先日、30歳になりました。
20代の後半は、長い間、どのようにしたら人生における「軽さ」を得ることができるのかということをずっと考えてきて、
30歳の今、一番興味があることは、
他者との「違い (differance)」を、いかに「多様 (diversity)」と捉えられかということ。
簡単にいってしまうと、
私とAさん、二人の間の「違い」は、
3人目のBさんが入ってきた途端に、
私とAさんとBさんの「多様」として捉えることができるということ。
日本のような単一民族国家にいると、これはよりいっそう捉えにくい感覚だと思うのだが、
フランスのような多民族国家にいても、端的にしか、他者との違いを「違い」としてしか捉えられない場合が多い。
例えば、恋人と一対一の関係にあったとして、
その恋人を他者として捉えた時に生じるものを、
「違い」と捉えるか、あえて、「多様」と捉えるかで付き合い方が非常に変わってくる。
ふたりの関係においても、「多様」を認められるということは、
単純に「主体」が変わってくるということ。
「違い」をフィーチャーする限り、主体は「私」である。
ただ、「多様」の主体に、「私」はなることができない。
「多様」における「私」は、あくまでも、複数の中のひとりにすぎないのだ。
そんなことを考えながら、誕生日を迎えた私に、空から降ってきたようなプレゼントは、
2015年に初演を迎えた、ジェローム・ベルの『GALA』
https://www.theatredurondpoint.fr/spectacle/gala/
アマチュアからプロのダンサーまで、様々な性別、年齢、身体を持つ出演者で構成されるこの作品、
なんと、2018年1月、地元埼玉で上演されるようです。
ジェローム・ベル 『Galaーガラ』@彩の国さいたま芸術劇場
彼らの脅威の存在感とパフォーマンスは、
プロの俳優にとっても、「大事件」になること間違いなし。
まさに、他者との「違い」を、頭ではなく、経験として、
「多様」と捉えることのできる、恐ろしいほどに秀逸な作品。
20代は、アクセル全開。
いろんな人に出会って、いろんなものに出会って、
失敗しても、原因追究にかける時間もないまま、
また突っ走って、失敗した。
例えば、他者と分かり合えないときに、
すぐに、話し合うこと、
自分の意見を伝えることが、正義だと思って生きてきて、
ただ、ここにきて、
この自分の信じてきた「正義」に対して、行き詰まりを感じていた。
そこで、30代は、「ブレーキ」の機能を持ってることを思い出す。
他者との「違い」を「多様」と捉えるとはどういうことか。
それは、主体を「自分」ではなく、「他者」おくこと。
いったん、ブレーキを踏んで、
相手の環境、状況、そして、価値観に心を傾けてから、
相手の意見を聞く。
昔、小学校の先生が、人の話は、耳ではなく、心で聞け、と言っていたのを思い出す。
それは、「違い」を「多様」に置き換える作業だったのかと思う。
人の意見を、ちゃんと聞くための準備。
その準備をするために、そっとブレーキを踏む。
人の話は、「聴いて」から、「聞く」
「違い」を認めることは、なかなか難しい。
でも、「多様」となれば、認めないわけにはいかない。
なぜなら、その中に、自分も含まれるのだから。
30歳の貫禄が、全くみられない私。
お誕生日のメッセージありがとうございました。