アレクサンダー・エクマン「Play」世界初演@パリ・オペラ座ガルニエ宮

2017年舞台芸術ベストワンは年末に観た、アレクサンダー・エクマンの最新作「Play」

https://www.operadeparis.fr/saison-17-18/ballet/play

今回オペラ座が新作を託したのは、なんと33歳のスウェーデン出身の振付家、アレクサンダー・エクマン。年齢に反して、そのキャリアは長く(2006年以降、すでに30作品以上の創作を行っている)、すでに、北欧を中心に毎回旋風を巻き起こしている彼だが、オペラ座の観客には、名前すら聞いたことがないという人たちも多かったようだ。

幕が上がる前に、タイトルバックが幕全体に投影され、一瞬にして、普段の見馴れたオペラ座の雰囲気を払拭する。音楽は、エックマンがすでに何度もコラボレーションをしている作曲家ミカエル・カールソン。オーケストラは、舞台後方に位置するので、ダンサーはオケピットまで張り出した広大なアクトスペースを与えられる。振付家自らが担う舞台美術も洗練されている。白い床に、上空から吊り下げられたいくつもの巨大な白いキューブ。影が細かく計算された照明も、緻密だ。普段着に近いような白い衣装を身につけた36人のダンサーたちが、ダンスの先生役のダンサーの振りをなぞるように、踊っている。

 

 

 

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©Ann Ray / Opéra National de Paris

 クラシックバレエからは程遠い、モダンダンスとも違う気の抜けたダンスは、奇妙に優美で居心地がよい。ダンサーたちは、それぞれの真剣さで、振り写しを続ける。一人のダンサーがいきなり子供のように駆け出したかと思うと、それに伴い36人全員が走り回り、舞台奥に均等に間を空けて、設置されたいくつもの扉をあけて、退場する。今度は、ひとつの扉から列になって、ダンサーたちが再度はしゃぎながら現れる。パーティーで聞こえてくるような、奇声をあげながら、一人の女性ダンサーを胴上げする。

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このような、一種の「遊び」の断片が続く。断片は、断片であって、決して、何かを物語ることはなく、ましてや、観客ひとりひとりの子ども時代の「遊び」の記憶を想起させることを強要することもなく、淡々と進む。何よりも、一番楽しんでいるのは、ダンサー自身のように見える。普段は、精神的にも、身体的にも、様々な制約に縛られながら、オペラ・ガルニエの舞台を優美に舞うダンサーたち。彼らの無邪気な一面を垣間見ているというこの特別な時間に、観客たちは、彼らと秘密を共有しているかのような錯覚に陥る。そして、公演序盤で生まれたこの奇妙なコンプリシテは、子どもたちだけの、大人には絶対に言ってはいけない、閉ざされた「秘密基地」的感覚をますます色濃くする作用を担っているように感じられる。

次にあらわれたのは、マイクとトーシューズのダンス。女性ダンサーのステップに合わせて、マイクで床を叩き、音を作り出す男性ダンサー。男性ダンサーの、時に翻弄され、時に、先読みしてしまうタイミングが絶妙。

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この白いキューブたちは、このあと、何回も形を変えて、登場することになる舞台装置である。

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©Ann Ray / Opéra National de Paris

突如として、幕から悲鳴にも近い笑い声が聞こえたかと思うと、男女のデュオ

が、笑いが止まらないまま、抱き合ったまま床を転がりながら登場。衣装も、女性ダンサーの部屋着のような黄色いトレーナーに、男性ダンサーの裸体と、親に隠れて、声を押し殺しながら性の目覚めを止めることができない思春期のカップルを想起させる。

このような、シンプルでかつコケットリーをふんだんにちりばめた「遊び」のシーンが連なった第1幕の最後の山場となったシーンは、緑の雨。

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緑のボールが降り続けるなか、ダンサーたちは、ボールを蹴散らす音を響かせながら踊る、踊る、踊る。この雨は、実に2分以上続くのだが、体感では永遠のように感じられるので、途中で観客は思わず拍手、そして、歓声は、雨が降り止むまで続く。緑色に埋め尽くされた舞台上を駆け回るダンサーたち。ラストは、横一列に並んだダンサーたちが、トンボ(整地用具)を手に、叫びながら、舞台後方から前方に向かって緑のボールを押し出す。これを数回繰り返すと、オケピットは見事に、緑ボールのプールと化す。

そして、幕間。緑のプールを残したまま、いったん幕が閉まる。

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2幕はこの緑のプールの中で始まる。ダンサーは、膝上まで完全に緑のプールにつかり、足の自由を奪われた状態に余儀なくされる。すべての動きに制限が加わり、前半スムーズに交わされていた、他者との身体的コミュニケーションも一気にぎくしゃくとし始める。まさに、第2幕のイメージは、「遊び」の終焉。第1幕で、ダンサーたちに「遊び」のアイディアと、空間の可能性を際限なく与え続けた優れた舞台装置が、かたちを変えることなく、一気にダンサーたちの体に負荷を与える障害物と化す。それらの制約の中、ダンサーたちは、閉じられた蓋をこじ開けることなく、淡々と美を追求するのである。衣装も、黒を基調とした、クラシックなものに変わり、会社で働く人たちのドレスコードを喚起させる。プログラムに引用されていたエックマンの文章、「考えすぎる者は遊ばなくなり、遊びすぎる者は考えなくなる。」 大人になってからの、人間と「遊び」との関係をうまく言い表した文章である。クリスマス・イブに観劇したためか、終演後は公演でつかった大きなバルーンを観客に投げ込み、観客の心を完全に虜にした緑のボールをガルニエ中の客席にプレゼント。最高のクリスマスプレゼントとなった。

FTA: METTE INGVARTSEN『7 Pleasures』

ある日の電車の中。ガタンゴトン、ガタンゴトンという一定のリズムに揺られている。

唐突に、となりに座っているいた人が音もなく立ち上がり、

服を脱ぎ始めたらどうするか?

驚いて、あたりを見回すと、

斜め前の座席に座っていた人も立ち上がり、彼もまた徐に服を脱ぎ始める。

そして、すっかり全裸になるとまた座席に座りなおす。

 

デンマーク出身の振付家Mette Ingvartsenの『7 Pleasures』は、

例えるなら、まさにこのように幕を開けた。

http://fta.ca/spectacle/7-pleasures/

 

モントリオール初演となるこの演目は、2015年に初演を迎え、

すでに、ダンス界では一目置かれるリパートリー作品となっていた。

数年前から、私の舞台芸術版『観ずに死ねるか!』リストに入っていた作品である。

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FTAでの初日、もちろんチケットは完売。

当日券の列ができている。

この日にモントリオール入りして、チケットのなかった私に天使の手が現れる。

会場に行こうと道に迷っていたところに、声をかけてくれたフェスティバルスタッフが、

チケットの世話までしてくれ、どこからか入手してきた。

海外で路頭に迷っていると、いつだってどうにかなるから不思議だ。

 

開場は開演5分前。

客席への扉が開かれる前から、

深夜のクラブを思わせる音楽が漏れている。

 

爆音が鳴り響く中、客席へ。

舞台には、洗練された家庭のリビングを思わせる家具が置かれている。

 

客席がいっぱいになり、

爆音の音に負けずと、談笑を続ける観客たち。

そろそろ開演かなと思う間も無く、

同列に座っていた男性が、徐にたちあがり、滑らかに服を脱ぎ始める。

あまりの自然さに、ただただ目が点。

客席前方に視線を移すと、すでに別の女性が、トップレスになっていて、

まさにズボンを脱いでいるところだった。

同列の男性に視線を戻すと、

すっかり全裸になって、また何事もなかったかのように、

私たち観客たちと一緒に座っている。

私の周りに座っていた高校生ぐらいの女の子のグループは、

視線のやり場に困りながら、

他にリアクションの仕方がわからないといった様子で、

互いに顔を見合わせながらくすくすと笑いあっている。

数分後、ようやく、観客が、

パフォーマンスがすでに「開演」していたことに気づいたころ、

彼らは、また立ち上がり、観客の間を縫って、客席から舞台に向かう。

性器丸出しの男性に、席をたって、(思わず下を向いてしまいながら)通り道をつくってあげた経験は、

未だかつてなかったと思う。

さっきまで、舞台上ではなく、自分たち観客と同じ空間にいた、

12体の裸体が、舞台の上で、重なり、離れ、そして、また群れとなり移動していく。

 

60 年代、すべての人間が所持している「身体」は、

なによりも政治的な存在であった。

この政治的発言権を持つ「身体」を使って、

新しいコミュニティの形を提示することは、彼女にとって必然であった。

 

そして、現在、政治とセクシュアリティ、政治と身体、そして、裸との関係は、さらに複雑なものに変化していると語る。

資本主義社会において、私たちの身体は、身体そのものというよりも、身体が与える「イメージ」がどのように「生産」されるかということにその存在を左右される。

例えば、セクシュアルなイメージを付加された身体を用いた広告で、性的欲求を誘発することは簡単なこと。

この作品において、彼女がうたいたかったことは、

社会において定着してしまった、「身体」のイメージの修正である。

 

難しい話はさておき、

舞台芸術作品の「始まる」瞬間、

つまり、観客と作品、二つの空間が「融合」をし始めるその瞬間が、

いかに重要かということをアーティストとして再認識させられた時間だった。

 

舞台芸術に関わるアーティストは、客入れ、そして、舞台の始まりを彼らが客席で待つ時間、そこまでオーガナイズできる権利を持っている。

もちろん、その権利を行使するかしないかは、アーティストの自由として。

 

少なくとも、自分と同じ立場、もしくは、空間を、その他複数の人間とともに共有していたひとりが、

ある瞬間に、「服を脱ぐ」という特殊な行為を行ったことで生じた「違和」は、

上演中、消えることは一度たりともなかった。

 

少なくとも、あの瞬間、

客席は、「フィクション」を享受するというお約束のもとに、守られた場所ではなくなっていた。

電車と同じくらい、日常でありながら、

少しでもおかしなことが起きた途端にその均衡は崩れてしまう可能性を秘めた、実に不安定な空間であった。

このようにデザインされた空間に立ちあえるということは、

舞台芸術という分野でしか、味わうことのできない最高のご馳走である。

 

 

鈴木忠志×ピナ・バウシュ:勝手に掛け算されるパリの夜

先週末は、
久々にインプットに全力を注いだ。
来週、本番なので、
当初、週末も稽古を予定していたのだが、
演出家の都合で、
急遽、稽古がキャンセルになったので、
完全完売のピナ・バウシュ舞踊団の公演のため、
3時間半かけて、
パリへ、上京。
20時半からの千秋楽に向けて、
少なくとも3時間前には当日券に並ぶ必要があるので、
昼間は、エネルギーを温存。
ずっと観たかった、
先月23日にゲンロンカフェにて行われたイベント、
鈴木忠志氏と東浩紀氏の対談を、
ニコニコ動画で拝見。
鈴木忠志 × 東浩紀 テロの時代の芸術 ──批判的知性の復活をめぐって
ゲンロンカフェのイベントは、
ほぼすべて、期間限定でネット配信されているので、
海外からもアクセス可能。
対談は、3時間にも及んだのだが、
最初の30分から、
度肝を抜かれまくりで、
メモを取るためと、
頭を整理するために、
動画を、何度も一時停止することなしには、
決して見終えることはなかった。
自分の才能とか、可能性なんて抜きにして、
年を重ねれば、重ねるほど、
「演劇」という芸術媒体の可能性を信じることなしに、
続けることは、不可能になってきていて、
特に、私の場合は、
あと、1年は学生の身なので、
演劇に、利益を求めることなく、
全力投球することも、
時として、無性に恐ろしくなることがありました。
昔、付き合いたての恋人に、
どうして演劇やってるの?と聞かれ、
レボリューション、と答えたことを覚えている。
全く演劇に興味のなかった彼は、
以外に、へー、そうなんだ、と真剣に受け取ってきたので、
「国会も、たくさん人が集まるし、
劇場も、たくさん人が集まるでしょ。
だから、革命できるの。」
と、真面目に続けた。
本当に、あの頃は、
なんの疑いもなく、
演劇が政治と同じくらい、
社会において、力を持っているのだと、
確信していたのだと思う。
そして、
いつのまにか、
演劇を続ければ続けるほど、
どうして、演劇を続けたいのか、
ではなく、
どうすれば、演劇を続けていけるのか、
ばかり、考えていた気がする。
今年75歳になる、
演出家、鈴木忠志氏は、
東氏との対談のなかで、
どこまでも軽やかに、
かつ、一点の曖昧さを残すことなく、
演劇を続ける理由を言ってのけた。
まずは、文化人として、
文化を扱うことが、
社会を考えること。
むしろ、社会を考えるために、
演劇という媒体を選択したそう。
言葉、身体、集団という、
三つの大きな特性を持ったこの芸術は、
社会の中の、
見えてない部分を、
浮き彫りにする手段として、
最も優れているのではないか。
そして、
中でも特に、
印象的だったのが、
「文化」と「芸能」と「芸術」の違いについて。
「文化」は、同じ共同体の中にいる人たちが共有するもの。
同じ価値観を共有していくための教育的側面が大きい。
「芸能」は、同じ共同体を共有する人たちの間で行われる娯楽。
共益のために成立する。
そして、
「芸術」は、異質な価値観を持っている人に対して、
これは、大事なものだと説得する力を持っているもの。
共同体を共有しない人たちに対して、
対話を成立させ、
新しい可能性へ一歩踏み出すこと。
それって、まさしく、
国会を通り越して、
首脳会談に近い影響力を持っているではないか。
私のバイブルと化した、
ニコニコ動画を見終えた直後から、
ピナの当日券のために、
友人とthéâtre de la villeに直行。
3時間前にもかかわらず、
すでに、ふたり並んでいて、
自主的に、当日券リストを作っている。
PINA BAUSCH TANZTHEATER WUPPERTAL
FÜR DIE KINDER VON GESTERN, HEUTE UND MORGEN (2002)
[For yesterday’s, today’s and tomorrow’s children]
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開演時間を5分過ぎた頃、
当日券が数枚発行され、
なんと、5列目で観劇。
3時間に及ぶダンスを、
身体全体で感じながら、
頭では、鈴木忠志氏の言葉たちが、
目の前にいるダンサーたちよりも、
さらに激しく踊っていて、
肌の内側でも、これが「芸術」なのかと感じ、
肌の外側でも、これが「芸術」なのかと感じ、
完全に飽和状態に陥り、
気づいたら、涙が太ももに溢れた。


客席で、
自分の時間と、
舞台での時間が、
全く別々に流れつつ、
シンクロするような体験は、
本当に久しぶり。
翌日、
また、3時間半かけて、
モンペリエに戻る。
そして、
今日からは、
「文化人」ではなく、
「芸術家」として、
続けるための演劇ではなく、
社会の中で、
胸を張って生きていくために、
それでも、演劇が必要なら、
私は、演劇を続けていくのだろう。
それにしても、
センスという言葉は、
ラテン語の「sentīre」(感じる)という単語が語源になってるそうだけれど、
だとするなら、
ゲンロンカフェという場所の「センス」には感歎。
この「場所」から、
これから、どんなものが産み出されていくのか、
目が離せない。

モンペリエ・アート・ナウ/『マタドウロ(屠場)』

9月より、新ディレクター、ロドリゴ・ガルシアが就任した、
モンペリエのCDN(Centres Dramatiques Nationaux/国立演劇センター)、
その名も『humain TROP humain』に行ってきました。
http://www.humaintrophumain.fr/web/
アルゼンチン生まれの演出家、ロドリゴ・ガルシアは、
2010年、フェスティバル/トーキョーにて、来日。
『ヴァーサス』という作品を日本でも上演しています。
ちなみに、この劇場の名前は、
1878年に書かれたニーチェの著書、
『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches)からきています。
そんな堅苦しい劇場名とは裏腹に、
中に入ると、
完全にクラブ仕様。
エレクトロ・ミュージックが、がんがんに流れていて、
受付でチケットを受け取るときも、
割と大声を出さないと伝わらない。
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毎回、終演後には、
ロビーに設置されたDJブースで、
コンサートが行われるそう。
そんな、「イケイケ」な劇場に生まれ変わった
『humain TROP humain』で観た作品は、これ。
ブラジル人振付家、MARCELO EVELIN(マルセロ・エヴェリン)
Matadouro『マタドウロ(屠場)』
なんと、この作品、
2011年の京都国際舞台芸術祭『KYOTO EXPERIMENT』招聘作品でした。
2013年にも、同フェスティバルにて、
『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』
という新作のため来日している。
それにしても、国内・国外問わず、
このフェスティバルのプログラムは、
要チェックだと思う。
『マタドウロ(屠場)』は、
簡単に言ってしまえば、
顔にマスクをつけて、
のこぎりを身につけた人たちが、
1時間、全裸で、
輪になって走り続けるというもの。
さて、コンセプチュアルなアートとどう向き合うか。
果たして、コンセプトを完全に理解する必要があるのか、否か。
この作品には、
決して、コンセプトを強要することなく、
単純に、劇場を後にしたあとに、
もっと知りたい、
もっとこの作品と一緒に過ごしたい、
と自発的に思わせる強度があった。
この強度を持った作品だけが、
アートにおけるコンセプトを、
享受する側に、
出会わせる可能性を持っているのだと思う。


この作品は、
ブラジル人にとって重要な作家のひとり、
Euclides da Cunhaの『Os Sertões』という小説をもとに創られている。
この小説は、『地球』『人間』『戦争』の3部作からなっており、
エヴェリンもトリロジーとして作品を創った。
つまり、今回の『マタドウロ(屠場)』は、『戦争』の部分に属することになる。
彼は、「戦争」(war)というよりも、「戦い」(battle)を、
いかに舞台にのせることができるかを考えたという。
ただ、「戦い」そのものを、再現することはしたくなかった。
当時、彼が影響を受けていたのが、
ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)という、
イタリア人哲学者による、
アウシュヴィッツにおける身体の記述である。
「身体は、耐えることしかできない。」
この思考から、
彼は、どこまでも身体的な「戦い」を、
舞台の上に、60分かけて浮き上がらせることに成功したのだと思う。
最後に、
60分間走り続けた身体たちは、
マスクをとり、
観客とはじめて対峙する。
静寂の中に響き渡る、
彼らの呼吸。
これこそ、
ジョルジョ・アガンベンがいう「剥き出しの生」の正体だ。
「生」というものは、ギリシャにおいて、
「ゾーエー」と「ビオス」と表現されていた。
前者はただ生きているということを表し、
後者は個体や集団として形をもった「生き方」を表していた。
そこで、アガンベンは、
「ゾーエー」を「剥き出しの生」、
「ビオス」を「生の形式」と呼ぶ。
「剥き出しの生」とは、まさに、
社会から排除された人間たち、
つまり、収容所である。
そこでも、人間に身体は、
悲しくも、
美しくも、
耐えることしかできない」のである。
舞台における身体というものを考えてみたとき、
恐ろしくも、
彼のいう「剥き出しの生」に通じるものがあると思う。
このある種、保護(人権)がない状態で、
危険に晒されている「剥き出しの生」。
この状態は、
脆く、危うい。
だからこそ、
時として、
圧倒的な美を伴う。
ちなみに、60分間流れていたのは、
シューベルトの曲だった。
恥ずかしながら、私は知らなかったのだが、
フランツ・シューベルトは、オーストリアの作曲家なので、
ヒトラーの肖像を喚起する目的で、選んだという。
ブラジルの民族音楽を使うことももちろん可能だったが、
自国の歴史をテーマとして扱っているからこそ、
ユニバーサルな場所にあえて、持ち込む必要があったのだという。
学生ながら、
自分の作品のマーケットを
世界規模で捉えてるアーティストは、
この辺のところが違うな、と頭が下がった。
エヴェリンのインタビュー最後の言葉。
「これは、
身体の戦いであり、
実存の戦いであり、
そこに、
アイデンティティーは介在しない。」
アイデンティティーが存在しないところに、
人間の本当の痛み、
そして、
苦しみが浮き彫りになるのかもしれない。
上演時間は、1時間5分足らずだったが、
この作品は、
自発的に、さらに3時間、
私の中で、延長していたので、
随分と、長い作品を観た気分である。

90分間の涙の末に、「孤独」に関する覚え書き。

一粒の砂に世界を
一輪の花に天界を見る
一掌のなかに無限を
一瞬のなかに永遠を抱く   
      ウィリアム・ブレイク

私の大好きなミュージシャン、パティ・スミスも敬愛していた、
イギリスの画家であり、詩人のウィリアム・ブレイクの詩の一節。
(William Blakeの詩集「ピカリング草稿」から「無垢の予兆」Auguries of Innocence)
今日は、こんな体験をして、
なかなか眠れそうにない。
地元埼玉ご自慢の、
蜷川幸雄氏率いる平均年齢75歳のカンパニー、
さいたまゴールド・シアターと、
ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団のダンサー瀬山亜津咲さんによる、
ダンス作品 『KOMA’』
http://saf.or.jp/arthall/stages/detail/1326
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支援会員でもある、
彩の国さいたま芸術劇場で、初日を観に行ってきました。
開始2秒後から、
言葉を用いない、
身体の「ただここにいる」力に、
頭の中は、
イメージの氾濫。
もう、そこから、
ラストまで、涙が止まらなかった。
毎日のように泣いていた、
フランスでの演劇生活から、一変。
おだやかで、
心地よい刺激を受けてきた、
日本での夏休み。
そんな8月分の流さなかった涙を、
ここで一気に使ってしまったよう。
開演と同時に、
平均年齢75歳の身体が歪ませる、
時間の尺度。
私たちの知らない、
彼らが歩んできた、
長くて、
短くて、
複雑で、
単純で、
愛おしい時間。
今年の1月に受けた、
フランシス・ヴィエのスタージュを思い出す。
フランシス・ヴィエは、瀬山さんと同じ、
ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団のダンサー。
(過去のブログ記事:ピナ・バウシュの魔術師ダンサーによる魔法ワークショップ
ちなみに、ピナ・バウシュの仕事に関しては、
これも、以前ブログで取り上げたのですが、
池澤夏樹さんが素晴らしい言葉で、
表現しています:池澤夏樹×『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』
衣装も、
髪型も、
化粧も、
そして、
ダンスも、
一カ所だって、
同じところはない。
20人のダンサーによる、
20通りの身体。
先日、ブログの表紙をかえました。
中国出身でありながら、
フランス国籍を取得し、
自由を求めて戦った人、
創作を続けた作家、高行健の言葉、
「孤独は自由の必要条件である」
彼らのパフォーマンスは、
こんなにも、
おかしくて、
自由で、
グルービーで、
それなのに、
90分間、
人間が孤独であるということを、
確認させられた作品はないと思う。
どんなに、寄り添っても、
どんなに、近くにいても、
どんなに、想っていても、
人の痛みは、
代わってあげることなんてできない。
冬の寒い日、
ぬくぬくしたお布団の中。
どうしてもトイレに行きたくて、
トイレに行くという母に、
よく言っていた一言。
「私の分も、一緒におしっこしてきて。」
どんなに、可愛い我が子でも、
代わりに、
おしっこしてあげることはできない。
舞台上で、
くっついたり、
はなれたり、
呼ばれたり、
見守られたりする、
複数の身体。
それらは、
そこにどれだけの優しさが介在していようと、
決して、
同化することはない。
「孤独は自由の必要条件である」
私たちは、
もう孤独なの。
生まれた時から。
ただ、それを、
知ることで、
自由になるの?
たくさんの素敵な言葉を用いて、
マイクを奪い合いながらの、
自己紹介のシーン。
ひとりのダンサーの言葉。
「私の名前は、『自由』です。
 ずっと、『自由』になりたいと思って生きてきたから。」
『自由』だから、
『自由』と名乗るのではなく、
『自由』じゃないから、
『自由』を求めてきたから、
『自由』と名乗ること。
なるほど、
所有しているものより、
ほしいものを語ることの方が、
100倍魅力的だ。
彼らの身体の説得力、
そして、たのもしさと言ったら、
言葉の数万倍のパワーを持っていて、
それらは、
今年の7月まで、
パリのGrand Palaisでやっていた、
Bill Violaのエクスポジションを想起させる。
Bill Viola@Grand Palais, Galeries nationales

性別を超えた、
人間としての身体の美しさ出会ったのは、
ビル・ヴィオラ(Bill Viola)、
そして、
これまた、パティ・スミスが愛した写真家、ロバート・メイプルソープ(Robert Mapplethorpe)に続いて、
まだ、3回目。
彼らの、
皮膚は、
宇宙の表皮。
永遠と、
唯一つながれる力を持っている、
一粒の砂だ。
私たちは、
孤独。
だから、
他人の痛みを代わってあげられなくて、
当たり前なの。
でも、
それでも、代わってあげたいって想うから、
今日も、
あなたに会いに出かけていくのよ。
ただ、それだけ。