一ヶ月以上ぶりの更新になってしまいました。
今年は移動が非常に多く、先日2ヶ月ぶりに自宅に戻って、2日後にはまた地方です。
6月の後半は、パリからTGVで45分のランスという街で、
2週間のレジデンス。
なんとこのリハーサル、1年半近く先のクリエーション『千夜一夜物語』のためのもの。
今年の2月から月に3日くらいの頻度でリハーサルが行われ、
少しづつキャスティングが固まりながら、
第一回目の2週間の集中リハーサル。
初演は、なんと2019年秋。
劇場に付随するアトリエを貸し切っての2週間。
主役は、まさに俳優。
まだ、台本も完成していない状態なので、
朝から晩まで、俳優が主体となって、
テーマに沿った作品を創りまくる。
振付家、ミュージシャン、サウンドアーティストが、私たちと一緒に滞在しており、
なんでも協力してくれる。
例えば、歌を歌うシーンを入れたいと思ったら、
前日に、ミュージシャンの人にyoutubeの動画を送っておくと、
翌日、ピアノもしくは、こちらが指定する楽器で演奏してくれる。
まさに、パラダイスな2週間。
『千夜一夜物語』を軸に、俳優各々が、
自分の興味に沿って、原文と格闘しながら、
「自分」と「作品」を結びつけていく。
私は、大好きなラップと、地元の「浦和おどり」とを、イスラム圏文化と結びつけて、
自分的には大作を創った。
講演会というかたちをとって、「イスラム圏と女性」というテーマで、2時間にわたる壮大なレクチャーを繰り広げた俳優もいた。
レバノン出身の歌手の半生を、歌と一人語りで作品にしたり、
ヨーロッパにおける移民問題をテーマにインプロビゼーションで作品を作ったり、
あとは、「語り」の筋トレということで、物語をシンプルに語る練習もした。
まさに、毎日がスペクタクル。
2週間の間、演出家ともう20年以上も一緒に仕事をしている、
ドラマトゥルクの人も、リハーサルに参加しているのだが、
演出家が、半分冗談のように、でも、繰り返し言っていたことが、
「俳優全員がドラマトゥルクになったら、かなり心強い!」
とのこと。
以前、このブログでも、フランスの演劇教育において、
「俳優ひとりひとりが、自らの『演出家』となることを求められている」
ということを書いたのだが、
今回は、その一歩先の感覚。
「俳優ひとりひとりが、作品の『ドラマトゥルク』となることを求められている」
そもそも、ドラマトゥルクとは何か?
ドラマトゥルクを知るための、一番オススメの本は、もちろんこちら。
平田栄一朗先生の『ドラマトゥルク―舞台芸術を進化/深化させる者』
この本の発売当時、まだ、日本ではほとんど聞きなれない仕事であった、ドラマトゥルクの役割。
本の中では、このように紹介されている。
「ドラマトゥルクは、演目や企画をプラニングしたり、舞台制作の条件と環境を整え、新作の制作プロセスにおける一つ一つの結果を判断し、他のスタッフに引き渡していく。また制作の芸術的(さらには社会政治的な)意図を観客や社会に橋渡しする。」(14p)
今回のレジデンスで、私たち俳優に求められたのは、後半の部分。
「また制作の芸術的(さらには社会政治的な)意図を観客や社会に橋渡しする。」
ある芸術的素材(今回の場合は、『千夜一夜物語』)を享受する側になったとき、
個人的に、強く「響く」場所における、「芸術的(さらには社会政治的な)意図」を掘り起こし、他者と共有していくこと。
このような創作環境においては、
俳優は、「作品」および「自分」という素材を深く観察することが求められる。
「この役、私じゃなくてもできるんじゃないか」
これは、俳優なら、だれしも、一度は感じたことがある感覚だと思う。
これを私は、「俳優の交換可能による憂鬱」と呼んでいるのだが、
先ほどの「『作品」』および『自分』という素材を観察する」という作業には、
「俳優の交換不可能による優越」を生み出す可能性を孕んでいるのではないだろうか。
「俳優の交換不可能による優越」を手に入れた俳優は、正直、無敵である。
しかし、俳優が、プチ・ドラマトゥルクになるために、
絶対必要条件は、創作期間のゆとりである。
本番、一ヶ月前に、ドラマトゥルクになれと言われても、無論無理である。
おそらく、結果を求めない本稽古前の「プレ」稽古は、
俳優に「俳優の交換不可能による優越」を提供する可能性に満ち満ちている。
そんなこんなで、抱えきれないほどのプレゼントをもらったこの2週間で、
私の演劇熱は、さらにヒートアップしている。