レンヌ国立高等演劇学校(TNB)でのめくるめく2週間の教育実習が終了。
教育実習のはずが、私も生徒さんたちに混じって、平田オリザ戯曲『S高原から』に出演。
舞台、最高。
先月私は渡仏10年目を迎えたのだが、
そもそも渡仏を決めるきっかけになったのがこのレンヌ国立高等演劇学校(TNB)である。
この学校はブルターニュナショナルシアターに付属する学校なのだが、
当時、この劇場で働いていた知人から、ここの学校の生徒に韓国国籍の生徒がいる、という情報を入手。
試験は3年に一度年齢制限25歳までだが、フランス語が話せれば合格の可能性もあると思い、
当時23歳の私は、家に帰ってインターネットで調べた結果、翌年に3年に一度の試験が予定されていることがわかり、その1ヶ月半後には無謀にもすでにパリにいた。
1年間区のコンセルヴァトワールで修行し、初めてできた親友ふたりとTNBの試験に臨む。
私は一次審査をなんとか通過したものの二次審査で落ち、文字通り三日三晩泣き続けた。
あんなに断続的にひとつのことで泣いたのは、あのときが最後だと思う。
そして800人の受験者のうち15人合格という狭き門に、親友ふたりが合格し、ふたりはTNB入学のためパリを離れたので離れ離れになる。
その翌年私は年齢制限ぎりぎりでモンペリエの国立演劇学校に合格するものの、TNBの存在は常に頭の片隅にあり、苦い思い出は身体に沈殿していた。
2016年に学校を卒業し、俳優として初めて参加したフランス国内ツアーリストにTNBの名前を見つけた時は、目頭が熱くなった。
その後、頻繁に仕事をしていた演出家がTNBのアソシエイトアーティストとなり、年のうちの2ヶ月はTNBで滞在制作、毎年、なんらかの作品でTNBの舞台を踏んでいた。(コロナ騒動が始まる前の最後の舞台もTNBだった。)
そして今回の教育実習。本来は長年一緒に仕事をしてきた演出家のもとで、リールの国立高等学校のマスタークラスにて実習を予定していたが、コロナで日程の変更がおき、急遽きまったTNBのマスタークラスによんでもらえた。
しかも、課題は平田オリザ『S高原から』。
ずっと足を踏み入れたかった憧れの演劇学校の広大なリハーサル室にて、毎日14時から22時まで、卒業を間近に控えた3年生と稽古。
役が一人分余ってしまったので、なんと私も出演することに!
作品について、日本について、興味津々の生徒たちからたくさんの質問をうける。
ドラマトゥルク的な立場をまかせてもらい、生徒たちとたくさんのディスカッションを交わした。
また、卒業後の進路相談にものったり、9年前に号泣していた私に自慢したい気分だった。
大学生のとき、『S高原から』桜美林大学の生徒たちによるバージョンを観劇した。
当時演劇には主役と脇役が必ずあると思っていた私は、主役も脇役も存在しない舞台に衝撃を受けた。
さいたま育ちの私は、彩の国さいたま芸術劇場の蜷川さんの舞台を多数観劇していて、
舞台は俳優を観に行くものだと思っていた。
観劇後は、母親とどの俳優がよかったかという話をすることが一番の楽しみであった。
しかし、『S高原から』では、あまり俳優のことを覚えていない。
自分史上初めての演劇「作品」観賞と言えるかもしれない。
「舞台芸術作品」として、浮き上がる空間と時間に立ちあったことで、良くも悪くも混乱した。
この私が受けた衝撃は、フランスの演劇学校の生徒たちの中にもあったようだ。
俳優が、自分の演技に集中すればするほど、ひとりで役を構築しようとすればするほど、作品としては成立しない。
演出家は「団体競技」としての演劇を体感させるために、この戯曲を選んだという。
ひとりひとりが頑張ることで成立する作品ではなく、
意識をひろげ、外の世界に耳をすますことでしか成立しない戯曲。
俳優に「演技」ではなく、「演劇」を学ばせるうえで、最高の戯曲と言っていた。
リハーサル開始当初は、間投詞が随所に散りばめられた独特の台詞に困惑した様子の生徒たちだったが、
徐々に、自分が目立とうとすることから解放され、全体でつくりあげた「ムード」に自ら溶け込んでいく過程を楽しんでいるようにみえた。
10月の公演を最後に、フランスの文化施設は閉じられたままで、
本番がない5ヶ月近くの時間を過ごしてきた。
最終日、関係者のみであっても、30名ほどの観客を迎え、上演をすることができた。
公演前の緊張で震える感覚に、懐かしさが止まらず、ちょっと泣きそうになる。
私が演じた役は、大きなスリッパを履いて舞台を横断する役だったので、
レンヌの街で演出家とスリッパを探し回り、
突如見つけたピカチュウのスリッパにはかなり興奮し、即買いした。
