「身体を〈記録メディア〉として活用する」:俳優の視点から

※城崎国際アートセンターに寄稿した記事を転記します。http://kiac.jp/article/1595/

数年前、いつも楽しみに見ているお笑い番組で、お笑いコンビの「ネタ書いている方」「ネタ書いていない方」論争というのが話題になった。「ネタ書いている方」の言い分としては、「ネタ書いていない方」は、「1から100」に持っていくことと、「0から1」を生み出すことの違いをあまり理解していないということ。「ネタ書いている方」がもっと評価されてもいいのでは、と。しかし、私のようなコアなお笑いファンは、「ネタ書いている方」がいかに素晴らしいかということは、百も承知である。

私が普段やっている「俳優」という仕事は、まさに「ネタ書いていない方」であり、「1から100」に持っていくことである。正直、「0から1」を生み出すことのできる演出家や劇作家の才能を前に、自身も芸術に携わっていると言うことすら躊躇することもある。「ネタ書いている方」の「0から1」がなければ、自分たちは存在しないのだから。

『最後の芸者たち』の創案者、太田信吾さんに芸者文化に関する作品を一緒につくろうと誘われた時も、誰かが「0から1」にした「1」を、どんな形であれ「100」まで昇華させる気持ちで、快諾した。私にとっての演劇は、「0から1」にするその「誰か」が重要である。演劇は関係性の芸術であり、「1から100」にすることを生業にする私にとって、作品のテーマよりなにより、創作にあたり深く関わっていくであろう「0から1」にするその「誰か」自身のほうに興味を持つからである。

2021年、コロナ禍真っ只中、私は拠点であるパリと城崎をよく往復していた。当時、パリ−東京間を往復するとなると、日本で14日間、フランスで7日間の自宅待機を強いられ、計3週間を失うことになる。カナダで行われる予定だった新作クリエーションが、カナダへの渡航禁止に伴い現地での制作が不可能となり、共演者がいる日本に私が渡航し、カナダにいる演出家マリー・ブラッサールと、2週間半の滞在制作をすべてリモートで行うこととなった。そんな状況下で、私にとってはじめてのKIAC滞在制作が始まり、急遽、日本側から映像監督としてプロジェクトに参加したのが太田信吾さんだった。太田さんにとっても、結果的にその後城崎と深く関わっていくきっかけとなったのである。そのひとつの大きな要因として、総監督としてのマリーのスタンスにおける変化があったと思う。滞在制作も中盤に差し掛かった頃、マリーが「コロナ禍で国際協働制作をするということは、それぞれが『権力』を手放していくことだと感じている」と少し寂しそうに口にした。マリーは、野外ロケの指揮を太田さんと私たち出演者に委ねた。「13時間の時差ありリモート」という創作環境のなか、どうしてもメンバーに「任せる」部分が増えてしまうのは、演出家として、非常に不安な経験だったと思う。それでも、彼女は想像していたものと違うものが私たちから提示された時、常に、そこに生じた「取り違え」を受け入れ、振り回されることに寛容であった。私たちも然り、わかりあえないもどかしさを逆手にとり、徐々に自分たちの想像力を駆使し、全力で勘違いしながらも解釈した作品を提示できることの面白さを得た。

この時、コロナ禍という特殊な状況下において、城崎周辺の街を歩き周り、さまざまな魅力的なロケーションに出会ったことがきっかけとなり、志賀直哉『城の崎にて』を原作に、太田さんと短編映画『現代版 城崎にて』の撮影を決行。言葉にはできない「街が持つエネルギー」に突き動かされたとしか言いようがないのだが、なんと、KIAC滞在制作が終了してから3ヶ月も待たずして、また城崎に映画撮影のため戻ってきたのである。

撮影を通して、私たちにとってさらに「馴染み深い街」となった城崎だが、次に太田さんの心を虜にしたのが、城崎温泉最後の芸者「秀美さん」の存在である。城崎温泉には、かつて芸者文化が栄えていたのだが、現在は絶滅しているとのこと。当時一番年下であった芸者の「秀美さん」が、城崎最後の芸者だそうだ。太田さんはすぐに本人にコンタクトを取り、芸者文化の取材を決行。

私が、初めて秀美さんにお会いしたのは城崎コミュニティーセンター近くの喫茶店『沙羅の木』だった。私はコーヒーを飲む秀美さんの手元に視線を奪われていた。秀美さんの手がシュガーポットを開ける。スプーンにそっと伸ばした手。砂糖をコーヒーに入れる時の手首。コーヒーカップを持つ指先。そしてカップをソーサーに置く時のクッションとなる小指。それはしなやかで、上品で、美しいと思った。太田さんが、車に何かを取りに行った時、秀美さんとふたりきりになった。秀美さんは、「女の人はね、姿勢もしぐさも、ちょっとしたことだけどね、とても大事」と何気なく言った。それまで、秀美さんのしぐさに完全に魅了されていたのに、その言葉を聞いた瞬間、アレルギーが出たかのように、全身がかゆくなったことをよく覚えている。

私はフェミニズム的思考が強い家庭で育ったので、女性は男性と対等にあるものだと、幼少期から強く意識させられて育ってきた。自分で自身に課してしまった「女性性を出すこと=男性に媚びること」という過剰なジェンダーフリー思想に、女性として息苦しさを感じていた部分も正直あったと思う。だから、芸者文化を題材に作品をつくるということに関しても、最初はいまいちのれなかった。それでも、「1を100にする」ことはできると関わり始めた。

まず、秀美さんのもとで日舞のお稽古が始まった。最初の演目は『潮来出島』。ゆっくりでカウントの取りにくいリズムに、私は辟易としていた。私がフランスに10年以上住んでいるからという理由でなく、すでに私たち世代の身体には、西洋のリズムが刻まれており、西洋のリズムの取り方の方が気持ちいいのである。母国に伝わるリズムを聞いても、身体が全く反応しない。伝統文化とその国に育ったはずの身体の乖離を感じた。それでも、「1を100にする」ことはできると練習を続けた。

同時に、太田さんとKIACでの滞在制作に向けて、全国の芸者さんをリサーチする旅に出た。会津若松で労働環境を積極的に改善するため活動している若い芸者さん。大井海岸を拠点に日本でただ一人の男性として芸者を生業にしている方。お客さんとして体験した京都のお座敷。実際に新米芸者としてお座敷を体験させてくれた、長野県上山田温泉の芸者さん。スナックを経営しながら、若手の舞妓さんの面倒を見る金沢の芸者さん。私は、いつの間にか「0から1」を産み出すプロセスにも参加していた。俳優である私とプロセスを共有する理由として、太田さんは以下のコンセプトをあげた。

「身体を〈記録メディア〉として活用する」

今までカメラを用いて記録してきた映像を、身体をカメラとして扱い記録することはできないか。実際、お座敷は個人のお客様がクライアントとなって、芸者さんを呼んで時間を過ごす場所なので、カメラで撮影することは非常に難しい。ならば、私たち自身がカメラとなり、記憶と時代と想像の「記録媒体」となった私たちの身体を通して、作品を観客の前に現出させるのだ、と。

このコンセプトを聞いた時に、「0から1」を作り上げる人と、「1から100」を作り上げる人を役割分担するなんて、なんて稚拙だったのか、と目が覚めた。演出家には演出家の、「0から1」にする瞬間と、「1から100」にする瞬間があり、俳優には俳優の「0から1」にする瞬間と、「1から100」にする瞬間があるのだ。

カメラになった私の身体は、ものすごい勢いでいろんなものを「撮り」始めた。それは、どこか自分の「意志」を手放す作業であったとも言える。通常、演技というものを構築するにあたり、戯曲をもとに能動的に自分の解釈から、その空間における自身の身体のあり方を編み出すというプロセスがあると考えられる。以前、國分功一郎氏の『中動態の世界』(*1)を読みながら、演技と中動態について、さまざまな考えをめぐらしていた時から、私の演技は「能動的」であると感じていて、それに付随する「意志」や「責任」のため生じる常軌を逸した本番前の「緊張」状態とどう対峙しようかと悩んでいたのである。『中動態の世界』によると、能動態は「主体から発して主体の外で完遂する過程」を表現し、中動態は「主語がその座となるような過程を表しているのであって、主語はその過程の内部にある」と説明されている。つまり、能動態では〈活動を一方的に発出する起点〉になっているのに対し、中動態は、〈主語が活動の過程の内にある〉という事態が示されているのである。この時、主語は、なんらかの状況に常に巻き込まれているので、「意志」や「責任」の所在をはっきりさせるのが難しい。上演芸術において、稽古中に何人もの人間が関わっていても、最終的に観客の前に姿を現す俳優は、その「意志」や「責任」を必要に以上に背負ってしまい、なんらかが「完遂する行為」を求めがちであるが、上演芸術の「ライブ」という特徴を考えると、稽古場とは異なり、外部からの「ノイズ」がたくさん存在する空間を歓待するという意味では、ある状況に巻き込まれている「中動態」的状態の方が適切なのではないか。たとえ、中動態という状態が運んでくるであろう「脆弱さ」と隣り合わせになっても。

「好き」や「嫌い」、「得意」や「苦手」のフィルターをはずした状態で、私の身体は撮影を続けた。そんな中で、なかなか愛着を持てなかった日舞のお稽古が、確実に進化を遂げた4日間があった。『最後の芸者たち』のKIAC滞在期間は終わっていたが、すぐ翌月また別のプロジェクトでKIACに滞在していた私に、秀美さんの方から、「いつでもお稽古にきなさい」と連絡があった。太田さんも他のメンバーも不在の状況で、私だけが、秀美さんのご自宅にお稽古に通った。8畳のお部屋で、私は秀美さんの前で何回も踊り、その度に秀美さんは、細かくアドバイスをくれた。それ以前のお稽古では、秀美さんが細かいことを言うことはなかったのだが、ある一定のレベルに差しかかったことで、次の技を伝達する言葉を受け渡してくれたのだろうと思う。私は、その時、ジェンダーを超えたところで、日舞の動きひとつひとつが美しいと自然に感じ、ただただそこに1ミリでも近づきたいと熱願した。

そして、迎えた『最後の芸者たち』の公演。能動的に、他者の状況を解釈し、自身の身体で表現していくことを「演技」、演じる技と呼ぶなら、今回、身体をカメラとして常に物事に巻き込まれながら、そして、本番もまだ巻き込まれ続けている私の身体は、「現技=そこに現出させる技」とも言えるような中動態的状態であった。それは、フィルムとなった自身の身体を公演ごとに観客の前で「現像」していくような不思議な感覚であった。

つながりがつながりを呼び、創作の外にまで関係性が広がっていったのは、まさに、KIACという場所の特性であると思う。KIACレジデンスアーティストであることは、1年のうちのほんの数ヶ月なのだが、いつ城崎にもどってきても、喫茶店や温泉、道端で、地元のような居心地の良さを感じた。KIACから始まった私たちの「大冒険」に感謝を込めて。

©️ igaki photo studio

(コロナ禍での)滞在制作とは何か。

コロナ禍で、私が一番失ったと感じることは「移動の自由」である。

ハラスメントと同じで、何かを失ったり、制限されたりすることに、自らが気付き「傷つく」には少々時間がかかることがある。

78歳のイタリアの哲学者ジョルジオ・アガンベンは、

コロナ禍での発言により、大炎上を起こしたひとりである。

アガンベンが言及した二つの懸念は、「死者の権利」と「移動の権利」を剥奪されること。

まず、死者が葬儀の権利を持たないことに対して苦言を呈した。

そして、「移動の権利」の制限に関して。

アガンベン曰く、「移動の自由」は単に数ある自由のうちのひとつではなく、

苦難の末に勝ち得られた権利であり、

近代が権利として確立してきたさまざまな「自由の根源」にあるという。

つまり、「移動の自由」を制限されることをみとめてしまうということは、

大袈裟ではなく他の自由も失う可能性がすくそばに孕んでいるということ。

コロナ禍でパリー東京間を往復するとなると、現在日本で14日間、フランスで7日間の自宅待機を強いられ、計3週間失うことになる。

それでもコロナ禍に突入してから、3度の往復をした。毎回、飛行機の乗客は6、7人で、客室乗務員の数より少ない。

今回は、カナダで行われる予定だった新作クリエーションが、カナダへの渡航禁止に伴い現地での制作が不可能となり、

共演者がいる日本に私が渡航し、カナダにいる演出家と、東京での1週間の稽古を経て、城崎に移動し、さらに2週間半の滞在制作をすべてリモートで行った。

城崎にたどり着くまで、長い長い道のりがあった。3月フランスの感染状況は悪化していて、EU圏外への移動が制限されていた。ビザの更新のタイミングもあり、カナダ側は弁護士を雇って、私の渡航許可を取得するために奔走してくれた。私も、数々の書類を集め、県庁に数回足を運んだ。

成田空港に到着してからも、位置情報を随時提供するためのアプリをいくつもダウンロードしなければならず、PCR検査陰性の結果が出たあとも、政府の用意するホテルに3日間滞在することが必須となっていた。

自宅に戻ってからも、1日に何回も位置情報を求める通知がきて、携帯に頓着しない生活をしている私には少し重荷だった。

それでも、城崎国際アートセンターでの滞在制作だけを楽しみに14日間の軟禁生活を乗り切り、とうとう城崎にたどり着く。

当時の私の「滞在制作を楽しみに思う」気持ちは、非常に浅はかなものであった。

豊岡市に滞在するという意識は希薄で、「東京を離れ、温泉に入りながら創作に思う存分集中できる」というくらいのものであった。

しかし、コロナ禍におけるリモート創作という制約が功を奏し、結果的に「豊岡市という場所で、滞在制作をする」ということを日々認識しながらの滞在となる。

今回の作品の演出家である、カナダ在住のアーティスト:マリー・ブラッサール氏は、コロナ禍で作品を発表するにあたり、全ての可能性を視野にいれ創作を進めた。

私ともうひとりの出演者:奥野美和さん(ダンサー・振付家)がヨーロッパツアーで合流し3人で出演するバージョン、カナダは渡航禁止区域なので、私と奥野さんは映像出演で、マリー本人がひとりで出演するバージョン、そして、劇場が閉鎖してしまったときのための美術館等でも映像を展示できるインスタレーションバージョン。

急遽、日本側から映像監督として太田信吾さんにプロジェクトへの参加をお願いし、アートセンターのホールで、舞台用の稽古と屋外での映像撮影を並行して行った。

野外での映像にマリーがつきっきりで関与することは難しいと考え、撮影は日本チームで進めた。

滞在制作も、中盤に差し掛かった頃、マリーが、「コロナ禍で国際協働制作をするということは、それぞれが『権力』を手放していくことだと感じ始めている」、と少し寂しそうに口にしたことが非常に印象的であった。

演出家としても、プロジェクトの総監督としても、メンバーにすべての指示を出せなかったり、どうしても「任せる」部分が増えていってしまうのは、非常に不安な経験だったと思う。

それでも、彼女が想像していたものと違うものが私たちから提示された時にも、常に、そこに生じた「取り違え」を受け入れ、振り回されることに寛容であった。

私たちも然り、「わかりあえない」ことのもどかしさを逆手にとり、徐々に自分らの「想像力」を駆使し、全力で「勘違いする力」でした解釈を作品として提示できることの面白さを得た。

マリーは、城崎でのレジデンス開始当初から一貫して、

温泉とか街の散歩とか地元のものを食べよとか、チームでエンジョイしてね!ということをしきりに言っていて、

最初、私はその一言一言に苛立っていた。

私は、創作をしにここまできたのであって、観光をしている暇はない!と異様に焦っていた。

レジデンス4日目から城崎・竹野地区での撮影が始まり、

アートセンターの外を出て、野外での撮影(創作)が始まったことで、すべての景色が変わった。

街から与えられるインスピレーションの力は際限なく、

豊岡という「場所」とカナダで生まれた「物語」がどんどん交差し、また別の何かに変容していくさまに夢中になった。

その日から、温泉も街の散歩も地元のものを食べることも一切厭わなくなる。

滞在制作9日目の日曜日、豊岡の文化政策に多大な意味をもたらすことになる豊岡市長選挙が行われた。

出身地のさいたま市でも、今住んでいる東京とパリでも味わったことのない緊張感を感じ、

祈るような気持ちで開票結果を待った。

思うようにはいかなかった選挙の結果を経て、さらには、兵庫県が緊急事態宣言を出し、最悪とも思われるコンディションの中、たくさんの出会いがあった2週目。

豊岡高校の高校生が、遠足の一貫で、生徒さんのひとりが自ら先生に懇願して、アートセンターと私たちのリハーサルを見学しにきてくれたり、

コロナ禍でアートセンターが閉館している中、大学の先生とアートセンターの連携のもと、豊岡市に開校したばかりの芸術文化観光専門職大学の1年生たちが、通しリハーサルを観にきてくれたり、

アートセンターが企画して、豊岡の高校生と対談したり、

温泉寺に撮影に伺わせてもらい、温泉寺と城崎の歴史をお話ししてもらったり。

そんな日々の中、創作への熱量がどんどん上昇し、結果として稽古も進んだ。

個人的に重要だったことは、初めて日本人の観客の前で、フランス語で演じたこと。

劇場にもそんなに行ったことがないと言っていた大学生たちが、

彼らにとっては、なんの意味ももたないであろうフランス語の台詞を、全神経をつかって感じてくれているという体感は心から愛おしいものであった。

今後、私の俳優人生にも大きく影響するであろうくらい素敵な時間だった。

もうひとつは、共演者の美和さんと休憩時間に鮮魚を買いにいったこと。

時差の関係で毎日朝8時から稽古をしていたのだが、昼休憩の時に、夜タイのお刺身が食べたかったので、

美和さんと往復30分かけて魚屋さんに行った。

私は、本来こういう時間を無駄だと考えてしまいがちだが、城崎での生活には、生活に手をかけるということが、今一緒にいる人たちを大切にするということにつながると思ってしまう力があった。

自分でいうのもなんだけど、城崎の滞在を経て、すこし優しい人間になれたと思う。

「移動の自由」とは、

どこにでも好きな場所にいけるというころではなく、

その場所に自分がいてもいいということを感じられる自由であると思う。

城崎に行くことができる自由というより、

城崎にいてもいいと感じられることの方がよっぽど自由があった。

いてもいいと感じられるためには、こちら側がまず「自分が今どこにいるのか」ということに歩み寄る必要がある。

温泉では、東京から来ていることをバレないようにしようと心がけていたが、

閉めようとすれば閉めようとするほど、溝は深まる。

温泉でおばちゃんに声をかけられて、自然に世間話して、「また来てね」と言われたり。

よそ者でも「あけっぱなし」にしているからこそ、適度な情報開示をする姿勢によって、不信感を抱かせない程度のちょうどいい距離感が生まれたり。

コロナ禍で、「移動の自由」を守っていくために、そこに暮らす人々と、そこにやってくる 人々の間に、今後たくさんの壁が待ち受けていると思う。

それでも、私には「移動の自由」が必要だと自信を持って言える滞在を経験した。(それは本当にKIACのおかげ。)

まだ、うまく言語化できていないが、「滞在制作」という機能を再考させられる滞在となったことへの感謝を、関わっていただいた全ての皆さまに送ります。

ありがとうございました。

同志、美和さんと。Photo by Bozzo

悔しい気持ちをなかったことにしない勇気

フランスでは昨日、首相の会見があり、12月15日から再開予定であった映画館、劇場、美術館の再開延期が発表された。

現段階では、さらに3週間の閉鎖が延長され、1月7日の再開が検討されている。

11月末に、12月15日からの劇場再開が発表されてから、公演再開を楽しみに毎日過ごしていたが、

完全な糠喜び。

コロナの影響で、3月に初めて公演中止が決まった時は、涙が止まらなかったけど、

いつのまにか、予定されていた何件もの公演やリハーサルが中止になるたびに、

「しょうがない」を受け入れるのがどんどん早くなってきている気がする。

今回も、「レストランやバーの経営者の人のが、よっぽど大変だから、劇場あかなくてもしょうがない」と、

公演中止をあっさり受け入れそうになったところで、違和感。

いや、私が、悔しがらないで誰が悔しがる?!

このまま、社会での劇場の必要性がどんどん下がって、演劇という文化が消えてしまうことだって、ありえないことではない。

それぞれの分野で、その分野に関わる人たちが、

自分たちの仕事ができないことを、その度にしっかりと悔しがらないと、

いつのまにか、その分野がなくてもいいことになってしまう可能性がある。

だから、今回はしっかり悔しがろう。

なんで教会はあくのに、劇場は開かないのか?

不条理であったとしても、しっかりと不満や悔しさを感じる時間をとることも、

演劇という分野に携わっているものの責任だと今日は思う。

私が、心から信用するメンバーと2年半かかわってきた作品『千夜一夜物語』に愛と敬意をこめて。

濃厚接触者からの恐怖の「赤紙」がきたら即隔離。

フランスで17日から主要都市で21時以降の外出制限が始まる前に、

いくつものピンチを潜り抜け10月の『千夜一夜物語』ツアー公演を終了しました。

去年、「黄色のベスト運動」の時にも、「幕があく」ということの奇跡を思い知らされながら公演していたけれど、今回はさらに奇跡レベルが増していたと思う。

5日に7ヶ月ぶりにスタッフ共演者に再会。

愛しい仲間たちとの再会にハグしたい気持ちをどうにかこうにか抑えて、稽古開始。

最初はマスクをしながら進めていたが、すぐにみんな苦しくなってマスクを外す。

翌日6日、今シーズンの初日前日、ゲネプロの始まる直前に、共演者の男の子がメッセージを受信。なんと、1週間前にパーティーで接触を持った女の子からコロナ「陽性」になったとの連絡。

コロナ陽性者は、医者からもらった診断書を濃厚接触者に転送しなければいけない。facebookのメッセンジャーを通してPDFで送られてきたこの診断書、まさに「赤紙」。

この「赤紙」をもらった人は、PCR検査をうけて陰性の結果がでるまで、ただちに自己隔離するように書いてある。

愕然とする彼。まっさきに、わたしに相談され、「演出家には言わないで」と言われる。私も、咄嗟のことで、「そうだね、隠そう!」と言ってしまったのだが、よくよく考えれば、彼と一番共演シーンの多い私も感染している可能性大。

私と同じく、彼と共演シーンの多い女優3人で緊急楽屋会議。

演出家に言うように、そっと促そうということになり、電話で説得。

すぐに、演出家と制作が迅速に対応し、初日の朝にPCR検査を予約。

早くとも、本番3時間前にしか結果が出ないとのこと。

その日は、彼は客席から台詞だけでゲネプロに参加し、解散。

翌日公演キャンセルになる可能性80%で、どれだけピリピリした雰囲気になるのかと思いきや、もうしょうがないから飲もう!ということになり全員でバーに移動。

深夜零時をまわり、ついでに私の誕生日まで祝ってくれる陽気なフランス人たち。

翌日、演出家もストレスの真っ只中にいるのかと思いきや、誕生日ランチを招待してくれる。

濃厚接触をした彼を糾弾するようなコメントも一切なし。

日本で、コロナ陽性になりテレビ越しに謝罪する著名人たちをみていた私は、とても気が楽になった。もし、「赤紙」がきたのが私だったとしても、運が悪かったということなのだ、と肩の荷が降りた。

本番2時間半前、演出家から「ハレルヤ」というショートメッセージが届き、彼が陰性だったことが判明。そこから、ぎりぎりまで稽古をし、本番。

彼とは一回もちゃんと稽古できないまま、7ヶ月ぶりの本番で緊張はマックス。

恐怖は興奮でしか乗り越えられない。

心を決めて、舞台に上がる。マスクをした観客で埋め尽くされている客席をみた時、思わず涙が出た。

この国には「演劇」が必要とされている。

私たちは、どんな状況でも、演劇を絶えさせない使命がある。

翌週のパリ郊外での公演は、初日がマクロン大統領の重大発表会見日時と重なっていたため、街がざわついていた。

観客も、会見内容を気にしながら、舞台を観ていたことだと思う。

休憩時間に、「21時から朝6時までの外出禁止」が発表され、私たちにも動揺がはしる。しかし、後半は、この現実に立ち向かうかのような一体感が劇場いっぱいに満たされていた。

どんな作品においても、見せる側/見る側の垣根を超えるのは「今」の存在。

「今」社会で起きていることを、見せる側/見る側、双方とも一緒に抱えている。だから、どんなに難しい状況下にあっても観客の存在は心強い。

劇場からの帰りのタクシーで、運転手さんが言った言葉。

「かつて舞台は非日常の場だったのに、今では、舞台が唯一日常の場だから、俳優が羨ましい」

その運転手さんは、20年間芸能人や政治家のプライベート運転手だったそうだが、コロナで仕事が激減し、今年中に廃業を考えているそう。そんな状況でも、月に一回は奥さんと劇場に行くのが楽しみだと話していた。

マスクをはずして、抱き合ったり、大声で喋ったり、どなりあったり、キスしたり、そんな当たり前の行為が、今はフィクションではなく、かつての「リアル」を想起させるのかもしれない。

そもそも9月半ばに演出家がコロナ陽性だったり、いくつものピンチを乗り越え、無事10月分のツアーが終了。来月は、ブルターニュ。どうか上演できますように!!

一時はどうなるかと思いましたが、今年も無事に舞台で誕生日を迎えられました。初日があいて、翌日も公演あるのに、シャンパンでお祝いしちゃう懲りない私たち。

堂々と生きる練習。

オンライン版 市原佐都子『妖精の問題』、無事終了しました。

打ち上げ

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この作品は、2017年に、私のほぼ一人芝居として初演された作品で、

文字通り、血の滲むような思いで創作した。

俳優の私からみた、『妖精の問題』の記録。

東京初演:「いい俳優」なんて存在しない説

横浜再演:「効率の良さ」への楽しい抗い方

京都再演:「インストゥルメンタル」俳優の憂鬱、「コンサマトリー」俳優の爽快。

 

横浜再演の時に、もう何十回とみているのに、初めて見るかのように、

2部の「ゴキブリの歌」を、

音響デスクで、ノリノリで聞いている市原さんの顔をいつも思い出す。

 

市原さんと『妖精の問題』をzoomで再演しようという話が出た時から、

はっきり言って、

「このコロナの時期に、演劇人として、なにか社会のためにできることがあるか」

なんて、考えたことは一度もない。

私は、ただただ、このコロナ騒ぎが終わった後にも、

市原さんに作品を創り続けてほしいと思っていて、

そのためだったらなんでもやりたいと思っていた。

 

ぼんやりと、社会について何かを考えたり、願ったりということはあるけれど、

具体的に行動を起こせるほど、何かを考えたり、願ったりというのは、

本当に個人的な小さな小さな気持ちだったりする。

 

実際、毎週オンライン上でリハーサルを重ねるごとに、

仲間が増えて、一人芝居を6人で上演することとなった。

 

個人的には、

演劇が「超」価値を持っている国、フランスから、

今、日本に戻ってきていて、

日々、フランスでは必要のなかった「演劇人として堂々と生きる練習」をしている。

 

今、日本の自宅は、会社が閉鎖されても、リモートワークできちんと稼いでいる夫と、

劇場が閉鎖されて、失業保険をもらいながら、趣味と演劇に興じる妻(私)が、

同居している。

フランスから戻ってきた当初は、

オンライン稽古やオンラインヨガ、英会話などをする際、

相方の仕事の邪魔にならないように、と心がけていただが、

働き方は人それぞれ。

今、やっていることが、直接的に収入につながらない仕事だってある。

ということで、今は、日々「堂々と生きる練習」をしていて、

自宅から出演したこのZOOM演劇も、思い切り演じることができ、

小さな前進を感じている。

 

市原さんの『妖精の問題』のテキストより、

私は見えないものです
見えないことにされるということは
見えないことと同じなのです

 

私たち演劇人は、今、「見えないことにされて」いるかもしれない。

「見えないことにされて」いるときこそ、

堂々と生きる。

そして、自分にとって必要なものは、

全力で守る。