私にとって、10月3日は、
『サラダ記念日』ならぬ、『サベツ記念日』となった1日であった。
先月末に、『千夜一夜物語』の初日があけて、
以降、週に一回ペースで地方にツアー公演に行き、
週末はパリに戻ってきて、映画・ヨガ・鍋をして過ごすという生活。
3年前から、フランスの地方公演には慣れっこで、
半分近くのフランスの地方公共劇場で、すでに演じていると思うのだが、
3年目の今年は、ツアー公演をしながら、
各都市のさまざまな特徴が見えてくる。
まず、フランスの公共劇場にほぼ共通して見られる任務が、
地域の中高生のための「芸術鑑賞授業」受け入れである。
フランスの義務教育では、選択授業で「演劇」のクラスがあるので、
そのクラスを受講している、つまり、既に演劇に興味がある中高生の一行がくることもあれば、
学校の企画した芸術鑑賞会に、義務として参加する場合もある。
日本でも、中高生のための芸術鑑賞会というものは行われていて、
私も、高校生のとき、クラスメート全員で某老舗劇団の作品を鑑賞したが、
ほとんどの生徒が寝ていて、この環境でやる俳優は地獄だろうなと同情した記憶がある。
フランスの公共劇場、日本のそれと比べて、
「おとなしい」プログラムに収まっていないという違いことがある。
私がモンペリエに住んでいた時、
フランスにおける「芸術鑑賞事業」を強く意識するきっかけとなった出来事がある。
気鋭のフランス人振付家、ボリス・シャルマッツの『enfant(子ども)』という作品を見に行った際、
小学校低学年の芸術鑑賞会と重なり、
このエッジの効いたコンテンポラリーダンス作品を、小学生の集団と鑑賞したのである。
もちろん、数人の子どもが出演しているしている作品ではあるが、
どう考えても「公共的」にいう「子ども向き」な作品とは言えない。
しかし、7歳にも満たないであろう子どもたちの集中力は凄まじいものであった。
公演後も、興奮しておしゃべりがとまらない。
付き添いの教員に促されながらも、なかなか客席をさろうとしない子どもたちの姿が目に焼き付いている。
さて、フランスにおける、こんなビビットな経験を子どもたちに経験させてくれる芸術鑑賞会の雰囲気は、地方によって千差万別である。
たとえば、ブルターニュ地方は、文化予算が豊かなことでも有名で、
教育関係者も、文化教育に関して、公共劇場との連携を必要不可欠だと捉えている。
ブルターニュで公演する時は、芸術鑑賞会の前に、生徒たちと演出家のディスカッションが企画されることもすくなくない。
そして、10月3日。
私たちが、降り立った街は、南仏のガール県に位置するアレス。
アレスで公演するのは、これが2回目となる。
アレス初日、客席前方に、明らかに、芸術鑑賞会で来ていると思われる高校生の集団が見受けられる。
幕が開けても、彼らのひそひそ声はとどまることを知らない。
ひそひそ声どころか、何をしゃべっているかまで聞こえるほどだ。
さらに、たちが悪いことには、俳優の外見に関する冷やかしのオンパレードである。
その後も、
アラブ系フランス人の髪の毛をバカにしたり、
私のフランス語のアクセントを笑ったり、
アラビア語のセリフをバカにして笑ったり、
しまいには、ハゲている俳優をバカにしたり。
とにかく、自分たちとの「違い」を一切受け入れることができないのだ。
作品の内容が、商業的なものから遠ざかれば遠ざかるほど、
つまり、「芸術」に傾倒すればするほど、
観客の好き嫌いはわかれる。
ただ、好き嫌いを言う前に、
観客に「自立した」観劇をしてもらわなければ始まらない。
人生で初めて体験した舞台上での「差別」に悶々としながら、
終演後のバーで、仲のいいスタッフに、高校生たちの反応を伝えると、
「あー、それは、アレスだからしょうがないよ。極右だもん。」
と、想像だにしなかった返答。
極右?!なぜ、政治の話?
彼女によると、フランスの観客の反応は、
地方都市の政治思想によって、かなり違うということ。
つまり、アメリカでトランプを大統領に就任させたような、
大都市と地方の格差はフランスでも大きいということ。
ホテルに帰ってから、早速調べてみると、
2017年のフランス大統領選、決選投票で、マクロンのパリでの得票率は約90%。
極右のルペンは10%しか取れなかった。
ロンドン同様に、パリはグローバル化の恩恵を享受している市民が多い。
一方、2015年の欧州委員会統計局に関するデータをみると、
失業率が高い地域ほど、国民戦線、つまり、極右を支持していることがわかる。
フランスの極右の特徴は、移民数を制限し、特に、就職や社会保障の面で、
外国人よりもフランス人を優先する政策であろう。
これは、庶民のグローバル化への不信感、
つまり、文化の醍醐味でもある「多様性」を排除する方向性を導く。
そして、やはり、アレスは、極右支持率の高い都市であるということが判明した。
私は、自分の陰毛を、
高校生の集団に明らかに笑われて、
とても傷ついた。
何度上演回数を重ねても、作品が、全く同じように舞台の上に現れることは一度たりとない。
なんらかの歯車がずれて、
公演の質が落ちてしまったことによって、観客の集中を欠いたとも考えられる。
しかし、このような政治的背景が、
芸術鑑賞事業の一環で、
仕方なく劇場にやって来た彼らの反応に、
少しでも影響を及ぼしているという事実があるとするならば、
パリで、「芸術」作品として注目を浴びて舞台に立つよりも、
「公共的」側面からみて、
私にとっても、彼らにとっても、
よっぽど意味のある1日だったと思う。