「感覚」が鈍い俳優に未来はあるか。

パリで12月5日起きた大規模デモの影響を受け、

交通機関がほぼ麻痺しながらも、

観客は減ることなく、

『千夜一夜物語』、無事、5週間のオデオン座公演を終えることができました。

 

歌舞伎俳優やミュージカル俳優でもない限り、

1ヶ月連続公演は、

なかなか経験できない体験。

私も、人生2回目の経験。

初めての時は、セリフも少なかったのに、毎朝、声が出なかったらどうしようという恐怖とともに目覚め、

語学レベルがそんなに高くなかったにもかかわらず、

シェイクスピアのテキストだったので、

いつ何時もセリフがすっぽ抜ける恐怖と戦っていて、

正直、俳優としてクリエイティブな仕事ができていたか聞かれると自信を持って答えることは難しい。

 

よく、芸術に携わるものには、言葉にならない「感覚」という能力を期待される。

俳優も然り。

残念ながら、私は、この「感覚」というものが非常に疎い。

例えば、「感覚」が優れている人は、耳がいい。

視覚よりも、聴覚で空間を捉えることに長けている。

例えば、音楽に携わっている人は、外国語習得が早いという傾向は、想像に容易いであろう。

私の場合、「感覚」及び「聴覚」が鈍いので、

すべて、口の中の形(舌や唇の位置)を、ひとつひとつ理解して、自分なりの「言葉」で解釈してから練習しないと、フランス人の発音に近づくことは不可能であった。

 

私がパフォーマンス向上のために目をつけたテーマが「言語化」である。

「感覚」が鋭い人にとっては、邪魔になるだけだと思うが、

「感覚」が鈍い人だからこそ、「言語」の力をかりて、

俳優のパフォーマンスをあげることができるのではないかと考えている。

 

数年前から、人工知能AIの研究などで、「身体知」という言葉を、よく耳にするようになった。

もともと、「身体知」という言葉は、スポーツ選手のパフォーマンス向上のために、よく注目さていた技術である。

この「身体知」を利用し、俳優の終演後の「なんか今日は良かった」「なんか今日はダメだった」を分析していくことで、翌日の自分に対して、より具体的な指示かつ有機的な指示を出していけるようになるのではないか。

元ラグビー選手から、「スポーツ教育学」の研究者となった、平尾剛氏の『脱・筋トレ思考』

の中の「身体知」への言及が非常にわかりやすい。

身体知には、以下の3種類がある。

1 始原身体知(生まれつき備わってるもの)

2 形態化身体知(コツとカンで特定の動きや技術を身につける):ゼロを1にする。

3 洗練化身体知(すでに身につけた動きや技術をより精妙にしていく):1を2や3にする。

 

ここでいう「動きや技術」を「パフォーマンス」という言葉に差し替えると、

2が稽古期間、3が本番中(もしくはツアー中)と当てはめることができる。

さらに、2 形態化身体知の過程で重要になってくるのが「コツ」と「カン」で、

発生論的運動学では、この「コツ」と「カン」を以下のように説明している。

 コツとカンはおおよそ同じものであると私たちは認識しているが、この両者はその性質において明確に異なる。発生論的運動学では、「骨」を語源とするコツを「自我中心化身体知」といい、論理的思考と対照を成すカンは「情況投射化身体知」という。

平尾剛『脱・筋トレ思考』

 

つまり、「コツ」は自分の内側から、「カン」は自分の外側で知覚されている。

 

ここまで、「身体知」を理解したところで、

この「身体知」をより具体的に獲得するために、

「舞台経験を積む」にプラスして、

「日々の経験を言語化」してみる。

 

ここでいう「言語」というのは、まさに「自分に響く言葉」である。

例えば、演出家の指示や共演者との話し合いで、

「そのシーンは、もう少しテンポをあげて」という無機質な指示が出たとする。

ここで、テンポをあげるのは簡単なのだが、

より具体的になぜテンポをあげるのかを身体にわからせないと演技としては成立しない。

そこで、この無機質な指示を自分にとって「有機的な指示」に翻訳してみる。

この時は、最終的に「自分をめちゃめちゃ美人だと思い込む」という言葉と出会った時に非常に適切なテンポにたどり着けた。

 

ここで参考にしたのが、諏訪正樹氏の「からだメタ認知」という研究である。

彼が提唱しているのは、「ことばの力をかりて体感への留意を保つ」ということである。

この方法と出会わなかったら、

5週間クリエイティブなモチベーションを保ち続けることは不可能だったと思う。

 

方法は簡単。

毎日、前日のパフォーマンスを振り返り、パフォーマンスをしている際の「感覚」を、ただひたすらに言語化していく。

この時に「コツ的側面(自分の内側)」と「カン的側面(自分の外側)」、両方の感覚に注目することもポイント。

そして、それを踏まえた上で、その日の夜に行われるパフォーマンスに向けて、

自分への「指示」や「キーワード」、「気をつけること」を記述していく。

場合によっては、共演者もしくは演出家との話し合いを必要とすることもある。

 

これは、まさに新しい言語を学ぶ感覚と同じで、

はじめはどのように「感覚」を言葉に置き換えていいのかわからないのだが、

続けていると、日々、確実に言語記述量が増えていく。

言語記述量の増加に伴って、言葉の種類やニュアンスの差がより細かくなっていく。

演劇の場合、スポーツのように「体感」だけでは成立しないので、

トラマツルギー的にシーンの「解釈」においても、思考の「筋肉」が少しづつついてきて、演技の細かい選択肢が広がる。

 

諏訪正樹氏の著『身体が生み出すクリエイティブ』によると、

 

ことばの力を借りるとは、身体だけではどうしようもない別の機能を合わせて発揮させることである。ことばは連想という技を有している。ことば同士の連想関係や、知識に基づく論理的関係をたぐって、あることばから別のことばに飛躍することができる。

諏訪正樹『身体が生み出すクリエイティブ』

 

やりたいことができることだとは限らないし、

できることがやりたいことだとは限らないのが人生である。

でも、本当にやりたいことは、自分に合った方法さえ見つけ出せば、

自分なりにはできるようになるものである。

 

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