2018年、KYOTO EXPERIMENT、
私は、市原佐都子さんの『妖精の問題』に出演していて、
大好きなドイツのカンパニー、She She Popのメンバーたちが客席に観に来ていた。
「カンジダになったことがある方、いらっしゃいますか?」と、
客席に投げかける台詞で、
そのうちの一人の女性が、英語字幕を見るや否や、凄まじい勢いで手を挙げてくれた瞬間は、
今でも鮮明に覚えている。
終演後、ロビーで、彼らに英語で話しかけられて、
「私も、あなたたちの作品をたくさん見ている!」ということを伝えたかったのに、
「英語が話せない」という事実が頭を占有していたため、
なけなしの「センキュー」しか出てこなかった。
その時から、ずっと勉強したかった英語。
今年の夏休みと春休みに、日本に帰国していた時間を使って、英会話に通った。
この経験は、私にとって、「尊厳」の大切さを改めて考えるきっかけとなった。
La dignité (
/di.ɲi.te/; feminine; noun;)フランス語で、「尊厳」または「品格」という意味のフランス語である。
これは、私が、母国語ではないフランス語という外国語を使って、演技をする上で、
ここ3年ほど、向き合ってきた言葉である。
どんなに専門的に発音を訓練しても、
自分の発している言葉にアクセントは残る。
自分の言語レベルに演技が引っ張られて、
どうしても、幼くなってしまう傾向が強かった。
声の響きや、身体のあり方。
自分の完璧ではない言語能力を誤魔化すかのように、
無意識のうちに、無駄な「笑顔」をつくっていることもあった。
そんな時、憧れの先輩女優から言われたのが、この言葉。
La dignité
「媚びるな、La dignitéを持て!」
結果的に、この訓練は、観客(他者)を心の底から信用することにもつながったと思う。
観客からの分かりやすい好感を得ることよりも、
もっと深い場所で、目には見えない水面下でつながる感覚。
一言で言えば、観客をナメないこと。
今回、私が通った英会話スクールは、
マンツーマンで、40分間の授業を60回、さまざまな先生と英語を学んだ。
何を隠そう、私のレベルは初級。
でも、「尊厳」だけは、絶対に失わなかったと思う。
後半は、個人の「尊厳」を守るためのバトルフィールドと化していたと思う。
そこで、「尊厳」を守るために初級の私が心がけたことが以下の3点。
1、英会話の「お客さん」にならない。
2、言葉が喋れなくとも、「思想」レベルは変えない。
3、英会話教師をナメない。
相手は、こちらのことをよく知らないわけだから、
放っておくと、当たり障りのない教科書的定型文を使って、
授業が進んでしまう。
というわけで、毎回、自分の関心の持った映画や本、新聞記事などを使い、自分の「思想」を語る準備をした。英会話教師が、興味を持つとは考え難い、芸術における専門的なテーマであっても恐れない。
もう一つは、白人男性講師と、フェミニズムやアジアの政治問題に関して話すことが、英会話を通して一つのアクションになるのでは、という勝手な使命感があった。
この夏、特に盛り上がったトピックが以下。
イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ――フェミニストは黙らない』
「政治的な問題には、触れられない」と怪訝な顔を見せられたこともあったけど、
基本的には、私の語学力の低さで、難解なお題を選んでくる姿勢に、
好意的であったと感謝している。
渡仏時も含め、
子供の頃から、言葉がわからない環境で生活していたことが多く、
言語習得時における「プライド崩壊」慣れをしている私でも、
あの「子どもにかえったような感覚」は、やはり辛い。
それでも、
大袈裟なようだが、
「尊厳」は決してなくしてはならない。
周りから笑われようと、
どんな状況でも、
たとえ英会話でも、
「尊厳」は持ち続けなければいけない。
最後に、自分への贈る言葉として、
望月衣塑子さんの著書『新聞記者』の最後に引用されていたガンジーの言葉を。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである。
8年前の大学卒業製作で作った一人芝居のポスター原画を、
日本の新居に飾った。
私の滞在は、1年の4分の1にも満たないが、
すでに「自分大好き」の侵食が激しい。