古典バレエとコンテンポラリーダンスの違いのひとつに、
「配役のヒエラルキーの排除」があげられるように、
古典劇と現代演劇の違いにも、同じことが言える。
俳優は、脇役から、「昇進」して、主役になるというより、
いかに、「作品」の一要素になることができるかが求めらる。
そこで、「スター俳優」の定義への変化が起こった。
「目立つ」俳優から、「目立たせられる」俳優へ。
自分が目立つのではなく、共演者を「目立たせられる」俳優。
この技能を持った俳優たちの集団のなかで、相互作用が起こり、作品が昇華していく。
(過去のブログ記事:近所のおばさんに自信をもって俳優やってますって言えるだろうか。)
つまり、現代俳優における、個人的「昇進」は、極めて難しい。
そして、それでも、俳優は年をとる。
フランスでは、社会制度の充実のおかげで、
俳優同士のカップルでも、
家をローンで買って、子どもをふたり育てている、
ということも稀ではない。
彼らにとって、至極重要なのは、「コンスタントに仕事をする」ということである。
しかし、人間の欲を満たすために必要なのは、
「社会的」昇進と「精神的」昇進の両方ではないだろうか。
前者は、社会的地位の昇格、またそれに伴う給与の増加などが中心だが、
後者は、なんといっても、「自己満足」による達成感である。
例えば、自分が、上司から仕事を教えられる立場だったのが、部下ができ、人に頼られる立場になったり、
今までは、プロジェクトの末端で関わる、いちメンバーに過ぎなかったのに、プロジェクトリーダーとして、責任ある立場を任されたり。
「精神的」昇進は、「社会的」昇進への不満さえもフォローする、未来への力を兼ね備えているのではないか。
ここで、演劇に話を戻して、注目したいのが、演出家と俳優の関係=上司と部下ではない、ということである。
俳優と演出家、このふたつの仕事は一見地続きにみえて、専門の異なる分野なので、「昇進」というワードは介在しない。
さらに、俗に言う「スター俳優制」の排除がおこったことによって、
俳優の中での、「社会的」昇進は見込めなくなった。
では、俳優はいかに、「精神的」昇進を可能にして、未来へのパースペクティブ(展望)を開くか。
俳優と並行して、別の分野でプロジェクトを始めることで得られるのかもしれない。
次の世代に伝えていくことを始めるのかもしれない。
もしくは、プラベートの生活のなかで得られる「精神的」昇進なのかもしれない。
30代は、業界関係なく、さまざな意味での「昇進」が、姿をちらつかせる時期である。
例えば、20代で、オーディションを受けて、人に選ばれる立場を経験することと、
30代で同じことをするのとでは、だいぶ、感覚が違うのではないだろうか。
俳優は、年齢とお付き合いしていくことが、非常にデリケートな職業なのである。
私が、個人的に懸念しているのは、俳優が、俳優という立場上、他者(演出家など)のプロジェクトに関わる環境が多いと思うのだが、
そういう状況下において、円滑に物事が進むように、自分を飼い馴らしてしまうことである。
年を重ねるとともに、年相応に扱いにくくなれば、それでいいのではないかとさえ思う。
「社会的」昇進があまりなかったとしても、
「精神的」昇進を続けた先に、そんな年相応な俳優像が見えてくるのではないか。
それは、20代のように、周りの期待に応えたい、超えていきたい!というようなフレッシュな心意気ではないかもしれない。
でも、30代の「精神的」昇進を続ける、
「たくましさ」とほんの少しの「あつかましさ」があってもいいのかもしれない。
ケルンのルートヴィヒ美術館でみつけた、ルネ・マグリットの絵『La géante』
私は、この絵に、まさに、30代の「たくましさ」とほんの少しの「あつかましさ」を見たような気がした。
求められることを、求められる場所で、カタチにしようとしてきたのが20代なら、
与えたいことを、与えられる場所で、カタチにしたくなるのが30代なのかもしれない。