悔しい気持ちをなかったことにしない勇気

フランスでは昨日、首相の会見があり、12月15日から再開予定であった映画館、劇場、美術館の再開延期が発表された。

現段階では、さらに3週間の閉鎖が延長され、1月7日の再開が検討されている。

11月末に、12月15日からの劇場再開が発表されてから、公演再開を楽しみに毎日過ごしていたが、

完全な糠喜び。

コロナの影響で、3月に初めて公演中止が決まった時は、涙が止まらなかったけど、

いつのまにか、予定されていた何件もの公演やリハーサルが中止になるたびに、

「しょうがない」を受け入れるのがどんどん早くなってきている気がする。

今回も、「レストランやバーの経営者の人のが、よっぽど大変だから、劇場あかなくてもしょうがない」と、

公演中止をあっさり受け入れそうになったところで、違和感。

いや、私が、悔しがらないで誰が悔しがる?!

このまま、社会での劇場の必要性がどんどん下がって、演劇という文化が消えてしまうことだって、ありえないことではない。

それぞれの分野で、その分野に関わる人たちが、

自分たちの仕事ができないことを、その度にしっかりと悔しがらないと、

いつのまにか、その分野がなくてもいいことになってしまう可能性がある。

だから、今回はしっかり悔しがろう。

なんで教会はあくのに、劇場は開かないのか?

不条理であったとしても、しっかりと不満や悔しさを感じる時間をとることも、

演劇という分野に携わっているものの責任だと今日は思う。

私が、心から信用するメンバーと2年半かかわってきた作品『千夜一夜物語』に愛と敬意をこめて。

濃厚接触者からの恐怖の「赤紙」がきたら即隔離。

フランスで17日から主要都市で21時以降の外出制限が始まる前に、

いくつものピンチを潜り抜け10月の『千夜一夜物語』ツアー公演を終了しました。

去年、「黄色のベスト運動」の時にも、「幕があく」ということの奇跡を思い知らされながら公演していたけれど、今回はさらに奇跡レベルが増していたと思う。

5日に7ヶ月ぶりにスタッフ共演者に再会。

愛しい仲間たちとの再会にハグしたい気持ちをどうにかこうにか抑えて、稽古開始。

最初はマスクをしながら進めていたが、すぐにみんな苦しくなってマスクを外す。

翌日6日、今シーズンの初日前日、ゲネプロの始まる直前に、共演者の男の子がメッセージを受信。なんと、1週間前にパーティーで接触を持った女の子からコロナ「陽性」になったとの連絡。

コロナ陽性者は、医者からもらった診断書を濃厚接触者に転送しなければいけない。facebookのメッセンジャーを通してPDFで送られてきたこの診断書、まさに「赤紙」。

この「赤紙」をもらった人は、PCR検査をうけて陰性の結果がでるまで、ただちに自己隔離するように書いてある。

愕然とする彼。まっさきに、わたしに相談され、「演出家には言わないで」と言われる。私も、咄嗟のことで、「そうだね、隠そう!」と言ってしまったのだが、よくよく考えれば、彼と一番共演シーンの多い私も感染している可能性大。

私と同じく、彼と共演シーンの多い女優3人で緊急楽屋会議。

演出家に言うように、そっと促そうということになり、電話で説得。

すぐに、演出家と制作が迅速に対応し、初日の朝にPCR検査を予約。

早くとも、本番3時間前にしか結果が出ないとのこと。

その日は、彼は客席から台詞だけでゲネプロに参加し、解散。

翌日公演キャンセルになる可能性80%で、どれだけピリピリした雰囲気になるのかと思いきや、もうしょうがないから飲もう!ということになり全員でバーに移動。

深夜零時をまわり、ついでに私の誕生日まで祝ってくれる陽気なフランス人たち。

翌日、演出家もストレスの真っ只中にいるのかと思いきや、誕生日ランチを招待してくれる。

濃厚接触をした彼を糾弾するようなコメントも一切なし。

日本で、コロナ陽性になりテレビ越しに謝罪する著名人たちをみていた私は、とても気が楽になった。もし、「赤紙」がきたのが私だったとしても、運が悪かったということなのだ、と肩の荷が降りた。

本番2時間半前、演出家から「ハレルヤ」というショートメッセージが届き、彼が陰性だったことが判明。そこから、ぎりぎりまで稽古をし、本番。

彼とは一回もちゃんと稽古できないまま、7ヶ月ぶりの本番で緊張はマックス。

恐怖は興奮でしか乗り越えられない。

心を決めて、舞台に上がる。マスクをした観客で埋め尽くされている客席をみた時、思わず涙が出た。

この国には「演劇」が必要とされている。

私たちは、どんな状況でも、演劇を絶えさせない使命がある。

翌週のパリ郊外での公演は、初日がマクロン大統領の重大発表会見日時と重なっていたため、街がざわついていた。

観客も、会見内容を気にしながら、舞台を観ていたことだと思う。

休憩時間に、「21時から朝6時までの外出禁止」が発表され、私たちにも動揺がはしる。しかし、後半は、この現実に立ち向かうかのような一体感が劇場いっぱいに満たされていた。

どんな作品においても、見せる側/見る側の垣根を超えるのは「今」の存在。

「今」社会で起きていることを、見せる側/見る側、双方とも一緒に抱えている。だから、どんなに難しい状況下にあっても観客の存在は心強い。

劇場からの帰りのタクシーで、運転手さんが言った言葉。

「かつて舞台は非日常の場だったのに、今では、舞台が唯一日常の場だから、俳優が羨ましい」

その運転手さんは、20年間芸能人や政治家のプライベート運転手だったそうだが、コロナで仕事が激減し、今年中に廃業を考えているそう。そんな状況でも、月に一回は奥さんと劇場に行くのが楽しみだと話していた。

マスクをはずして、抱き合ったり、大声で喋ったり、どなりあったり、キスしたり、そんな当たり前の行為が、今はフィクションではなく、かつての「リアル」を想起させるのかもしれない。

そもそも9月半ばに演出家がコロナ陽性だったり、いくつものピンチを乗り越え、無事10月分のツアーが終了。来月は、ブルターニュ。どうか上演できますように!!

一時はどうなるかと思いましたが、今年も無事に舞台で誕生日を迎えられました。初日があいて、翌日も公演あるのに、シャンパンでお祝いしちゃう懲りない私たち。

堂々と生きる練習。

オンライン版 市原佐都子『妖精の問題』、無事終了しました。

打ち上げ

http://qqq-qqq-qqq.com/?page_id=1451&fbclid=IwAR0XjZUZhfrgX8bG-9wtr9QgRoPn44Cbn52RVuBUBTQP-YNJDnW6tgMvPLM

 

この作品は、2017年に、私のほぼ一人芝居として初演された作品で、

文字通り、血の滲むような思いで創作した。

俳優の私からみた、『妖精の問題』の記録。

東京初演:「いい俳優」なんて存在しない説

横浜再演:「効率の良さ」への楽しい抗い方

京都再演:「インストゥルメンタル」俳優の憂鬱、「コンサマトリー」俳優の爽快。

 

横浜再演の時に、もう何十回とみているのに、初めて見るかのように、

2部の「ゴキブリの歌」を、

音響デスクで、ノリノリで聞いている市原さんの顔をいつも思い出す。

 

市原さんと『妖精の問題』をzoomで再演しようという話が出た時から、

はっきり言って、

「このコロナの時期に、演劇人として、なにか社会のためにできることがあるか」

なんて、考えたことは一度もない。

私は、ただただ、このコロナ騒ぎが終わった後にも、

市原さんに作品を創り続けてほしいと思っていて、

そのためだったらなんでもやりたいと思っていた。

 

ぼんやりと、社会について何かを考えたり、願ったりということはあるけれど、

具体的に行動を起こせるほど、何かを考えたり、願ったりというのは、

本当に個人的な小さな小さな気持ちだったりする。

 

実際、毎週オンライン上でリハーサルを重ねるごとに、

仲間が増えて、一人芝居を6人で上演することとなった。

 

個人的には、

演劇が「超」価値を持っている国、フランスから、

今、日本に戻ってきていて、

日々、フランスでは必要のなかった「演劇人として堂々と生きる練習」をしている。

 

今、日本の自宅は、会社が閉鎖されても、リモートワークできちんと稼いでいる夫と、

劇場が閉鎖されて、失業保険をもらいながら、趣味と演劇に興じる妻(私)が、

同居している。

フランスから戻ってきた当初は、

オンライン稽古やオンラインヨガ、英会話などをする際、

相方の仕事の邪魔にならないように、と心がけていただが、

働き方は人それぞれ。

今、やっていることが、直接的に収入につながらない仕事だってある。

ということで、今は、日々「堂々と生きる練習」をしていて、

自宅から出演したこのZOOM演劇も、思い切り演じることができ、

小さな前進を感じている。

 

市原さんの『妖精の問題』のテキストより、

私は見えないものです
見えないことにされるということは
見えないことと同じなのです

 

私たち演劇人は、今、「見えないことにされて」いるかもしれない。

「見えないことにされて」いるときこそ、

堂々と生きる。

そして、自分にとって必要なものは、

全力で守る。

俳優と観客のための『共振力』のすすめ

遅ればせながら、2020年もよろしくお願い致します。

『千夜一夜物語』フランス地方ツアー、2020年度2都市目は、ブザンソン。

スイス国境近くに位置するこの街は、かのヴィクトル・ユーゴーを輩出した街でもある。

 

さて、ブザンソンは、演出家ギヨーム・ヴァンサンにとって、特別に思い入れのある街で、

彼が無名の時代から今まで、全作品に出資していた劇場だそう。

フランスの場合、カンパニーだけで作品製作を受け持つことは珍しく、

特に公共劇場の場合は、地方の劇場も、作品が出来る前から、co-productionというかたちで、共同出資する。

2年目の地方ツアー先は、出来上がった作品を観て、気に入れば作品が買うわけだが、

1年目の地方ツアー先は、作品が出来る前から、お金を出してくれた、いわばビジネスパートナー的な劇場なので、これからの関係性のためにも、作品で恩返しすることが重要だと、私は考えている。

つまり、ブザンソンの街の公共劇場は、

ギヨームのビジネスパートナーとして、

彼が若い時から、彼のカンパニーと共にリスクをとって、彼の創作を支え続けた歴史がある。

パリの劇場の場合、ある劇場に訪れる観客は、作品によっても変わるが、

地方に行けば行くほど、観客は固定化する。

つまり、劇場のカラーは、「観客」がつくるというっても過言ではない。

 

そんなブザンソンの観客は、天下一品。

ここ3年くらいで、フランスの40都市近くの街で、公演を経験してきた私だが、

いまだかつてブザンソンほど、質の高い観客を抱える劇場には、出会ったことがない。

最初に訪れたのは、2年前。今回で、2回目である。

ブザンソンの観客の何がすごいかというと、

それは、『共振力』の高さである。

この言葉は、数年前に、落語についての作品をフランス人とつくっていて、

落語と仏教の関係について調べていた時に、学んだ言葉である。

 

説教と語り芸能の深い関係における、落語の「共振力」について書かれた素晴らしい本がこちら。演劇にも共通することもたくさん書かれている。

『落語に花咲く仏教 -宗教と芸能は共振する』朝日選書-釈徹宗

IMG_6124.jpg

 

この本によると、

落語はとても動きが制限されているがゆえに、多くの共振現象を起こすともいえる。それが落語の特性なのだ。落語は聞き手のイマジネーションに頼った話芸である。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.146

 

これは、多様な表現形態からなら現代演劇に直接当てはめて、「多くの共振現象」を起こそうと考えるのは、少々酷である。

 

では、以下はどうだろう。

語り手と聞き手のイマジネーションが共有されると、その場は高度なものになる。もっと高度な場になれば、その場にいる大勢のイメージがかみ合い出し、まるで宗教のような場がクリエイトされ、非日常へとジャンプさせてくれる。

(中略)

つまり、説教も落語も、語り手と聞き手の双方が「自らその場にチューニングしていく」ことで成り立つのである。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.147

 

ここで、書かれている「語り手」と「聞き手」の関係を、

「俳優」と「観客」に置き換えると、双方に、「自らその場にチューニングしていく」能力が求められることになる。

落語において、観客に求められるスキルとレスポンサビリティは非常に大きいということがわかる。

 

そして最も重要なことは、その場にシンクロすることができれば、心身が心地よい喜びに満たされるということである。我々はシンクロした場が心地よいと感じる心身をもっている。これは、遥か古代から連綿と続いてきた人類の本性である。

シンクロした場を繰り返し経験することで、チューニング能力も身についてくる。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(2017) p.147

 

ここで書かれている「チューニング能力」を「共振力」と捉えると、

ブザンソンの観客の「共振力」は非常に高いといえる。

まず、舞台芸術空間において、「観客」という自分たちの立場が必須要素であるという自覚が極めて高い。

舞台に出た瞬間から、尋常ではない観客の集中力にさらされる。

そこから、徐々に、この空間において俳優と観客が「シンクロ」していくための、

「チューニング」が始まり、一気に「共振」へと向かう。

 

公演後の劇場ロビー及びバーの賑わい方も半端ではない。

3時間に及ぶ公演にもかかわらず、「シンクロ」を経た成果、俳優も観客もエネルギーに満ち溢れていて、そこかしこから笑い声が絶えない。

 

『共振力』は、決して、俳優だけが身に付けたい能力ではない。

俳優たちだけの力によって、何かとてつもないものを、この場に産み落とそうと闇雲になるのではなく、

ちょっと肩の力を抜いて、私たちの身体に備わっている『共振力』に頼ってみる。

俳優が与える側に、観客が受け取る側に徹するのではなく、

その間に生まれる、全く新しいものを恐れない力。

言葉にするのは、本当に難しいけれど、

公演が終わって、いつもとは違う拍手に包まれていた時、

もう何度も公演しているのに、ちょっと泣きそうになって、急いで楽屋に戻った。

あとで、40歳を越したベテラン俳優たちと話していたら、彼らもそうだったようで、

「なんか感動しちゃった」と、

すこし赤くなった目で、照れ笑いしていた。

 

 

 

生理中の舞台出演(裸)での愉快な裏話

私たちが小学生の頃、

修学旅行の前の週に、

女子だけ別の教室に集められて、

生理用品の使い方の説明を受けた。

生理という現象に対する理解より前に、

すべての女子が真っ先に理解したこと:

「生理」は、恥ずかしいことで、男子に隠すべきことである。

口にすることも憚れるような「生理」という言葉に、

伝染病のようなイメージが付きまとい、

初経を迎えてすぐのころは、

自分の血がついたパンツが気持ち悪すぎて、手洗いできず捨てたこともある。

 

さて、それから20年後。

「生理」は病気でも、恥ずかしいことでもない、

ただ月に一回女性に訪れるちょっと面倒くさい期間である、

(その数日前からちょっと機嫌が悪くなるので要注意)

という認識をしっかりと共有しているフランスの男性、女性たちに囲まれて、

生理中の舞台出演(裸)での愉快な裏話がたくさんあった。

 

まずは、タンポンの挿入。

普段、使用していない私は、

タンポン装着に非常に苦労する。本番前のストレスが重なればなおさら。

全員ウェディングドレスで始まるオープニング前、

かさばるウェデングドレスをたくし上げて、

タンポンが入らず、トイレで半泣きしていたら、

私よりさらにかさばるウェデングドレスを着た共演者の女優が走ってきて、

「力むと膣が閉まっちゃうから、呼吸してー。吸ってー。吐いてー。」と、トイレの扉越しに指示。

「入ったーーーーー!」と叫ぶと、彼女に強く抱きしめられる。

涙で崩れてしまった化粧を直しながら、

ダッシュで舞台袖に戻ると、

女性の衣装さんと男性の技術スタッフが、

ハサミと黒の油性ペンを持って待ってくれている。

タンポンの白いひもが、股から垂れ下がっているので、

それを黒く塗ってから、ちょっと短く切れということらしい。

真剣な顔の二人に思わず、笑ってしまう。

時間はないので、自分の毛の色に合わせて色を塗る。

これで、ようやく集中して、舞台で思いっきり演技ができた。

 

翌日は、慣れたもので、前日の過程をひとりで淡々とこなし、

共演者への男の子に、

「生理だからちょっと臭うかも」と伝えるという配慮も忘れず、

(「全然気にしないで、俺の汗のが臭いから」とさわやかに返される)

もうこれで完璧と確信して、舞台に出る。

1部後半、下半身に変な感じがすると思いながら、

1部と2部の休憩時間に舞台袖にはけると、

ドレスの下が血まみれになっている。

ホラー映画のようなグロテスクな惨状に、小さな悲鳴をあげる。

オートクチュールの衣装までも血だらけ。

男性の衣装さんが走ってきて、

「人の血ですか?血糊ですか?」と真顔で質問される。

「人の血です!」

「了解しました」と、私の衣装を持って去っていく。

どうやら、血糊と人の血とで使用する洗剤が違うらしい。

 

私は、このような話を、よく観に来てくれたお客さん(女性でも男性でも)と笑って話すのだが、

日本語だとやはり躊躇してしまうところはある。

日本語で話す「生理」の話に、「下品」「汚い」というイメージが付きまとっているからである。

 

そんなイメージをぶっ飛ばしてくれた、

最強の本がこちら、スウェーデン初の女性器と生理に関する漫画:

『禁断の果実 女性の身体と性のタブー』

 

禁断の果実書影-731x1024.jpg

 

とにかく、絵が最高に可愛い!

フランスやドイツでも大ブームになった本。

タブーとされている言葉を、

あえてどんどん使っていくことで、

読者のタブー意識もどんどん溶かしていく、スマートなギャグ・コミック。

 

フェミニズムの問題に関して、

男性の意識を変えるのは、

いつだって女性。

生きづらさを感じていないのに、

自分を変えようと思う人なんていない。

でも、私が、その生きづらさもひっくるめて堂々としてれば、

自分の半径1メートルから変わっていく。

だから、私にとっては、

男性が生理に関するネタで笑っても、それはセクハラではなく、歩み寄りです。