「タイトル:女優の身体はだれのもの?」としたかったけど、
あえて、演劇教育に関わる者の立場から、「俳優」とします。

前回のブログで書いた、フランスで起こっている#MeTooThéâtre運動(https://mill-co-run.com/2021/10/26/metootheatre%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%97%e3%81%a6%e3%80%81%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8%e3%80%82/)に関して、被害者の証言のなかで一番多かったのが、演劇学校在学中に起こった(始まった)性的・性差別的暴力である。
「外から見ると、社会問題に関心の高い、とてもオープンな職業のように見えますが、実際には女性にとって非常に厳しく、暴力的な環境です」18歳から25歳までの若い女子学生は、いい女優とは、服を脱ぐことも、セックスシーンを演じることも、卑劣で屈辱的な体位をとることも、すべてにイエスと言わなければならないと教えられています。
その一方で、彼女によると、同意の問題が取り上げられることはありませんでした。「リハーサルやトレーニングコースでは、非常に露骨なシーンを目にすることがあるのですが、その際、役者は事前に何をするか、何をしないかを聞かれていないのです」とアガタは付け加えます。若手女優にとっては、「演出家に選ばれたいなら、ケツに手を突っ込まれても、胸を張られても、全力を尽くす」というプレッシャーが大きいのです。
「女優の体は演出家のもの。」
これは私たちにつきまとう決まり文句です。女優の体は演出家のものであり、芸術の名のもとに暴発やトラウマを引き起こし、多くの女優が演技をやめてしまうとアガタは残念がった。
さすがに、私たちが通っていた演劇学校でこのようなことは起きていたり、教えられていたという事実はないが、
民間の演劇学校(今回の#MeTooThéâtre運動でも告発されている学校のひとつ)では、あるクラスで
「授業開始前に女生徒は全員ハイヒールに履き替えて、演技レッスンを受けなければならない」と聞いたことがある。
記事の中にある、この言葉について。
「女優の体は演出家のもの。」
答えはノー。
少なくとも、私の学校では、いい俳優は演出家の言いなりになる俳優ではない、という認識があり、
すべての生徒たちが、3年間の学校生活を通して、いい意味で「めんどくさい俳優」に育っていったと思うし、
私はそれを誇りに思っている。
学校や養成所で演劇を学ぶ生徒たちに伝えたいのが、大前提として、学校は、なんらかの結果または技術を身につける場所ではなく、そこにたどり着くための、安全かつ持続可能なプロセスを学ぶ場である、ということである。
先生から教えてもらうのは、うっとりするような発声でも、並外れた身体能力でも、すばらしい演技力でも、ましてや、演出家にいわれたら瞬時に服を脱げるようになることでも、歯を食いしばってセックスシーンを演じられるようになることではない。
どんなシーンであるかを俳優自らが的確に理解し、
そのシーンを実現するための演技を構築し、
心身ともに安全性を保った状態で、
演出の効果を存分に発揮できる「再現可能」なものにするためのプロセスを学ぶのである。
もし、このプロセスをすっ飛ばして、結果だけを求めてくるような講師がいれば、
それは教育と言えるものではないので、
疑ってみた方がいい。
演劇教育において、先生は答えを持っている人ではいけないと思う。
なぜなら、「私」と「先生」の身体は違うから。
生徒たちの身体の内部で起きること、外部で起こしたいこと、そのことに一番敏感であり、知識と体感をもっているのは自分自身である。
ただ、そこにたどり着くために、
俳優の心身の安全を第一に考え、その演技を持続可能なものにするためのプロセスを示唆し、伴走してくれる人。
演劇の講師は、それ以上でもそれ以下でもないと思う。
フランスでも日本でも演劇の講師は、
現役の演出家である場合が多い。
新米の俳優たちにとっては、学びの場であるとわかっていながらも、
仕事につながる可能性もある「オーディション」的な意気込みで挑んでしまいがち。
この態度が、生徒と講師のヒエラルキーを助長し、#MeTooThéâtreに発展する空気を作ってしまうこともある。
私も在学中に、講師として学校にやってきた、現役の演出家のもと、パゾリーニの戯曲で、人生はじめての全裸シーンに挑戦した。
その時は、演出家にまず作品を読み込んで準備ができたら言ってというようなことをいわれたので、
戯曲を読み解くと同時に、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』をすり切れるほど読んだ。
動物は生殖活動としての交尾しか行わないが、エロス的行為を行うのは人間だけである。
エロス的行為と交尾は、生物学的に共通点があるとしても、その意味や価値という点では本質的に異なるものとバタイユはこの本で言及している。
この本を通して、徹底的にエロス的行為を自分の身体を使って「再現」することの意味や価値をドキドキ、おどおどしながら考えた時間は、今思い出しても、必要不可欠であったと思う。
この本について演出家とも一緒に議論しながら、服を脱いで稽古していく段取りを決めた。
まず、ファーストステップとして、スタッフ、シーン以外の共演者を介入させず、
演出家と私とパートナー役の3人だけでリハーサルをし、シーンが固まってきたら、スタッフも含めての稽古に移行した。
すべて次のステップに移行するタイミングを決めたのは私だ。
今思い出すと笑ってしまうけど、
昼ごはんのあとのリハーサルで、「今日は食べ過ぎてしまってお腹がでていて恥ずかしいので、脱げません」と演出家に言いにいったこともあるが、笑われることなく「わかりました」と言われた。
俳優の身体はどこまでも俳優のものである。
作品のものでも、演出家のものでもない。
稽古で勇気なんかださなくていい。
稽古は本番じゃない。
「俳優魂」「女優魂」ということばが、最終的に生まれた大胆な演技に対するものではなく、
安全、持続可能でその素晴らしい演技にたどり着いたプロセスを称賛することばになることを願って。