西洋で日本人の役をやることは、 「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」

フランス人女性演出家が描く、

日本の社会現象「蒸発」に関する作品の3週間に渡るパリ再演、

無事、終了しました。

https://www.la-tempete.fr/saison/2018-2019/spectacles/les-evapores-567

 

会場のThéâtre de la Tempêteは、

パリ12区にあるヴェンセンヌの森の中にある『Cartoucherie』という、

かつての弾薬工場跡地にある劇場。

1970年に、太陽劇団率いるアリアンヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)が、演劇の聖地に変えた歴史的な場所である。

敷地内には、4つの劇場と3つのアトリエがあり、

クラシックな作品から、若手の作品まで常に数作品が上演されている。

 

この作品は、2年前に初演され、フランス国内で地方ツアーしたあとに、

再演が決まった作品。

出演者は、フランス人俳優1人と日本人俳優6人。

フランス人ジャーナリストが、日本に滞在し、日本人たちに出会っていくという設定なので、

日本人俳優のセリフは、すべて日本語。

フランス語の字幕が表示される。

フランス人の観客には、なかなか伝わらないのだが、

この芝居の一番の「ねじれ」であり、面白いところは、

私たちが演じている母国語(日本語)が、翻訳された言語であるということである。

フランス語で書かれたテキストが、日本語に翻訳され、

私たちは、ある種「純粋でない」日本語で演じる。

しかし、観客は、字幕を読んでいるので、

わたしたちの感じる「ねじれ」は、一切届いていない。

また、フランス人俳優は、

私たち日本人俳優と話す時には、日本語で(翻訳された)セリフを話す。

この作品は、「蒸発」という社会的テーマを扱っているだけで、

一切、ドキュメンタリー演劇ではないのだが、

演劇空間において、

「言語」と「容姿」が及ぼす「ドキュメンタリー要素」の高さには、

改めて驚かされる。

 

全くフィクションの芝居であっても、

「日本人の外見」をした人が、

「日本の社会現象」について、

「日本語」でしゃべることで、

観客は、無意識に、フィクションという程においての「リアル」でなく、

ドキュメンタリーという程においての「リアル(事実)」を見出してしまうのである。

 

私は、去年から2回続けて、

「日本人」の役で、演劇作品にかかわった。

一つ目は、セリフはフランス語で、日本人の役。

そして、今回は、セリフも日本語で、日本人の役。

 

いずれにせよ、日本人としての「容姿」を利用することには変わりない。

俳優としては、「衣装を2枚着ている」という感覚が常にある。

1枚目は、役に与えられた「肌」としての衣装。

2枚目は、役に与えられた通常の衣装。

 

俳優にとって、「演技をする」ということは、

どこかで、「憑依する・される」という側面があると考える。

私の場合、

稽古の中で、「自分」という存在を分析しながら、

自分でない「他者(役)」の要素(言葉、身体、歴史など)を、

少しづつ、自分に取り込んでいく過程がある。

そして、「自分」の中に、「他者(役)」が溶け込んできたところで、本番が始まる。

 

この時、1枚目の「努力を要さない」衣装(肌)の存在が大きすぎると、

俳優としては、少々自信を失うことになる。

つまり、「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」から始めるのである。

「言葉」に関しても同じことが言える。

 

おそらく、いろんな人種の人が暮らしているフランスでは、

日本人(外国人)の俳優が、舞台で日本語(外国語)をしゃべっている芝居をみることなんて、

そんなに特別なことではないのだろう。

ただ、単一民族国家である「日本」で育った私にとっては、

「日本人」であることを、

背が高いとか低いとか、

太ってるとか痩せてるとか、

それくらいのレベルで、

「俳優としての特徴」として捉えられうようになるには、

正直、まだ時間がかかりそうである。

 

2016年から、フランスで俳優として仕事を始めて以来、

西洋的な役名しか与えられなかったから、考えたこともなかった。

ヒポリタ、フィロメル、ポーラ、クララ、マリー…

 

「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」からキャスティングされた時に、

ここでも、重要なのは、やはり演出家とのコミュニケーションであると思う。

創作期間において、

「まだ裸なのに、すでに1枚着ている状態」が、どうでもよくなるくらい華麗に、

2枚目の衣装を身に付けることができれば、

たとえ、本番が始まってから、

「日本人」であることの方が、「俳優」であることを上回って、

観客に見えていたとしても、気にならなくなるだろう。

 

どうしても「デリケート」になってしまう「フィクションでの使われ方」というものが、

それぞれの俳優にあると思う。

周りの人には、想像できないほど、傷つくこともあるかもしれない。

しかし、演劇は再現性がないと何も意味がないので、

「我慢する」という解決策だけは、絶対にやめてほしい。

私の俳優としての仕事の80%は、コミュニケーションである。

と、自分に言い聞かせる。

 

そして、明日からは、西洋も、日本も、吹っ飛ばして、

アラブの世界へ。

『千夜一夜物語』の稽古スタート。

私が演じるアラブ人の役名は「ゾベイダ」!

『蒸発』で親子役をした、藤谷由美さんと、楽屋にて。

 

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