日本での公演が終わり、
時差ぼけが全く抜けないまま、
南仏に飛んで、アビニョン演劇祭に向けての新作の稽古が始まった。
今回は、Valenceという場所にあるLa comédie de Valence という公共劇場のプロダクションで、そこの劇場の芸術監督Richard Brunelが演出する作品である。
『Certaines n’avaient jamais vu la mer』
これは、日系アメリカ人のジュリー・オオツカ氏によってもともと英語で書かれた小説で、
日本語では、『屋根裏の仏さま』というタイトルで出版されている。
http://www.shinchosha.co.jp/book/590125/
渡仏したばかりの頃、
演劇で扱う作品は、難しくても、原文で読む努力をした方がいいのだろうと思い、
辞書を片手に、数日かけて読んでいたのだが、
ある日、母に、日本語訳が出てるものは、日本語で読めばいいのよ、と言われた。
その言葉に、「原文で読破=素晴らしい」幻想が、一気に消え、
フランス語がわかるようになった今でも、
新しい作品に取り組む時は、
まず、日本語訳があるか、アマゾンで検索している。
おかげで、本棚は、古典の日本語訳に溢れている。
そして、今回も難なく発見。
『屋根裏の仏さま』の主人公は「わたしたち」。
20世紀初頭に「写真花嫁」としてアメリカに渡った日本人女性たちを、
作者が「一人称複数形」という一風変わった手法で、見事に書き上げている。
フランスの女性版ゴンクール賞と言われる、フェミナ賞を受賞したこの本は、一度読んだら忘れられない、独特なリズムとメロディーを奏でる、まるで楽譜のような小説である。
過去にも、この小説を舞台化したいと考えた演出家は、多く存在したらしく、
そのつど、作家は、イメージをすることができないと断っていたらしいのだが、
Richardの根気強い交渉の末、アビニョン演劇祭公式プログラム作品ということもあり、
彼女がいつも執筆場所に使っているニューヨークの小さなカフェでの話し合いの末、上演許可がおりたそう。
「写真花嫁」という、いまいち聞きなれないこのワードは、歴史上に実際にあった出来事である。
20世紀初頭に写真だけの見合いで、米国や南米の日本人移住者の元へ嫁いでいった日本人女性たちのことである。
夫となる人のハンサムな男性の写真に希望を抱き、海を越えてやってきた「わたしたち」は、
さえない中年男性たちに迎えられる。
写真は、昔のものであったり、友人のものであったり、本人とは、似ても似つかないものであった。
そして、「わたしたち」には、過酷な重労働と、異国での差別に苦しむ生活が描かれている。
とは言っても、具体的なひとりの「わたし」の物語ではないので、
あくまでも、心地よい距離感のなか、時にはおかしく、時にはかなしく、「わたしたち」の物語は進んでいく。
アジア系俳優中心のキャスティングのなか、
なんといっても、目玉は、アメリカ人役を務める、ナタリー・デセイ氏。
2013年10月にオペラ歌手を引退するまで、
ヨーロッパのトップソプラノ歌手として君臨し、
オペラにあまり明るくない私でさえ、引退が決まってからのコンサートに、
当日、3時間以上並んで、チケットを獲得したくらいである。
引退後は、女優として活動を再開し、今回が女優として3回目の舞台出演となる。
2月に行われたプレ稽古の最後の3日間に合流したナタリー・デセイは、
まさに、スターの風格をまとってはいたものの、
稽古が始まるや否や、
実に痛快な集中力を見せつけた。
そもそも、その日の稽古の課題が、
グループごとに、小説のあるシーンを舞台化するというものだったのだが、
まさかの、ナタリー・デセイと同じグループ。
世界を相手に舞台に立ってきた彼女は、
経験値の全く違う、
自分よりも20歳以上も若い俳優たちに混じって、
ただただ、与えられた時間の中で最高のものを創ろうとしていた。
その姿は、「スター」というよりは、むしろ、「こども」。
私の「スター」に対する固定観念は、その瞬間に音を立てて崩れる。
「スター」になればなるほど、仕事が増える。
仕事が増えれば増えるほど、時間がなくなる。
そのジレンマの中で、高いクオリティーを維持するには、
「今」という時間の密度を最大限まで高めることなのだと、ナタリーの姿勢を見て学んだ。
グループで話し合うときも、
発表前に準備しているときも、
もちろん、舞台に立っているときも、
「今」この瞬間に、「エンゲージ (engage) 」する力が非常に高いのだ。
そもそも、この「エンゲージ」という言葉には、「契約」という意味のほかに、
「戦闘態勢に入る」という意味もあるのだが、
まさに、「戦闘態勢に入っている」時間が非常に長い。
物事、もしくは、誰かに対して、その瞬間、どこまで深く関わることができるか。
流れている時間の長さを変えることはできないが、
流れている時間の「密度」は変えることができる。
こうやって、「スター」たちは、「密度」を上げることで、
他の人の何倍もの時間を、
創作に費やしてきたのだろう。
演劇は、スマホ的効率の良さに対して、対極に位置する芸術だ。
スマホ世代の私たちは、
だからこそ、スマホで簡単に繋がることができる外の世界ではなく、
まず、「今」「ここ」にエンゲージする力が必要なのだ。