「愛にできることはまだあるよ」

私自身も、モンペリエの学校に入学する前に、2年間体験した、

フランスの国立高等演劇学校受験戦争。

この受験戦争っぷりを日本人に説明するのは非常に難しい。

なぜならたかが演劇学校ではないからである。まさに、タイムリミットと人生のかかった演劇受験戦争である。

今週は、毎日9時から17時の間、1時間ごとに、生徒たちがやってきて、受験で発表するシーンを稽古した。

各々がパートナーたちをひきつれて3シーンづつ発表するので、単純計算で1日24シーン。半日だった日を入れても5日で約100シーン見たことになる。

13時-14時で休憩が予定されているが、だいたい稽古が長引くのでお昼休憩は30分たらず。

毎日8時間近く3分間のシーンを見続ける。

今年は、コロナの影響でフランス一番の名門パリ国立演劇学校(CNSAD)が、毎年実施している受験を取りやめにするという大事件が起こった。毎年2000人近くの受験者が集中するCNSADの受験がなくなるということは、その分他校の受験倍率が高くなる。

今年は、フランス国内では、サン=テティエンヌ、モンペリエ、リヨン、カンヌ、レンヌの受験が開催され、フランス語圏であるスイスのローザンヌや、ベルギーのリエージュ、ブリュッセルの国立演劇学校を受験するフランス人の学生も多々。

受験資格

•18歳以上26歳未満

• 演劇クラス専科(週35時間以上)を区のコンセルバトワール、県のコンセルバトワール、もしくは、民間の演劇スクールにて1年以上受講している。

• バカロレア(高校卒業資格)を取得している。

• 5回以上受験することは不可。

• フランス語が流暢に話せる。

受験課題

一次審査および二次審査

1. 古典戯曲 (ダイヤローグ)

2. 現代戯曲 (ダイヤローグ)

3. 自由課題 

最終審査

1週間のワークショップ(現地滞在)

先週は、コロナの影響で、コンセルバトワール内で昼食をとることができなかったので、

毎日パリの観光名所、『ジュテームの壁』の前で、愛を補充しながら、ひとり寂しくおにぎりを食べていた。

今週は一転して、おにぎりをふたつ食べる終わる暇もなく、次の生徒さんたちが来るという怒涛のスケジュール。

私の担当教員は、以前の私の先生で、当時彼が8区のコンセルヴァトワールで教えていた時は、受験成功者を最も輩出させるコンセルヴァトワールとして非常に有名だった。

私は、区のコンセルヴァトワールでは、長期滞在ビザが更新できなかったので、2週間で泣く泣く彼のもとを離れ県のコンセルヴァトワールを受験し、進学したのだが、彼の演劇教育に以降ずっと影響を受けていた。

今回7年ぶりに教育実習申請のため連絡をとったところ、快諾してくれて、憧れの先生と毎日8時間一緒に過ごすことになる。そして、毎日飯の数と同じだけ泣いていた受験時期を経て、受験生たちにあーだこーだいう日がきたのだから、「事実は小説より奇なり」。

担当教員と一緒に、受験指導に勤しんだが、頭の中では、『天気の子』の主題歌、『愛にできることはまだあるかい? 愛にできることはまだあるよ』が、ずっと流れ続けていた。

何しろ、この先生からは常に愛が溢れているからである。

もちろん、先生から紡がれる言葉の一言一言が、非常に有益でためになるのはもちろんなのだが、すべては、「愛」が前提にあるから通用することだと痛感する環境にある。

こんな世の中だけど、「愛にできることはまだあるよ」と30秒に一回くらい思わせられる。

それほど、生徒さんたちがくるくると変化していく。

元々有名な俳優であったこと先生に、メソッドというものはない。

すべては生徒からでてきたものを伸ばすお手伝いスタンス。

巨匠、カリスマというイメージとは程遠く、まるで、演劇を先月始めたばかりで楽しくてしょうがない少年のようなスタンス。それは、午後になっても変わらない。

教職取得のために、60ページの論文を提出しなければいけないのだが、この「愛」を文章化するのは難しい。

せめて、演技について。私が今週100シーン近くの受験用課題を見続けてわかったことをひとつ。

俳優は、「状態」を演じようとすると失敗し、「状況」を演じようとするとうまくいく。

例えば、受験シーンは3分しか見てもらえないので、ほとんどの俳優が、ダイヤローグシーンであっても、役の「状態」を演じようとしてしまう。怒っていたり、怖がっていたり、悲しみに打ちひしがれていたり。

しかし、演技はそもそも「状況」と「関係性」の中でしかうまれてこないものなので、「状態」をみせられると、観客としては、なんだかすごい準備されてきたっぽい「パフォーマンス」を見せられている気になる。

しかし、ドラマツルギーとテキストから「状況」を構築されているシーンには、それに付随する関係性がうまれ、その状況に必要不可欠な演技が伴ってくる。

ある生徒が、アルフレド・ド・ミュッセの1834年に書かれた『戯れに恋はすまじ』という作品のワンシーンを発表した時、古典がゆえに、フランス語の表現も非常に難解だったのだが、私は一発で内容がわかり感動した。

彼らの演技が、自分を魅せるものではなく、シーンの「状況」に非常にあったものだったので、完全に観客として観てしまった。私が、彼に、「非常に素晴らしいので言うことはありません」と伝えると、急に床にうずくまって動かなくなってしまって、だいぶ長い時間のあとに顔をあげて、目に涙を浮かべている。

「自分では、なにもしてないような感じだったから、絶対やり直しになると思った」

「状況」をしっかりと演じられている俳優は、その「状況」に対して突飛なことをしていないで、パフォーマンスとしては地味になることが多々ある。しかし、その俳優のおかげで、観ている側には、戯曲の美しさや、登場人物同士の関係が鮮明に見えてきて、目が離せなくなるのである。

しかし、ここまで3分でもっていくのは、プロの俳優にとっても至難の技であろう。

もちろん、稽古の過程で、より具体的にシーンのドラマツルギーを分析し、「状況」を構築するところから、役の思考ロジックを打ち立てていくように、まずは「状況」を演じるための万全の準備が必要。

そのあとは、自分たちが通ってきたプロセスを「信じる」力が必要である。

そういう時に、先生の「愛」にできることはまだたくさんあった。

先週は今年の受験シーズン開幕の週で、リヨンの学校(ENSATT)の第一次審査が始まった。

応募はなんと1000人超え。

みんな泣いたり笑ったりしながら、真剣に取り組む姿に、30代の私は心打たれずにはいられない。

こういう環境に身を置いていたおかげで、

私は、演劇を信じられなくなったことは一度もない。

自分の俳優としての力量は、全く信じられなくても、

演劇を信じられなくなったことは一度もないし、これからもないと思う。

先生に感謝。

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