性描写と女優、容姿と女優、老いと女優

フィードバックが遅くなってしまいましたが、3月はさまざまな場所で「演技指導を一切行わない演劇ワークショップ」をやらせていただきました。最近、ワークショップのタイトルでよく使っている「ちょっとだけ“めんどくさい”俳優になる演劇ワークショップ」ですが、この「ちょっとだけ“めんどくさい”俳優」を目指すきっかけとなった出来事をまとめたいと思います。

現在は、ジェンダー平等やクイアの視点から、各国で「女優」という言葉を排除する動きがありますが、俳優の商売道具が、自分の身体である以上、身体が持つ性別と自身のアイデンティティをなかなか切り離せない現実があると感じます。私が、女性の身体を持っていることで出会った数々の困難や気づきは、やはり、フラットに「俳優」という言葉では語り尽くせないところがあるので、あえて「女優」という視点から、「性描写」「容姿」「老い」というテーマで、なぜ俳優(特に女優)が、ちょっとだけめんどくさくならないといけないと思うかを書きます。

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『性描写と女優』

90年代のお茶の間で、思春期を過ごした私は、フェミニストというと、男性に嫌われるような、ちょっとめんどうくさい気の強い女性を想像しがちであった。ちなみに、フェミニズムの起源は、演劇学校の卒業公演で扱った作品、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』の時代背景、フランス革命までさかのぼる。1991年『人権宣言』に対抗し、フランスの女性作家であり女優のオランプ・ド・グージュが『女性及び女性市民の権利宣言』を発表している。つまり、フェミニズム運動の先駆者は、女優であったのである。そして、この事実を私は、声を大にして叫びたい。

私は、『ダントンの死』という戯曲の中の、女性の役の中で、唯一、2ページにわたるモノローグがある役、高級娼婦「マリオン」を配役された。(今だったら、そもそも、革命や戦争を題材にした戯曲は、男性たちのために書かれているようなものなのだから、そんな戯曲を卒業公演に選ぶのはどうなのかと問いたい。)演出家は、この役に特別な思い入れがあるらしく、稽古がはじまってそうそう、この娼婦が、主役の男性「ダントン」にオイルマッサージをしながら、モノローグを語っているイメージがあると言った。

言葉もろくに喋れない、いつも引っ込み思案な私が、開口一番、「嫌です」と言ったので、演出家は絶句。

ドラマツルギーにおける検証が一切なされない、ビジュアル重視のセクシャルなシーンは、俳優、特に女優にとって非常に危険である。極端な例で言えば、男女の濡れ場があったとして、その行為をどこまで舞台の上で見せるか(もしくは、行為に及ぶか)ということは、再現芸術において根本的問題である。例えば、映画の場合、納得のいくシーンが撮れたらそこでおわるが、演劇の場合は、そこから始まる。稽古場では、「再生可能な」システムを探していくことも俳優の重要な仕事の一部である。脱げと言われたから、脱いで、抱き合えと言われたから、抱き合っていたら、連日に及ぶ公演で、精神的にも、肉体的にも、追い詰められることは間違いない。観客が、俳優に対し、「人前でよくあそこまでできるなあ」と思ってしまうようなシーンこそ、そのアクト(行為/演技)を水面下で支えられるような、徹底的なドラマツルギー的根拠が必要。俳優の仕事の半分以上は、創作過程に必要不可欠な「コミュニケーション」に凝縮されているといっても過言ではない。共演の俳優と時代背景も踏まえ、テキストを徹底的に読解し、その上で、最終的にマッサージよりも過激な性描写を提案した。演出家も、私たちの提案に対し、ディスカッションをひらいてくれたので、セクシュアルな「行為」そのものが浮き出てしまわないようなシーンを構築することに成功。ちなみに、古典戯曲において、女性の役は、主人公、つまり、男性の妻、もしくは、愛人であることがほとんど。必然的に、男性に付随するような役が女優に与えられる可能性が高くなる。この現実の中、女優は、俳優である以上に、女優であることを、意識していく必要があるのではないか。どんな美しさも醜さも消費されてはならない。


『容姿と女優』

 渡仏当初、オペラ座にて、出演者がほぼ全員裸のワーグナーのオペラを見て以来、観客としては、舞台芸術における「性」というものの見方が随分変わって、今では、そんなに驚くこともなくなってしまった。しかし、だからこそ、俳優としては、日常からはみ出た部分、つまり演出家からの自身の身体への親密な要求にこそ、慎重に、かつ、尊厳をもって答えていくことが必然だと感じる。

 これまた、性的なシーンが多く存在するピエル・パオロ・パゾリーニ作品を創作した際、ある演出家は、初回の稽古で、役者がセクシュアルなシーンを演じる上で、最も美しいものは「la pudeur(羞恥心)」である、と言った。それは、自分の下着姿を見られることだったり、他の俳優とキスしているところを見られることだったり、本来親密な他人以外の目に晒すものではないアクト(行為/演技)に、きちんと「恥ずかしい」と感じられること。セクシュアルなシーンが、舞台芸術において難しいのは、観客席という完全な「公」的空間と、俳優が舞台に持ち込まざるを得ない究極の「私」的空間(身体)との、温度差によるものだと思う。この温度差から生まれる「la pudeur」に、自然に付き添って創作していくことが、私にとっては初めてのことで、8ヶ月間かけて、徐々に受け入れて、そして、楽しめるようになったのが全裸のシーン。つまり、お風呂でも、舞台の上でも、「私の体は、私のもの。」
 当時、クラスで話題になっていたのが、欧州各地で行われていたトップレス・デモ「国際トップレス聖戦の日(International Topless Jihad Day)」。このデモは、ウクライナの女性権利団体「FEMEN」の呼びかけで起こったものである。そもそもの事の始まりは、19才チュニジア人女性アミナ・タイラー(Amina Tyler)さんが、facebookで「私の体は私自身のもの。誰かの対面のためのものではない」と、上半身に書いて、裸体をネット上で公開した。彼女の両親は、彼女の行為を恥じて、彼女を1ヶ月以上監禁し、さらに、イスラム教指導者は、ファトワー(宗教的訓令)を発し、彼女に死刑を宣告した。

「私の体は、私のもの。」
毎日見ている、洋服の下にある自分の体。この体は誰のものか。どんなに大きな権力や、たくさんの視線に晒されても、決して、自分の身体の所有者であることをやめないこと。宗教を超えて、役者が舞台上で、服を着ていようが、裸だろうが、自分の身体を「晒す」という行為に、大きな可能性と権力、そして、同じくらい大きな責任を感じる。

 さらに、突っ込んでしまえば、裸云々の前に、女優と切って切り離せないのが「外見」である。世の中には、さまざまな容姿の人がいるように、フィクションの世界にも、さまざまな容姿の人が必要。とは言っても、実際のところ、俳優という職業において、容姿が重視されやすいことには間違いない。ダイバーシティーと慰めてみても、見た目がものをいってしまう現実がある。そして、日本人以上に、フランス人の外見は異なる。俳優の履歴書には、身長、体重のほかに、目の色、髪の毛の色と質を明記するのが当たり前。肌の色だって、さまざま。そして、フランス演劇界における俳優の容姿というものは、日本以上にデリケートなものがある。人種的な容姿の問題も介入してくるのである。特に、古典の場合、肌の色によって、ドラマツルギー的に演じることができない役があるという価値観もいまだに存在する。例えば、1680年から続くフランスの王立劇団コメディー・フランセーズには、古典を演じるにあたって、黒人俳優枠というのが現在も存在する。そして、アジア系の俳優はいない。

 これらをふまえて考えると、舞台における「外見」というものは、ある種「記号」的なものに変換されるのではないか。例えば、二枚目俳優、三枚目俳優という言葉は、歌舞伎からきているが、二枚目俳優が必ずしも、美男子だったかというとそうでもないらしい。歌舞伎特有の化粧法、隈取は大きく分類しても50種類ほどあるという。隈取は、「描く」ではなく、「取る」と表現されるように、遠くから見てもはっきりわかるように筋を指でぼかす。女方を演じる俳優からもわかるように、どうやら、「美人」は生成可能のようだ。ここで私がいいたいのは、歌舞伎の化粧、身のこなし方からもわかるように、ずばり、舞台における「美人」とは、実際に「美人」である俳優のことではなく、客席から「美人に見える」俳優のことを指すのではないかということ。巷では、「雰囲気美人」という言葉があるそうだが、まさに、舞台、特に、古典作品には、この「雰囲気」というものが欠かせない。

 実際、私が、『ダントンの死』で演じた、高級娼婦マリオンの役も、いわゆる「美人」要素が必要な役。はっきり言って、髪の毛が長いことと、身体の線が他の人と比べて細いということだけで、配役されたようなものだと思う。あとは、身のこなし、特に手の動きで、美人じゃなくても、記号的「美人」のできあがり。俳優、特に、女優にとって、自らの容姿との関係は、極めてデリケートである。「美しさ」の定義を、普遍的に捉えながら(時として、外見で判断されながら)、この職業を続けていくのは、生半可なことではない。私の場合、古典作品における、先に示した、「記号的な」美しさとの(受動的な)付き合い方と、現代作品における「革新的な」美しさへの(能動的な)探求とを分けるように心がけている。



『老いと女優』

プロとして活動を始めて2年が経った頃、初めての母親役を与えられた。女優7人がメインの作品だったのだが、あるシーンで、子供役3人と母親役4人でやることになっていて、まさか、自分が母親役に配役されるとは思わなかった。年齢的には、もう30歳だったので、母親役を依頼されてもおかしくない年齢だったのかもしれないが、ヨーロッパで暮らしていると、アジア人ということもあり、若く見られて当たり前だった。「実年齢より、若く見られたい」などと意識したことはないけれど、どうやら、声と身体は、無意識に欲していたようだ。まずは、自分は母親役ができるくらいの外見であるのだというショック。そして、演出家からは、声に重みがないという指摘。フランス語の解釈の面で、もう困ることもないけれど、いくら頑張っても消せないのが、アクセント。いつの間にか、このアクセントに引っ張られ、声も子どもっぽくなってしまっていることに気づく。実際、今までは、少女的な役を与えられることが多かったので通用してきたのだが、もう逃げ道はない。自分が「実年齢よりも若い」役を、演じることが多いことに、無意識に、女性として優越感を感じていたのではないか、と思うとぞっとする。日本のテレビや雑誌で、実年齢より若々しくみえる「美魔女」たちがもてはやされる世の中に、いつのまにか洗脳されていたのかも。メディアの力、恐るべし。日本を離れてから、西洋人の中でアジア人の外見で活動していたので、「他人と外見を比べる」という呪縛からは逃れたと自負していたのだが、年齢に関しては、人種は関係ない。年とともに、外見も変わっていく。いつまでも若々しくみられたいという願望は、女優にとって、実に厄介なものである。その転機となるのが、30代前半であるのかと、苦くも実感する日々であった。20代の役の倍率と、40代の役の倍率、どちらが高いかなど、比べるまでもない。女優は、「中年」の役を恐れるべからず。俳優として生きていくことを目指す、若い才能は掃いて捨てるほどいる。「中年」の役を楽しめるか、それは、「重力」を楽しめるか、ということのではないかという気がしてきた。20代にはない、身体の重み、声の重み、そして、人間の厚み。これらの「重力」を、少しずつ感じられるようになってきたところで、ようやく、声のトーンが、子供っぽいアクセントに引っ張られることなく、緩やかに、緩やかに、下降していく。正直、20代の頃と比べて、「失った」と感じてしまうことだってある。変わりなく生活しているようでも、身体は丸くなるし、顔にシワもできる。でも、やっぱり「中年」の役を演じるために必要な、この「重力」を手に入れたいと思う。そして、おそらくこの「重力」と同時に期待するのが、「静のエネルギー」。

若い頃は、なんでも、元気が一番。オーディションでも、声が大きくて明るい子は、決まって好印象。私が、好きな「中年」の役が演じられる女優たちが持っているのは、「静のエネルギー」。舞台の上に、ぽーんと「沈黙」を投げ込むことだって厭わない。空間全体を包み込むようなエネルギーが、熱となり、地を這い、観客を、彼らの足先から捕らえていく。俳優の身体は、商売道具。そして、なんといっても、「可塑性」に優れている。だから、「現在」の自分の身体を、商売道具として使いこなすために、精神のアップデートを常に求められる。年をとるだけ、アップデートした回数も増える。「失う」ものは何もない。


私は、女優である。このことは、私自身が、女性としての身体、眼差される身体、そして、自分ではない「役」を演じる身体の、「司令塔」であり続けるということである。他者の視線や、社会に蔓延るメディアやマーケットによって動かされるものではなく、それらを情報としてインストールした上で、自らが、愛すべき「商売道具」である身体の「司令塔」でい続けることができるか。このことが、俳優という職業を、持続可能にしうるヒントとなることだろう。



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