舞台本番中の俳優の「エゴ」と「メンテナンス」について

創作過程(稽古)における俳優のプロフェッショナリズムとは、というようなことを、

このブログでも、何回も言及してきたが、

今回は、本番中における俳優のプロフェッショナリズムについて考えてみようと思う。

そもそも、稽古の日程数に対して、本番の日程数が3分の一を超えないうちは、

本番を「特別な日」と捉えて挑む、ということも可能だと思うのだが、

本番日程数が増えれば増えるほど、主な仕事となってくるのが、

「エゴ」への「メンテナンス」である。

フランスの場合、ツアー公演となれば、演出家不在で、アシスタントと俳優のみで行われることも少なくはないので、

この「メンテナンス」を、いかに、自立して行えるかが勝負のように思う。

 

ここで、まず、前提として、確認しておきたいのが、

舞台芸術が、パフォーマーにとって、非常に不確定性の強い芸術だということである。

それは、スター俳優にとっても、アマチュア俳優にとっても、商業でも、アングラでも、関係ない。

昨日の栄光が繰り返されるという、保証はないし、100回目の公演で、予期せぬ事態に襲われることだってある。

そもそも、この不確定性ということを逆手にとり、いかに、関係性(対共演者、対観客)と言葉及び身体を譜面化していけるかということが、創作における作業だとしたら、

本番は、その譜面化された作品をいかに高いクオリティーを保って演奏するかということが求められる。

本番、つまり、「観客」という存在が作品の中に新たに組み込まれることにより、創作過程には存在しなかった新たな要素が現れる。

それが、「エゴ」である。

共演者に対して、いきなり自分が劣っているように感じたり、

前日に比べて、エネルギーの放出ができていないように感じたり、

観客から、自分だけ気に入られていないように感じたり。

この「エゴ」のなにが厄介かというと、

これらの自己批判が起こることによって、長い時間をかけてチーム(共演者・演出家・技術スタッフ)で創作してきた「譜面」が、冷静に読めなくなることである。

そして、引き起こされるのが『Too Much現象』である。

公演を繰り返すことによって、

セリフを大事にしすぎてしまったり、

感情を吐露しすぎてしまったり、

演技があざとくなってしまったり。

俳優には、だれでも経験したことのあることだと思うが、

なかなか自分自身では気づけないことから、厄介である。

そもそも、「本番」という機会を、自身の「達成感」の道具に使っている可能性はないか。

もちろん、公演終了後のなんとも言えない解放感はあると思うのだが、それが、「達成感」になってしまうと、連日「本番」を続けていくのはなかなか難しい。

しかし、この「エゴ」がなくなってしまっては、俳優としても面白くなくなってしまう。

さあ、どうやって「エゴ」と付き合うか。

私が、ここ数年心がけているのは、「メンテナンス」という名の「エゴの飼いならし」である。

自分の中にあるものを「飼う」ことは、他者を「飼う」ことより、100倍難しい。

ただ、毎日「与え」「養い」「育て」ていると、

対象の「傾向」というものが見えてくる。

私の「エゴ」は、どういう状態で、出現し、膨れ上がり、暴れるのかということ。

「傾向」が見えれば、「対策」も取りやすい。

 

ツアーなどの長期本番に、最優先に求められるのは、

同じことの繰り返しと侮ることなく、いかに正確に作り上げた譜面をもとに演奏できるかということ。

また、チームでの、ディテール(細部)へのこだわりも、非常に重要である。

どんな仕事でも同じだが、

その分野におけるプロ(職人)がディテールにこだわれなくなったら、それは、死んだも同然である。

再現性の高い仕事にこそ、すべては「ディテール」の中にあると言っても過言ではない、と改めて実感する日々である。

 

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