濃厚接触者からの恐怖の「赤紙」がきたら即隔離。

フランスで17日から主要都市で21時以降の外出制限が始まる前に、

いくつものピンチを潜り抜け10月の『千夜一夜物語』ツアー公演を終了しました。

去年、「黄色のベスト運動」の時にも、「幕があく」ということの奇跡を思い知らされながら公演していたけれど、今回はさらに奇跡レベルが増していたと思う。

5日に7ヶ月ぶりにスタッフ共演者に再会。

愛しい仲間たちとの再会にハグしたい気持ちをどうにかこうにか抑えて、稽古開始。

最初はマスクをしながら進めていたが、すぐにみんな苦しくなってマスクを外す。

翌日6日、今シーズンの初日前日、ゲネプロの始まる直前に、共演者の男の子がメッセージを受信。なんと、1週間前にパーティーで接触を持った女の子からコロナ「陽性」になったとの連絡。

コロナ陽性者は、医者からもらった診断書を濃厚接触者に転送しなければいけない。facebookのメッセンジャーを通してPDFで送られてきたこの診断書、まさに「赤紙」。

この「赤紙」をもらった人は、PCR検査をうけて陰性の結果がでるまで、ただちに自己隔離するように書いてある。

愕然とする彼。まっさきに、わたしに相談され、「演出家には言わないで」と言われる。私も、咄嗟のことで、「そうだね、隠そう!」と言ってしまったのだが、よくよく考えれば、彼と一番共演シーンの多い私も感染している可能性大。

私と同じく、彼と共演シーンの多い女優3人で緊急楽屋会議。

演出家に言うように、そっと促そうということになり、電話で説得。

すぐに、演出家と制作が迅速に対応し、初日の朝にPCR検査を予約。

早くとも、本番3時間前にしか結果が出ないとのこと。

その日は、彼は客席から台詞だけでゲネプロに参加し、解散。

翌日公演キャンセルになる可能性80%で、どれだけピリピリした雰囲気になるのかと思いきや、もうしょうがないから飲もう!ということになり全員でバーに移動。

深夜零時をまわり、ついでに私の誕生日まで祝ってくれる陽気なフランス人たち。

翌日、演出家もストレスの真っ只中にいるのかと思いきや、誕生日ランチを招待してくれる。

濃厚接触をした彼を糾弾するようなコメントも一切なし。

日本で、コロナ陽性になりテレビ越しに謝罪する著名人たちをみていた私は、とても気が楽になった。もし、「赤紙」がきたのが私だったとしても、運が悪かったということなのだ、と肩の荷が降りた。

本番2時間半前、演出家から「ハレルヤ」というショートメッセージが届き、彼が陰性だったことが判明。そこから、ぎりぎりまで稽古をし、本番。

彼とは一回もちゃんと稽古できないまま、7ヶ月ぶりの本番で緊張はマックス。

恐怖は興奮でしか乗り越えられない。

心を決めて、舞台に上がる。マスクをした観客で埋め尽くされている客席をみた時、思わず涙が出た。

この国には「演劇」が必要とされている。

私たちは、どんな状況でも、演劇を絶えさせない使命がある。

翌週のパリ郊外での公演は、初日がマクロン大統領の重大発表会見日時と重なっていたため、街がざわついていた。

観客も、会見内容を気にしながら、舞台を観ていたことだと思う。

休憩時間に、「21時から朝6時までの外出禁止」が発表され、私たちにも動揺がはしる。しかし、後半は、この現実に立ち向かうかのような一体感が劇場いっぱいに満たされていた。

どんな作品においても、見せる側/見る側の垣根を超えるのは「今」の存在。

「今」社会で起きていることを、見せる側/見る側、双方とも一緒に抱えている。だから、どんなに難しい状況下にあっても観客の存在は心強い。

劇場からの帰りのタクシーで、運転手さんが言った言葉。

「かつて舞台は非日常の場だったのに、今では、舞台が唯一日常の場だから、俳優が羨ましい」

その運転手さんは、20年間芸能人や政治家のプライベート運転手だったそうだが、コロナで仕事が激減し、今年中に廃業を考えているそう。そんな状況でも、月に一回は奥さんと劇場に行くのが楽しみだと話していた。

マスクをはずして、抱き合ったり、大声で喋ったり、どなりあったり、キスしたり、そんな当たり前の行為が、今はフィクションではなく、かつての「リアル」を想起させるのかもしれない。

そもそも9月半ばに演出家がコロナ陽性だったり、いくつものピンチを乗り越え、無事10月分のツアーが終了。来月は、ブルターニュ。どうか上演できますように!!

一時はどうなるかと思いましたが、今年も無事に舞台で誕生日を迎えられました。初日があいて、翌日も公演あるのに、シャンパンでお祝いしちゃう懲りない私たち。

堂々と生きる練習。

オンライン版 市原佐都子『妖精の問題』、無事終了しました。

打ち上げ

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この作品は、2017年に、私のほぼ一人芝居として初演された作品で、

文字通り、血の滲むような思いで創作した。

俳優の私からみた、『妖精の問題』の記録。

東京初演:「いい俳優」なんて存在しない説

横浜再演:「効率の良さ」への楽しい抗い方

京都再演:「インストゥルメンタル」俳優の憂鬱、「コンサマトリー」俳優の爽快。

 

横浜再演の時に、もう何十回とみているのに、初めて見るかのように、

2部の「ゴキブリの歌」を、

音響デスクで、ノリノリで聞いている市原さんの顔をいつも思い出す。

 

市原さんと『妖精の問題』をzoomで再演しようという話が出た時から、

はっきり言って、

「このコロナの時期に、演劇人として、なにか社会のためにできることがあるか」

なんて、考えたことは一度もない。

私は、ただただ、このコロナ騒ぎが終わった後にも、

市原さんに作品を創り続けてほしいと思っていて、

そのためだったらなんでもやりたいと思っていた。

 

ぼんやりと、社会について何かを考えたり、願ったりということはあるけれど、

具体的に行動を起こせるほど、何かを考えたり、願ったりというのは、

本当に個人的な小さな小さな気持ちだったりする。

 

実際、毎週オンライン上でリハーサルを重ねるごとに、

仲間が増えて、一人芝居を6人で上演することとなった。

 

個人的には、

演劇が「超」価値を持っている国、フランスから、

今、日本に戻ってきていて、

日々、フランスでは必要のなかった「演劇人として堂々と生きる練習」をしている。

 

今、日本の自宅は、会社が閉鎖されても、リモートワークできちんと稼いでいる夫と、

劇場が閉鎖されて、失業保険をもらいながら、趣味と演劇に興じる妻(私)が、

同居している。

フランスから戻ってきた当初は、

オンライン稽古やオンラインヨガ、英会話などをする際、

相方の仕事の邪魔にならないように、と心がけていただが、

働き方は人それぞれ。

今、やっていることが、直接的に収入につながらない仕事だってある。

ということで、今は、日々「堂々と生きる練習」をしていて、

自宅から出演したこのZOOM演劇も、思い切り演じることができ、

小さな前進を感じている。

 

市原さんの『妖精の問題』のテキストより、

私は見えないものです
見えないことにされるということは
見えないことと同じなのです

 

私たち演劇人は、今、「見えないことにされて」いるかもしれない。

「見えないことにされて」いるときこそ、

堂々と生きる。

そして、自分にとって必要なものは、

全力で守る。

俳優と観客のための『共振力』のすすめ

遅ればせながら、2020年もよろしくお願い致します。

『千夜一夜物語』フランス地方ツアー、2020年度2都市目は、ブザンソン。

スイス国境近くに位置するこの街は、かのヴィクトル・ユーゴーを輩出した街でもある。

 

さて、ブザンソンは、演出家ギヨーム・ヴァンサンにとって、特別に思い入れのある街で、

彼が無名の時代から今まで、全作品に出資していた劇場だそう。

フランスの場合、カンパニーだけで作品製作を受け持つことは珍しく、

特に公共劇場の場合は、地方の劇場も、作品が出来る前から、co-productionというかたちで、共同出資する。

2年目の地方ツアー先は、出来上がった作品を観て、気に入れば作品が買うわけだが、

1年目の地方ツアー先は、作品が出来る前から、お金を出してくれた、いわばビジネスパートナー的な劇場なので、これからの関係性のためにも、作品で恩返しすることが重要だと、私は考えている。

つまり、ブザンソンの街の公共劇場は、

ギヨームのビジネスパートナーとして、

彼が若い時から、彼のカンパニーと共にリスクをとって、彼の創作を支え続けた歴史がある。

パリの劇場の場合、ある劇場に訪れる観客は、作品によっても変わるが、

地方に行けば行くほど、観客は固定化する。

つまり、劇場のカラーは、「観客」がつくるというっても過言ではない。

 

そんなブザンソンの観客は、天下一品。

ここ3年くらいで、フランスの40都市近くの街で、公演を経験してきた私だが、

いまだかつてブザンソンほど、質の高い観客を抱える劇場には、出会ったことがない。

最初に訪れたのは、2年前。今回で、2回目である。

ブザンソンの観客の何がすごいかというと、

それは、『共振力』の高さである。

この言葉は、数年前に、落語についての作品をフランス人とつくっていて、

落語と仏教の関係について調べていた時に、学んだ言葉である。

 

説教と語り芸能の深い関係における、落語の「共振力」について書かれた素晴らしい本がこちら。演劇にも共通することもたくさん書かれている。

『落語に花咲く仏教 -宗教と芸能は共振する』朝日選書-釈徹宗

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この本によると、

落語はとても動きが制限されているがゆえに、多くの共振現象を起こすともいえる。それが落語の特性なのだ。落語は聞き手のイマジネーションに頼った話芸である。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.146

 

これは、多様な表現形態からなら現代演劇に直接当てはめて、「多くの共振現象」を起こそうと考えるのは、少々酷である。

 

では、以下はどうだろう。

語り手と聞き手のイマジネーションが共有されると、その場は高度なものになる。もっと高度な場になれば、その場にいる大勢のイメージがかみ合い出し、まるで宗教のような場がクリエイトされ、非日常へとジャンプさせてくれる。

(中略)

つまり、説教も落語も、語り手と聞き手の双方が「自らその場にチューニングしていく」ことで成り立つのである。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.147

 

ここで、書かれている「語り手」と「聞き手」の関係を、

「俳優」と「観客」に置き換えると、双方に、「自らその場にチューニングしていく」能力が求められることになる。

落語において、観客に求められるスキルとレスポンサビリティは非常に大きいということがわかる。

 

そして最も重要なことは、その場にシンクロすることができれば、心身が心地よい喜びに満たされるということである。我々はシンクロした場が心地よいと感じる心身をもっている。これは、遥か古代から連綿と続いてきた人類の本性である。

シンクロした場を繰り返し経験することで、チューニング能力も身についてくる。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.147

 

ここで書かれている「チューニング能力」を「共振力」と捉えると、

ブザンソンの観客の「共振力」は非常に高いといえる。

まず、舞台芸術空間において、「観客」という自分たちの立場が必須要素であるという自覚が極めて高い。

舞台に出た瞬間から、尋常ではない観客の集中力にさらされる。

そこから、徐々に、この空間において俳優と観客が「シンクロ」していくための、

「チューニング」が始まり、一気に「共振」へと向かう。

 

公演後の劇場ロビー及びバーの賑わい方も半端ではない。

3時間に及ぶ公演にもかかわらず、「シンクロ」を経た成果、俳優も観客もエネルギーに満ち溢れていて、そこかしこから笑い声が絶えない。

 

『共振力』は、決して、俳優だけが身に付けたい能力ではない。

俳優たちだけの力によって、何かとてつもないものを、この場に産み落とそうと闇雲になるのではなく、

ちょっと肩の力を抜いて、私たちの身体に備わっている『共振力』に頼ってみる。

俳優が与える側に、観客が受け取る側に徹するのではなく、

その間に生まれる、全く新しいものを恐れない力。

言葉にするのは、本当に難しいけれど、

公演が終わって、いつもとは違う拍手に包まれていた時、

もう何度も公演しているのに、ちょっと泣きそうになって、急いで楽屋に戻った。

あとで、40歳を越したベテラン俳優たちと話していたら、彼らもそうだったようで、

「なんか感動しちゃった」と、

すこし赤くなった目で、照れ笑いしていた。

 

 

 

生理中の舞台出演(裸)での愉快な裏話

私たちが小学生の頃、

修学旅行の前の週に、

女子だけ別の教室に集められて、

生理用品の使い方の説明を受けた。

生理という現象に対する理解より前に、

すべての女子が真っ先に理解したこと:

「生理」は、恥ずかしいことで、男子に隠すべきことである。

口にすることも憚れるような「生理」という言葉に、

伝染病のようなイメージが付きまとい、

初経を迎えてすぐのころは、

自分の血がついたパンツが気持ち悪すぎて、手洗いできず捨てたこともある。

 

さて、それから20年後。

「生理」は病気でも、恥ずかしいことでもない、

ただ月に一回女性に訪れるちょっと面倒くさい期間である、

(その数日前からちょっと機嫌が悪くなるので要注意)

という認識をしっかりと共有しているフランスの男性、女性たちに囲まれて、

生理中の舞台出演(裸)での愉快な裏話がたくさんあった。

 

まずは、タンポンの挿入。

普段、使用していない私は、

タンポン装着に非常に苦労する。本番前のストレスが重なればなおさら。

全員ウェディングドレスで始まるオープニング前、

かさばるウェデングドレスをたくし上げて、

タンポンが入らず、トイレで半泣きしていたら、

私よりさらにかさばるウェデングドレスを着た共演者の女優が走ってきて、

「力むと膣が閉まっちゃうから、呼吸してー。吸ってー。吐いてー。」と、トイレの扉越しに指示。

「入ったーーーーー!」と叫ぶと、彼女に強く抱きしめられる。

涙で崩れてしまった化粧を直しながら、

ダッシュで舞台袖に戻ると、

女性の衣装さんと男性の技術スタッフが、

ハサミと黒の油性ペンを持って待ってくれている。

タンポンの白いひもが、股から垂れ下がっているので、

それを黒く塗ってから、ちょっと短く切れということらしい。

真剣な顔の二人に思わず、笑ってしまう。

時間はないので、自分の毛の色に合わせて色を塗る。

これで、ようやく集中して、舞台で思いっきり演技ができた。

 

翌日は、慣れたもので、前日の過程をひとりで淡々とこなし、

共演者への男の子に、

「生理だからちょっと臭うかも」と伝えるという配慮も忘れず、

(「全然気にしないで、俺の汗のが臭いから」とさわやかに返される)

もうこれで完璧と確信して、舞台に出る。

1部後半、下半身に変な感じがすると思いながら、

1部と2部の休憩時間に舞台袖にはけると、

ドレスの下が血まみれになっている。

ホラー映画のようなグロテスクな惨状に、小さな悲鳴をあげる。

オートクチュールの衣装までも血だらけ。

男性の衣装さんが走ってきて、

「人の血ですか?血糊ですか?」と真顔で質問される。

「人の血です!」

「了解しました」と、私の衣装を持って去っていく。

どうやら、血糊と人の血とで使用する洗剤が違うらしい。

 

私は、このような話を、よく観に来てくれたお客さん(女性でも男性でも)と笑って話すのだが、

日本語だとやはり躊躇してしまうところはある。

日本語で話す「生理」の話に、「下品」「汚い」というイメージが付きまとっているからである。

 

そんなイメージをぶっ飛ばしてくれた、

最強の本がこちら、スウェーデン初の女性器と生理に関する漫画:

『禁断の果実 女性の身体と性のタブー』

 

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とにかく、絵が最高に可愛い!

フランスやドイツでも大ブームになった本。

タブーとされている言葉を、

あえてどんどん使っていくことで、

読者のタブー意識もどんどん溶かしていく、スマートなギャグ・コミック。

 

フェミニズムの問題に関して、

男性の意識を変えるのは、

いつだって女性。

生きづらさを感じていないのに、

自分を変えようと思う人なんていない。

でも、私が、その生きづらさもひっくるめて堂々としてれば、

自分の半径1メートルから変わっていく。

だから、私にとっては、

男性が生理に関するネタで笑っても、それはセクハラではなく、歩み寄りです。

 

 

 

 

 

「感覚」が鈍い俳優に未来はあるか。

パリで12月5日起きた大規模デモの影響を受け、

交通機関がほぼ麻痺しながらも、

観客は減ることなく、

『千夜一夜物語』、無事、5週間のオデオン座公演を終えることができました。

 

歌舞伎俳優やミュージカル俳優でもない限り、

1ヶ月連続公演は、

なかなか経験できない体験。

私も、人生2回目の経験。

初めての時は、セリフも少なかったのに、毎朝、声が出なかったらどうしようという恐怖とともに目覚め、

語学レベルがそんなに高くなかったにもかかわらず、

シェイクスピアのテキストだったので、

いつ何時もセリフがすっぽ抜ける恐怖と戦っていて、

正直、俳優としてクリエイティブな仕事ができていたか聞かれると自信を持って答えることは難しい。

 

よく、芸術に携わるものには、言葉にならない「感覚」という能力を期待される。

俳優も然り。

残念ながら、私は、この「感覚」というものが非常に疎い。

例えば、「感覚」が優れている人は、耳がいい。

視覚よりも、聴覚で空間を捉えることに長けている。

例えば、音楽に携わっている人は、外国語習得が早いという傾向は、想像に容易いであろう。

私の場合、「感覚」及び「聴覚」が鈍いので、

すべて、口の中の形(舌や唇の位置)を、ひとつひとつ理解して、自分なりの「言葉」で解釈してから練習しないと、フランス人の発音に近づくことは不可能であった。

 

私がパフォーマンス向上のために目をつけたテーマが「言語化」である。

「感覚」が鋭い人にとっては、邪魔になるだけだと思うが、

「感覚」が鈍い人だからこそ、「言語」の力をかりて、

俳優のパフォーマンスをあげることができるのではないかと考えている。

 

数年前から、人工知能AIの研究などで、「身体知」という言葉を、よく耳にするようになった。

もともと、「身体知」という言葉は、スポーツ選手のパフォーマンス向上のために、よく注目さていた技術である。

この「身体知」を利用し、俳優の終演後の「なんか今日は良かった」「なんか今日はダメだった」を分析していくことで、翌日の自分に対して、より具体的な指示かつ有機的な指示を出していけるようになるのではないか。

元ラグビー選手から、「スポーツ教育学」の研究者となった、平尾剛氏の『脱・筋トレ思考』

の中の「身体知」への言及が非常にわかりやすい。

身体知には、以下の3種類がある。

1 始原身体知(生まれつき備わってるもの)

2 形態化身体知(コツとカンで特定の動きや技術を身につける):ゼロを1にする。

3 洗練化身体知(すでに身につけた動きや技術をより精妙にしていく):1を2や3にする。

 

ここでいう「動きや技術」を「パフォーマンス」という言葉に差し替えると、

2が稽古期間、3が本番中(もしくはツアー中)と当てはめることができる。

さらに、2 形態化身体知の過程で重要になってくるのが「コツ」と「カン」で、

発生論的運動学では、この「コツ」と「カン」を以下のように説明している。

 コツとカンはおおよそ同じものであると私たちは認識しているが、この両者はその性質において明確に異なる。発生論的運動学では、「骨」を語源とするコツを「自我中心化身体知」といい、論理的思考と対照を成すカンは「情況投射化身体知」という。

平尾剛『脱・筋トレ思考』

 

つまり、「コツ」は自分の内側から、「カン」は自分の外側で知覚されている。

 

ここまで、「身体知」を理解したところで、

この「身体知」をより具体的に獲得するために、

「舞台経験を積む」にプラスして、

「日々の経験を言語化」してみる。

 

ここでいう「言語」というのは、まさに「自分に響く言葉」である。

例えば、演出家の指示や共演者との話し合いで、

「そのシーンは、もう少しテンポをあげて」という無機質な指示が出たとする。

ここで、テンポをあげるのは簡単なのだが、

より具体的になぜテンポをあげるのかを身体にわからせないと演技としては成立しない。

そこで、この無機質な指示を自分にとって「有機的な指示」に翻訳してみる。

この時は、最終的に「自分をめちゃめちゃ美人だと思い込む」という言葉と出会った時に非常に適切なテンポにたどり着けた。

 

ここで参考にしたのが、諏訪正樹氏の「からだメタ認知」という研究である。

彼が提唱しているのは、「ことばの力をかりて体感への留意を保つ」ということである。

この方法と出会わなかったら、

5週間クリエイティブなモチベーションを保ち続けることは不可能だったと思う。

 

方法は簡単。

毎日、前日のパフォーマンスを振り返り、パフォーマンスをしている際の「感覚」を、ただひたすらに言語化していく。

この時に「コツ的側面(自分の内側)」と「カン的側面(自分の外側)」、両方の感覚に注目することもポイント。

そして、それを踏まえた上で、その日の夜に行われるパフォーマンスに向けて、

自分への「指示」や「キーワード」、「気をつけること」を記述していく。

場合によっては、共演者もしくは演出家との話し合いを必要とすることもある。

 

これは、まさに新しい言語を学ぶ感覚と同じで、

はじめはどのように「感覚」を言葉に置き換えていいのかわからないのだが、

続けていると、日々、確実に言語記述量が増えていく。

言語記述量の増加に伴って、言葉の種類やニュアンスの差がより細かくなっていく。

演劇の場合、スポーツのように「体感」だけでは成立しないので、

トラマツルギー的にシーンの「解釈」においても、思考の「筋肉」が少しづつついてきて、演技の細かい選択肢が広がる。

 

諏訪正樹氏の著『身体が生み出すクリエイティブ』によると、

 

ことばの力を借りるとは、身体だけではどうしようもない別の機能を合わせて発揮させることである。ことばは連想という技を有している。ことば同士の連想関係や、知識に基づく論理的関係をたぐって、あることばから別のことばに飛躍することができる。

諏訪正樹『身体が生み出すクリエイティブ』

 

やりたいことができることだとは限らないし、

できることがやりたいことだとは限らないのが人生である。

でも、本当にやりたいことは、自分に合った方法さえ見つけ出せば、

自分なりにはできるようになるものである。

 

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