エネルギーを翻訳する。

時間が経ってしまいましたが、

昨年末にやった日仏通訳の仕事のまとめ。

フランス国立演劇センター ジュヌヴィリエ劇場とSPAC-静岡県舞台芸術センターで共催された『桜の園』、

フランス公演の通訳として参加させていただきました。

そもそも私は通訳ではないので、演劇(主に稽古場)の現場でのみ、「エネルギーを翻訳する」という使命を持って日仏通訳を引き受けている。

私が通訳として現場に入る時、通訳である私の存在は全く消えないので、普段本業の通訳の方々と仕事をされていると戸惑いが見られる。

通常、通訳の心得としてあげられる有名なものが以下の2点。

①「正確さ」を測る三つの指針:

  • 足さない (without addition)
  • 引かない (without omission)
  • 変えない (without distortion)

②通訳者は個人的な意見は言わない:「中立性(Neutrality)」と「公平性(Impartiality)」

今回は、一般参加者を含むワークショップやアフタートークなどの通訳と創作メンバーだけでの稽古場での通訳が主な仕事内容であった。

私は前者を「パブリックな通訳」、後者を「親密な通訳」と呼び分けていて、特に後者が得意だ。

(前者は単純にスキル不足で、フランス語から日本語はまだしも、日本語からフランス語は訓練が必要)

「親密な通訳」の特徴は、メンバーが随時固定であることにプラスし、付き合いが長くなるという特徴がある。

つまり、メンバーのなかで一定の「スキーマ」が既に共有されている状態である。

スキーマ(schema)というのは、自分の頭にある、構造化された知識・知識の枠組みのこと。

経験のある俳優や演出家、技術スタッフなら、創作現場でのスキーマは、創作チームが出来上がる前から各々が持っているのでは、と思われるかもしれないが、

稽古場というのは、実に千差万別である。

だからこそ、一定の時間を過ごした人々の間に生まれている「稽古場スキーム」を垣間見ることは非常に美しく、時として、魔法のようなことが起こる。

言語学習の読解教育では、スキーマを活性化させることで、読解が促進されるということが言われているのだが、

「稽古場スキーマ」の活性化は非常に優れているので、そこに関わるメンバーの読解能力は非常に高い。

これは、本来、演劇に関わる人たちが、「他者を読解する」ということを職業にしているということに起因すると思う。

共演者の意図を読解する。

登場人物の行動及び言葉を読解する。

スタッフの計らいを読解する。

演出家の指示を読解する。

このような読解能力が非常に高い現場において、通訳の心得①:「足さない、引かない、変えない」を実行してしまうと、稽古場に流れるエネルギーを停滞してしまうことになる。

俳優の立場から言わせてもらうと、稽古中に循環しているエネルギーの流れを止められることは、非常に気持ちが萎える。

また、停滞してしまったエネルギーを再稼働するにも、新たなエネルギーを消費することになるので、疲弊する。

通訳の立場で、稽古場のエネルギーの流れを止めてしまうことだけは避けたいのだ。

だから、「親密な通訳」に関しては、エネルギーごとまるまる翻訳できるように努めている。

そこで、重要になってくるのが、ビジネスシーンでも注目されている「メラビアンの法則」である。

メラビアンさんという人が行った実験によると、

コミュニケーションをとる際に最も重要なのは話の内容だと思いがちだが、

実際には言語情報はわずか7%しか優先されていないことがわかったそう。

人間は、顔の表情、顔色、視線、身振り、手振り、体の姿勢、相手との物理的な距離などを使って行われる「非言語的コミュニケーション」から得る情報も、かなり頼りにしているから。

通訳は本来、通訳者の心得②「中立性(Neutrality)」と「公平性(Impartiality)」を担保するため、

私たちが通常無意識に行ってしまう「非言語コミュニケーション」を排除する傾向にある。

しかし、稽古場というデリケートでフラジールな時間と空間において、部外者の介入は必ずしも心地いいものではない。

それだったら、稽古場通訳においては、「内部の人間」になってしまうのが適当であろうと個人的な意見である。

「非言語コミュニケーション」を排除しないということは、

自分も、個人として、それぞれの人とお付き合いさせていただく意思をそっとお伝えすること。

個人としてお付き合いさせていただくことで、ワークショップ前の事前準備を一緒にやらせていただいたり、

休憩時間にも、作品について一緒にディスカッションさせていただいたり、非常にありがたい時間だった。

そして、「エネルギーを翻訳する」ことに全力を注いで迎えた初日。

1週間前から少しづつ用意していた手作りのお菓子ボックスを俳優さんたちに渡した。

フランスでの初日(プルミエ)は、作品にとって本当に大切な日。

この日から、作品は演出家の手を離れて、俳優や技術スタッフとともに、観客に出会うべく「公共」のものとして巣立っていく。

日本では、すべてが無事におわった千秋楽の日にお祝いをする習慣があったので、

私も最初は慣れなかったけど、今は、「初日」という日を心から大切にしている。

まさに、作品のお誕生日。胎児が赤子となるように。

公演日を重ねるごとに、観客とともに、「公共」の場で育っていく。

それは、稽古の中で作品が育っていく過程とは全く違う。

だからこそ、それぞれが覚悟を持って「公共」への窓をしっかりと開け放ち、

作品が一人歩きしていくことを受け入れるためにも、しっかりと「初日」を祝うのだ。

そして、私の通訳も「親密な通訳」から「公共の通訳」へとゆっくりと移行していった。

そのためには、まだまだ修行が必要。

忍耐強く、そして、寛容に接してくださった『桜の園』チームの皆さま、

本当にありがとうございました。

(コロナ禍での)滞在制作とは何か。

コロナ禍で、私が一番失ったと感じることは「移動の自由」である。

ハラスメントと同じで、何かを失ったり、制限されたりすることに、自らが気付き「傷つく」には少々時間がかかることがある。

78歳のイタリアの哲学者ジョルジオ・アガンベンは、

コロナ禍での発言により、大炎上を起こしたひとりである。

アガンベンが言及した二つの懸念は、「死者の権利」と「移動の権利」を剥奪されること。

まず、死者が葬儀の権利を持たないことに対して苦言を呈した。

そして、「移動の権利」の制限に関して。

アガンベン曰く、「移動の自由」は単に数ある自由のうちのひとつではなく、

苦難の末に勝ち得られた権利であり、

近代が権利として確立してきたさまざまな「自由の根源」にあるという。

つまり、「移動の自由」を制限されることをみとめてしまうということは、

大袈裟ではなく他の自由も失う可能性がすくそばに孕んでいるということ。

コロナ禍でパリー東京間を往復するとなると、現在日本で14日間、フランスで7日間の自宅待機を強いられ、計3週間失うことになる。

それでもコロナ禍に突入してから、3度の往復をした。毎回、飛行機の乗客は6、7人で、客室乗務員の数より少ない。

今回は、カナダで行われる予定だった新作クリエーションが、カナダへの渡航禁止に伴い現地での制作が不可能となり、

共演者がいる日本に私が渡航し、カナダにいる演出家と、東京での1週間の稽古を経て、城崎に移動し、さらに2週間半の滞在制作をすべてリモートで行った。

城崎にたどり着くまで、長い長い道のりがあった。3月フランスの感染状況は悪化していて、EU圏外への移動が制限されていた。ビザの更新のタイミングもあり、カナダ側は弁護士を雇って、私の渡航許可を取得するために奔走してくれた。私も、数々の書類を集め、県庁に数回足を運んだ。

成田空港に到着してからも、位置情報を随時提供するためのアプリをいくつもダウンロードしなければならず、PCR検査陰性の結果が出たあとも、政府の用意するホテルに3日間滞在することが必須となっていた。

自宅に戻ってからも、1日に何回も位置情報を求める通知がきて、携帯に頓着しない生活をしている私には少し重荷だった。

それでも、城崎国際アートセンターでの滞在制作だけを楽しみに14日間の軟禁生活を乗り切り、とうとう城崎にたどり着く。

当時の私の「滞在制作を楽しみに思う」気持ちは、非常に浅はかなものであった。

豊岡市に滞在するという意識は希薄で、「東京を離れ、温泉に入りながら創作に思う存分集中できる」というくらいのものであった。

しかし、コロナ禍におけるリモート創作という制約が功を奏し、結果的に「豊岡市という場所で、滞在制作をする」ということを日々認識しながらの滞在となる。

今回の作品の演出家である、カナダ在住のアーティスト:マリー・ブラッサール氏は、コロナ禍で作品を発表するにあたり、全ての可能性を視野にいれ創作を進めた。

私ともうひとりの出演者:奥野美和さん(ダンサー・振付家)がヨーロッパツアーで合流し3人で出演するバージョン、カナダは渡航禁止区域なので、私と奥野さんは映像出演で、マリー本人がひとりで出演するバージョン、そして、劇場が閉鎖してしまったときのための美術館等でも映像を展示できるインスタレーションバージョン。

急遽、日本側から映像監督として太田信吾さんにプロジェクトへの参加をお願いし、アートセンターのホールで、舞台用の稽古と屋外での映像撮影を並行して行った。

野外での映像にマリーがつきっきりで関与することは難しいと考え、撮影は日本チームで進めた。

滞在制作も、中盤に差し掛かった頃、マリーが、「コロナ禍で国際協働制作をするということは、それぞれが『権力』を手放していくことだと感じ始めている」、と少し寂しそうに口にしたことが非常に印象的であった。

演出家としても、プロジェクトの総監督としても、メンバーにすべての指示を出せなかったり、どうしても「任せる」部分が増えていってしまうのは、非常に不安な経験だったと思う。

それでも、彼女が想像していたものと違うものが私たちから提示された時にも、常に、そこに生じた「取り違え」を受け入れ、振り回されることに寛容であった。

私たちも然り、「わかりあえない」ことのもどかしさを逆手にとり、徐々に自分らの「想像力」を駆使し、全力で「勘違いする力」でした解釈を作品として提示できることの面白さを得た。

マリーは、城崎でのレジデンス開始当初から一貫して、

温泉とか街の散歩とか地元のものを食べよとか、チームでエンジョイしてね!ということをしきりに言っていて、

最初、私はその一言一言に苛立っていた。

私は、創作をしにここまできたのであって、観光をしている暇はない!と異様に焦っていた。

レジデンス4日目から城崎・竹野地区での撮影が始まり、

アートセンターの外を出て、野外での撮影(創作)が始まったことで、すべての景色が変わった。

街から与えられるインスピレーションの力は際限なく、

豊岡という「場所」とカナダで生まれた「物語」がどんどん交差し、また別の何かに変容していくさまに夢中になった。

その日から、温泉も街の散歩も地元のものを食べることも一切厭わなくなる。

滞在制作9日目の日曜日、豊岡の文化政策に多大な意味をもたらすことになる豊岡市長選挙が行われた。

出身地のさいたま市でも、今住んでいる東京とパリでも味わったことのない緊張感を感じ、

祈るような気持ちで開票結果を待った。

思うようにはいかなかった選挙の結果を経て、さらには、兵庫県が緊急事態宣言を出し、最悪とも思われるコンディションの中、たくさんの出会いがあった2週目。

豊岡高校の高校生が、遠足の一貫で、生徒さんのひとりが自ら先生に懇願して、アートセンターと私たちのリハーサルを見学しにきてくれたり、

コロナ禍でアートセンターが閉館している中、大学の先生とアートセンターの連携のもと、豊岡市に開校したばかりの芸術文化観光専門職大学の1年生たちが、通しリハーサルを観にきてくれたり、

アートセンターが企画して、豊岡の高校生と対談したり、

温泉寺に撮影に伺わせてもらい、温泉寺と城崎の歴史をお話ししてもらったり。

そんな日々の中、創作への熱量がどんどん上昇し、結果として稽古も進んだ。

個人的に重要だったことは、初めて日本人の観客の前で、フランス語で演じたこと。

劇場にもそんなに行ったことがないと言っていた大学生たちが、

彼らにとっては、なんの意味ももたないであろうフランス語の台詞を、全神経をつかって感じてくれているという体感は心から愛おしいものであった。

今後、私の俳優人生にも大きく影響するであろうくらい素敵な時間だった。

もうひとつは、共演者の美和さんと休憩時間に鮮魚を買いにいったこと。

時差の関係で毎日朝8時から稽古をしていたのだが、昼休憩の時に、夜タイのお刺身が食べたかったので、

美和さんと往復30分かけて魚屋さんに行った。

私は、本来こういう時間を無駄だと考えてしまいがちだが、城崎での生活には、生活に手をかけるということが、今一緒にいる人たちを大切にするということにつながると思ってしまう力があった。

自分でいうのもなんだけど、城崎の滞在を経て、すこし優しい人間になれたと思う。

「移動の自由」とは、

どこにでも好きな場所にいけるというころではなく、

その場所に自分がいてもいいということを感じられる自由であると思う。

城崎に行くことができる自由というより、

城崎にいてもいいと感じられることの方がよっぽど自由があった。

いてもいいと感じられるためには、こちら側がまず「自分が今どこにいるのか」ということに歩み寄る必要がある。

温泉では、東京から来ていることをバレないようにしようと心がけていたが、

閉めようとすれば閉めようとするほど、溝は深まる。

温泉でおばちゃんに声をかけられて、自然に世間話して、「また来てね」と言われたり。

よそ者でも「あけっぱなし」にしているからこそ、適度な情報開示をする姿勢によって、不信感を抱かせない程度のちょうどいい距離感が生まれたり。

コロナ禍で、「移動の自由」を守っていくために、そこに暮らす人々と、そこにやってくる 人々の間に、今後たくさんの壁が待ち受けていると思う。

それでも、私には「移動の自由」が必要だと自信を持って言える滞在を経験した。(それは本当にKIACのおかげ。)

まだ、うまく言語化できていないが、「滞在制作」という機能を再考させられる滞在となったことへの感謝を、関わっていただいた全ての皆さまに送ります。

ありがとうございました。

同志、美和さんと。Photo by Bozzo

コロナ以前作品の再演、怖くないですか。

フランスで新型コロナ感染者が1000人単位で増え始めた3月中頃、

2ヶ月くらい日本に避難しようと、

絶対に虫に食われたくないカシミヤセーター2枚だけを持って、

飛行機に飛び乗ってから早半年。

ここ10年でこんなにも長期的に日本に滞在したのも、舞台から離れたのもはじめて。

でも、演劇とは公演も稽古もなくても、べったりな毎日を過ごしていた。

演劇創作ができなくても、演劇の最強っぷりに、日々感嘆していた。

ちょっと外から演劇を眺めてもみても、これまた最高。

角度を変えて、また眺めてみても、全く飽きない。

つくづくわたしは演劇が好きなんだと思う。

俳優業ができないことも全く苦ではなく、日々演劇のことを考える。

 

そして、本日とうとうフランスに帰るまで1ヶ月を切る。

10月から教職研修と『千夜一夜物語』再演ツアーが始まる。

ちなみに、現在のフランスの感染者数は鰻登り。

1日あたり5000人単位で感染拡大が続いている。

 

コロナ禍で毎日耳にしていたの言葉、

アルコール消毒、手洗い、ソーシャルディスタンス。

これ全部、『千夜一夜物語』の再演をする上で無理です。

出演者みんな最低一回はキスシーンあるし、

裸で床にみんな一緒になだれ込むシーンあるし、

めっちゃ近くで怒鳴りあったりするし。

作品のドラマツルギーにより、強固に構築された数々のシーンが、

コロナ禍の身体感覚の前で、音を立てて崩れ去っていく。

そもそも、フランスやスペイン、イタリアなど、ヨーロッパのラテン系の国で、

コロナがあそこまで蔓延したのも、身体の距離間のせいだと思う。

3月はじめに、フランスでも、もう頬と頬と合わせてキスする挨拶はやめようという動きはあったが、

実際は、ハグもキスもそんなに減ってなかった。

日本人にとって、室内で靴を脱ぐことをやめろと言われるぐらい、

習慣を変えるというのは一筋縄にはいかない。

 

わたしは、フランスで完全外出制限が出される前に日本に戻ってきたので、

コロナ禍では、日本の身体感覚でこの半年間を過ごしてきた。

この身体感覚で、上記の演技をすることは、

フィクションといえど、ハレーションが生じることは目に見えている。

脱げといわれたからすぐ脱げる、泣けと言われたらすぐ泣ける俳優を、

そもそもわたしは目指していない。

それがプロの俳優と定義される現場なら、それは危険だから、わたしはやらない。

コロナ禍で身体感覚は明らかに変わったのに、コロナ以前に創られた舞台作品を、「もう作品として出来上がっているんだからやれ」「はい、わかりました」という態度は、

演劇に敬意を示すならとるべきではないと思う。

わたしは「怖い」から、プロの俳優として、

演出家にも共演者にも、しっかり「怖い」と伝えるつもりだ。

だって、怖いよ!

この「怖い」気持ちを無視するのは、

演劇という芸術に携わるものとして、わたしは間違っていると思う。

 

「怖い」という気持ちは、少しの対話と信頼で緩和されることは、もう知ってる。

もしかしたら、みんなの顔を見ただけで、もう怖くなくなってるかもしれないんだけど。

 

 

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長い長い夏休み最後の休日。津久井の森にて。

 

 

「俳優の交換可能による憂鬱」撃退法

一ヶ月以上ぶりの更新になってしまいました。

今年は移動が非常に多く、先日2ヶ月ぶりに自宅に戻って、2日後にはまた地方です。

6月の後半は、パリからTGVで45分のランスという街で、

2週間のレジデンス。

なんとこのリハーサル、1年半近く先のクリエーション『千夜一夜物語』のためのもの。

今年の2月から月に3日くらいの頻度でリハーサルが行われ、

少しづつキャスティングが固まりながら、

第一回目の2週間の集中リハーサル。

初演は、なんと2019年秋。

劇場に付随するアトリエを貸し切っての2週間。

主役は、まさに俳優。

まだ、台本も完成していない状態なので、

朝から晩まで、俳優が主体となって、

テーマに沿った作品を創りまくる。

振付家、ミュージシャン、サウンドアーティストが、私たちと一緒に滞在しており、

なんでも協力してくれる。

例えば、歌を歌うシーンを入れたいと思ったら、

前日に、ミュージシャンの人にyoutubeの動画を送っておくと、

翌日、ピアノもしくは、こちらが指定する楽器で演奏してくれる。

まさに、パラダイスな2週間。

 

『千夜一夜物語』を軸に、俳優各々が、

自分の興味に沿って、原文と格闘しながら、

「自分」と「作品」を結びつけていく。

 

私は、大好きなラップと、地元の「浦和おどり」とを、イスラム圏文化と結びつけて、

自分的には大作を創った。

講演会というかたちをとって、「イスラム圏と女性」というテーマで、2時間にわたる壮大なレクチャーを繰り広げた俳優もいた。

レバノン出身の歌手の半生を、歌と一人語りで作品にしたり、

ヨーロッパにおける移民問題をテーマにインプロビゼーションで作品を作ったり、

あとは、「語り」の筋トレということで、物語をシンプルに語る練習もした。

まさに、毎日がスペクタクル。

 

2週間の間、演出家ともう20年以上も一緒に仕事をしている、

ドラマトゥルクの人も、リハーサルに参加しているのだが、

演出家が、半分冗談のように、でも、繰り返し言っていたことが、

「俳優全員がドラマトゥルクになったら、かなり心強い!」

とのこと。

 

以前、このブログでも、フランスの演劇教育において、

「俳優ひとりひとりが、自らの『演出家』となることを求められている」

ということを書いたのだが、

今回は、その一歩先の感覚。

「俳優ひとりひとりが、作品の『ドラマトゥルク』となることを求められている」

そもそも、ドラマトゥルクとは何か?

ドラマトゥルクを知るための、一番オススメの本は、もちろんこちら。

平田栄一朗先生の『ドラマトゥルク―舞台芸術を進化/深化させる者』

この本の発売当時、まだ、日本ではほとんど聞きなれない仕事であった、ドラマトゥルクの役割。

本の中では、このように紹介されている。

「ドラマトゥルクは、演目や企画をプラニングしたり、舞台制作の条件と環境を整え、新作の制作プロセスにおける一つ一つの結果を判断し、他のスタッフに引き渡していく。また制作の芸術的(さらには社会政治的な)意図を観客や社会に橋渡しする。」(14p)

今回のレジデンスで、私たち俳優に求められたのは、後半の部分。

「また制作の芸術的(さらには社会政治的な)意図を観客や社会に橋渡しする。」

ある芸術的素材(今回の場合は、『千夜一夜物語』)を享受する側になったとき、

個人的に、強く「響く」場所における、「芸術的(さらには社会政治的な)意図」を掘り起こし、他者と共有していくこと。

 

このような創作環境においては、

俳優は、「作品」および「自分」という素材を深く観察することが求められる。

「この役、私じゃなくてもできるんじゃないか」

これは、俳優なら、だれしも、一度は感じたことがある感覚だと思う。

これを私は、「俳優の交換可能による憂鬱」と呼んでいるのだが、

先ほどの「『作品」』および『自分』という素材を観察する」という作業には、

「俳優の交換不可能による優越」を生み出す可能性を孕んでいるのではないだろうか。

 

「俳優の交換不可能による優越」を手に入れた俳優は、正直、無敵である。

しかし、俳優が、プチ・ドラマトゥルクになるために、

絶対必要条件は、創作期間のゆとりである。

本番、一ヶ月前に、ドラマトゥルクになれと言われても、無論無理である。

おそらく、結果を求めない本稽古前の「プレ」稽古は、

俳優に「俳優の交換不可能による優越」を提供する可能性に満ち満ちている。

 

そんなこんなで、抱えきれないほどのプレゼントをもらったこの2週間で、

私の演劇熱は、さらにヒートアップしている。

 

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女優は、「中年」役を恐れるべからず。

一気に暖かくなった、パリを離れて、

アビニョン演劇祭に向けた稽古のため、Valenceに滞在しています。

CERTAINES N’AVAIENT JAMAIS VU LA MER

場所は、アビニョン「IN」の会場の中でも、1,2位を争う人気の場所。

CLOÎTRE DES CARMES

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外が暗くならないと、開演できないので、

開演時間は、なんと22時。

野外会場が多い、アビニョンのプログラムの中では、平均的な開演時間である。

 

初めての野外公演ということもあって、

常に、喉と声を心配しながら、リハーサルを行っている。

ここ2年近く、フランスでは、600席以上の規模の会場が多かったので、

だいぶ、発声も鍛えられたと思っていたところに、またまた落とし穴。

 

作品の中の一場面で、初めての母親役。

女優7人がメインの作品なのだが、

そのシーンに関しては、子供役3人と母親役4人でやることになっていて、

まさか、自分が母親役に配役されるとは思わなかった。

 

年齢的には、もう30歳なので、母親役が来てもおかしくない年なのかもしれないが、

ヨーロッパで暮らしていると、アジア人ということもあって、

若く見られて当たり前。

そのことを意識したこともないし、

「実年齢より、若く見られたい」などと意識的に思ったことなどないのだが、

どうやら、声と身体は、無意識に欲していたようだ。

 

まずは、自分は母親役ができるくらいの外見なんだというショック。

演出家には、声に重みがないという指摘。

 

フランス語の解釈の面で、もう困ることもないけれど、

いくら頑張っても消せないのが、アクセント。

このアクセントの方に、いつの間にか、引っ張られ、

声も、アクセントに合わせて、子どもっぽくなってしまっていることに気づく。

 

実際、今までは、役的にも、少女的な役を与えられることが多かったので、

それで通用してきたのだが、今回は、「逃げ道」という名の武器をまんまと封じられてしまった感じ。

 

同時に、自分が「実年齢よりも若い」役を、演じることが多いことに、

無意識に、女性として優越感を感じていたのではないか、と思うとぞっとする。

 

日本のテレビや雑誌で、特集されるような、

実年齢より若く見える、綺麗すぎる「美魔女」たちがもてはやされる世の中に、

いつのまにか洗脳されていたのかも。

メディアの力、恐るべし。

 

個人的には、日本を離れた時点で、

女優という職業上、

逃れられないであろう、「他人と外見を比べる」という呪縛からは、

逃れたと自負していたのだが、

年齢に関しては、人種は関係ない。

 

年とともに、外見も変わっていく。

 

女性のいつまでも若く見られたいという願望は、

女優にとって、実に厄介なものである。

 

外見を武器にしていない女優であっても、

「中年」の役を楽しめない限り、

女優の生き延びる道はないからである。

 

まさに、その転機となるのが、30代前半であると、苦くも、実感する日々である。

20代の役の倍率と、40代の役の倍率、どちらが高いかなど、比べるまでもない。

俳優として生きていくことを目指す、若い才能は、掃いて捨てるほどいるのが現実である。

 

「中年」の役を楽しめるか。

ここ数日ずっと考えていたのだが、

それは、「重力」を楽しめるか、

ということのではないかという気がしてきた。

20代にはない、身体の重み、声の重み、そして、人間の厚み。

これらの「重力」を、少しづつ感じられるようになってきたところで、

ようやく、声のトーンが、子供っぽいアクセントに引っ張られることなく、

緩やかに、緩やかに、下降していく。

 

正直、20代の頃と比べて、

「失った」と感じてしまうことだってある。

変わりなく生活しているようでも、

身体は丸くなるし、

顔にシワもできる。

でも、やっぱり「中年」の役を演じるために必要な、

この「重力」を手に入れたいと思う。

そして、おそらくこの「重力」と同時に期待するのが、

「静のエネルギー」

 

若い頃は、なんでも、元気が一番。

オーディションでも、声が大きくて、明るい子は、

決まって好印象。

 

私が、好きな「中年」の役が演じられる女優たちが持っているのは、

「静のエネルギー」

舞台の上に、ぽーんと「沈黙」を投げ込むことだって厭わない。

空間全体を包み込むようなエネルギーが、

温度となり、地を這り、

観客を、彼らの足先から捕らえていく。

 

俳優の身体は、

商売道具。

そして、なんといっても、可塑性に優れている。

だから、「現在」の自分の身体を、商売道具として使いこなすために、

精神のアップデートを常に求められる。

年をとるだけ、

アップデートした回数も増える。

「失う」ものは何もない。

 

幸せなのは、「中年」を演じることのできる素敵な女優たちに囲まれて仕事をしていること。

だから、私も、早く「中年」を演じられるようになりたいと思える。

つまり、「中年」かっこいい!と、若い世代に思わせるような女優を目指さないと。