchner – Jean-Pierre Baro
jeudi 10 à 19h30, dimanche 13 à 16h, samedi 19 à 16h

NNN
de Gildas Milin – Gildas Milin
vendredi 11 à 20h30, jeudi 17 à 19h30, samedi 19 à 19h

 

 

 

 

 

 

 

卒業。

2016年6月25日、3週間、4作品の公演を終えて、無事、卒業しました。

卒業と言っても、4作品のパリツアーは11月に予定されているし、
いまいち、実感ないなあ、と全員のんきに過ごしてきましたが、
いざ、最終日となると、
一気にその実感に襲われて、ちょっとしたことで、鼻の奥がつんとしていました。
最終日、14時から100席ほぼ満席で始まった、
4作品連続上演。
動き出した時間はもう止まることなく、
あっという間に、22時半、4作目、最終演目が始まる。
深夜1時近く、作品が終わり、
照明が消えた瞬間に、
観客が歓声と共に立ち上がるという、奇跡のような光景を目の当たりにしました。
もちろん、私たち11人は、
今日一日堪え続けた涙が一気に堰を切ったように流れ出し、
客席の光景に呆然とする。
そうして、俗に言う「汗と涙」にまみれた、
ひどく暑苦しく、
そして、なんて愛おしい、
「卒業」を迎えた。
改めて、学校生活とはなんだったのかと聞かれれば、
「段階」と答えると思う。
できなかったことが、
努力して、
できるようになること。
この繰り返しで、
少しづつ少しづつ、
「自信」を精製していく。
ラッキーだけでできたことでは、
「自信」を生産することはできない。
「学校」をいう場所から、
一歩外に出れば、
社会は理不尽なことばかりで、
怠け者が得をすることだって、
働き者が損をすることだってある。
ただ、「学校」では、
ゆっくりと時間をかけ、
努力することは、
決して恥ずかしいことではない。
軽々と容易くできた何かより、
四苦八苦してようやくできな何かを通して得る自信の方が、
よっぽど長持ちする。
そして、そんな時間を、
一緒に競えあえる同士がいた場所。
28歳で、
まるで甲子園みたいな熱い青春を過ごせるとは思ってもいなかった。
そして、
同時に、
演劇を続けていく限り、
私は、甲子園みたいな青春を過ごし続けるのだろうと、
確信した年でもあった。
共演した大女優に言われた最後の言葉。
残っていくアーティストの条件とは、
医者よりも、弁護士よりも、政治家よりも、
どんな堅い職業よりも、
自分のやっていることをどこまで「真面目(sérieux)」にできるかということ。
例えば、俳優がほんの小さなきっかけを間違えたところで、
命取りにはならないし、
国は動かないかもしれない。
ただ、アーティストだからこそ、
自分がどこまでも「真面目」な態度で、
自分の創っているものに向き合っていかなければ、
作品は崩壊してしまう。
この世の中に演劇ほど壊れやすい芸術はないらしい。
卒業して、
3年前とどう変わったかと言われると困るけれど、
ひとつだけ言えるのは、
演劇を続けるうえで、
才能があるとかないとかの前に、
「真面目」に生きる心構えができたこと。
8月から、
初めての「仕事」としての俳優生活が始まる。
これからも、
たくさんの困難と、
たくさんの夢に、
出会え続けますように。
卒業生冊子の写真。
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脇役のときは、自分を立てて、主役のときは、周りを立てる。

来月頭からの本番が近づき、

未だかつてない過酷なプランニングをこなす毎日。

基本、スケジュール表には、10時から24時と明記してあり、

スタッフが舞台作業があるときだけ、午前中の稽古がなくなったりする。

 

4作品同時上演のため、終盤の稽古では、

4人の演出家、4つの作品と交互に関わっていく。

通しを中心にリハーサルを演出家、

テクニックとの合わせに力を入れる演出家、

最後の最後まで、演技の詳細にこだわる演出家、

あえて、即興的部分を残して完成させない演出家。

作品の前に、創作過程が全く異なる。

 

そんな環境で、改めて実感するのは、「いい」演劇、「いい」俳優が存在しないかということ。

演出家、もしくは、作品のタイプによって、

求められることは全く違う。

いかに、柔軟に対応し、ある作品での価値観は、決して他の作品に適応しないということ。

それでは、多様性溢れる演劇マーケットで、

「いい」演劇、「いい」俳優の代わりに何を求めるのか。

「柔軟でありながらぶれない」演劇であり、

「柔軟でありながらぶれない」俳優であると思う。

現在に対して柔軟でありながら、芯を通っている演劇であり、

演出家の世界観に柔軟でありながら、その信頼を観客(世間)を前にしても貫くことのできる俳優。

 

さらに、「柔軟でありながらぶれない」俳優というものを突き詰めていくと、

作品においての自分のポジションを捉えらた上で、

「気の持ち方」のようなものを調整できているかということにもつながると思う。

おそらく、社員として仕事をするのと、社長として仕事をするのとでは、求められていることも、本人の意識も全く違うという感覚と同じだと思う。

 

例えば、4作品、11人の俳優で創作していれば、

作品によって、メインの役だったら、脇役だったりということがもちろん出てくる。

私の個人的感覚では、

脇役のときこそ、自分を立てて、主役のときこそ、周りを立てるということである。

 

言葉のこともあり、

この3年間、脇役に配役されることが多かったけど、

毎回全力で暴走してきた。

今回、初めて、ひとつの作品でメインの役を任され、

今までと同じ気の持ち方では、決してうまくいかないと思った。

いかに、周りを際立てさせることができるか。

 

演劇がこうも多様になった現在、

俳優として、自分が、新劇とか、アングラとか、パフォーマンス系とか、ナチュラリズムとか、

どんな演劇スタイルに向いているのかを考えてしまいがちだけど、

職業俳優、もしくは、俳優育成の環境で求められているのは、

そこではない気がする。

どんな作品にせよ、自分の役(作品におけるポジション)に合わせて、

的確なスタンスで、

共演者、演出家と、議論しながら、

簡単に言ってしまえば、「大人な態度」で創作に関われる俳優。

言葉でいうのは簡単だけど、

現場で実践するのは難しい。

 

とにかく、明るい気持ちで毎日現場に迎えるように、

しっかりカフェのテラスで太陽を浴びてから稽古に行くのが日課。

 

待ち時間についつい居眠り。

しっかり証拠を撮られていた。

 

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大女優に学ぶ演劇論シリーズ第二弾「腹八分目、稽古八分目。」

幼い頃、よく祖母から「腹八分目」と言われていて、

その習慣は守り続けていたものの、

いつの頃から、食後のデザートが欠かせなくなったので、

結局腹いっぱいになって、ごちそうさまをする今日この頃。

 

それにしても、腹八分目とは、

なんて控えめで美しい言葉だろう。

20%を残すという美学がなんとも日本的で賢明な態度である。

 

前回に引き続き、

大女優に学ぶ演劇論シリーズ第二弾は、

まさに、この「腹八分目」がキーワードである。

彼女の稽古を見ているとわかるのが、

どんなに骨格を正確に構築していっても、

肉付けは行わないということである。

つまり、稽古の段階で、骨格のみの「八分目」をキープし、

繰り返すたびに、残りの20%を肉付けする。

ただし、この肉付け部分に関しては、使い捨てなのである。

繰り返されるたびに、解体される肉部分。

肉はとっておくと腐るから、毎回捨てて新しいものをまた骨格につけていく。

 

これは、簡単なようで、予想以上のエネルギーを必要とする過程である。

肉は、外部の空気に触れる最も重要で、繊細な部分であるから、

この肉を新鮮に保つために、その都度並々ならぬクリエイティビティが求められるのだ。

 

そんな大女優は、相変わらず、舞台の外ではあっけらかんとしていて、

演出家に褒められても、

あなたにはわからないかもしれないけど、すごい難しいのよ!と念を押す、茶目っ気ぶり。

私のアクセントに対しても、非常に寛容で、

自分にはできないことだから、羨ましい!と褒められる。

 

そんな彼女から、先日頂いた極上の一言。

「常に、上を目指しなさい。」

演劇の稽古というと、どうしても、同じことを繰り返すというイメージがあるのだが、

実は、その真逆。

例えるなら、スポーツ選手の精神で、

フィールドに立つたびに、1秒でもはやく、1センチでも高く上を目指すのだ。

個人的には、ずっと自分の演技に安定感がないことが、

一番の弱点と認識していて、

その克服を目指して、日頃意識していたのだが、

目指すべきところは、その逆だったと思い知らされる。

いい演技ができた時、

その演技をもう一回やろうとするのではなく、

ベストを更新した自分に残される課題は、

その自己ベストの更新という、実にシンプルなもので、

自己ベストをキープすることではない。

 

20%の肉付けで自己ベストを更新し続けるためには、

稽古の段階で、

いかに八分目までの骨格を、

頑丈につくれるかがポイント。

ここには、思い切りなどではなく、

建築家のような緻密さが求められる。

 

「常に、上を目指しなさい。」

この言葉を胸に、

もはや安定感ではなく、

アスリートの精神を求めて、

強気なわたし。

 

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「演劇人に悪い人0人」説

水曜日のダウンタウンの見過ぎで、

私も何か説を立証したくなったということで、

今回、私が持ってきた説はこちら。

「演劇人に悪い人0人」説!

 

現在創作中の作品では、

今年も、「フランスのトニー賞」と呼ばれ、映画の「セザール賞」、音楽の「ヴィクトワール・ドゥ・ラ・ムジーク賞」に並んで、フランス演劇界において重要な賞「モリエール賞」にノミネートされた女優、Dominique Valadié(ドミニク・ヴァラディエ)氏がスペシャルゲストとして出演している

元コメディー・フランセーズの女優でもある彼女は、モリエール賞ノミネート回数5回ともはや演劇界、神の領域。

パリ国立コンセルバトワールを卒業後、

アントワーヌ・ヴィテーズ氏と主に仕事をしていた彼女は、いま振り返れば常にハイレベルでフランス演劇界において、重要な作品に関わっており、クロード・レジ氏の作品に出演したことも。

近年は、現在私たちの演出家である、アラン・フランソンのほぼ全作品に出演している。

 

そんなドミニクの到来に、稽古場は、一種の戦慄にも似た期待で凍りついたが、

彼女の大女優「らしからぬ」態度に、一同の緊張は一気に解ける。

公演のため、私たちより、2週間遅れて稽古に参加したため、

わからないところは、私たちになんでも質問し、

一番感銘を受けたのが、臆せずして失敗し続けること。

つまり、最初から、当たり障りないかたちで、「うまい」演技をするのではなく、

若者たちにいいところを見せるわけでもなく、

とにかく自分のために失敗しまくる。

 

台詞が覚えられない、と言って、舞台袖で何度も台本を確認し、

稽古で台詞を間違って、本人も思わず笑ってしまっている。

そんなチャーミングな大物女優のアマチュアリズム全開な演技と、

プロフェッショナルな舞台裏での素顔に、

一同、目を奪われっぱなし。

 

改めて、演劇とは、なんてごまかしのきかない芸術なのかと痛感する。

どんなに、経験があっても、舞台の上に立ったらみんな一緒。

何があるかわからない。

稽古の過程においても、台詞を覚えるという実に地味な作業から始まって、

繰り返し繰り返しを重ねながら、ほんの数ミリずつ作品を創り上げていくのは、

どんなレベルの俳優にとっても同じこと。

翌日になれば、うまくいっていたと思われたシーンが完全に崩壊されていることもあるし、

本番があけたとたんに、稽古とは全く変わってしまうことだってある。

小道具や衣装、舞台美術のトラブルだってある。

これらのことすべて、すべての俳優に起こりうることなのだ。

 

そもそも、こんなにもキャリアを安定して積めない職業はまれだと思うし、

演劇に欠かすことのできない地味な過程を長年真摯に続けられることができる人に、

悪い人はいないと思う次第である。

はっきり言って、大物が威張ったところで、いい作品はできない。

演劇の本番とは、恐ろしいもので、

舞台作品における透明性の高さだけは、決して油断してはならないと思う。

共演者間の人間関係、

演出家との関係、

現場の空気、

少し角度を変えれば、観客はフィクションの中のノンフィクションまで、すっかり見通すことができる。

 

それにしても、

人間の「エゴ」とはなんて邪魔なものだろう。

稽古中であっても、人が見ているとついつい最短の道のりで「いい」演技をしたくなるもの。

ドミニクは、あえてあえて遠回りして、正解に行き着かないようにしている気がする。

例えるなら、球形のスポンジといった感じで、

静かにころがりながら、空間に起きた出来事をなんでも吸い込んでしまう。

 

私の抱く大女優のイメージを完全に覆してくれた彼女に心からの感謝と敬意を。

 

稽古中にとってもらったポラロイド。

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