観客で客席が埋め尽くされたのもつかの間、
なんの躊躇もなくつかつかと舞台に歩いてきたのは、
身長100センチにも満たないであろう女の子と、もう少し大きな女の子ふたり。
ガイアちゃん8歳、フィオナちゃん10歳。
舞台上に置いてあったマイクを、
舞台上の行動としては、「雑に」拾い上げると、
「私にとっての演劇」を体をぶらぶらしながら(と言っても、彼女たちにとっては、最も適した身体の状態)話し始める。
あまりのたどたどしさに、もちろん観客からおのずと笑みが溢れる。
客電は点きっぱなしなので、もちろん、舞台上の二人にも、観客の反応は見えているはずだ。
それぞれが語り終わると、彼女たちのタイミングでダンスのシーンに移行する。
二人は、ある一定のお約束のもと、交互に身体を動かし、もう一人は相手をコピーする(しようと努める)。
http://fta.ca/spectacle/spoon/
フランス出身、モントリオールを拠点とし活躍するアーティストNicolas Cantin(ニコラ・カンタン)が選んだ今回の作品のコラボラターは彼女たちふたりである。
前々作は70代の俳優と、前作は30代、そして、今回は、ふたりの子どもと移行していることに特に意図はないという。
彼女たちの舞台での存在を通して、
俳優としては、演出家ニコラのポジションを考えずにはいられない。
何しろ、彼女たちのそれぞれの地図(俳優が上演時間中に行うべき行程)が全く見つけることができないのだ。
自分が俳優として、稽古中に意識して到達しようとしている場所は、いかに、演出家からの指示を自分の身体に混じらせていき、外からは見えなくしてしまうかということ。
ただ、彼女たちの場合、「演出」という概念がないので、
俗にいう「きっかけ」が一切見えないのである。
何か、舞台を見ている時に、気持ちのいいリズムを感じることがあると思うのだが、
彼女たちの「きっかけ」は彼女たちにとって、一番適切なタイミングのため、観客は完全に振りまわせれている感覚に陥る。
まさしく、この観客を「安心させてくれない」感じこそが、俳優がどんなに頑張っても子供と動物には勝てない、と言われる所以であろう。
しかし、ただ、子どもを舞台の上に立たせて1時間観ていられるかいうとそうでもない。
そもそも、演劇は特権階級的な考えに基づく古くからの歴史がある。
「見せる」俳優と「見る」観客の間に生じるヒエラルキーをどのように壊すか。
例えば、美術の分野でいうなら、「美術館の中では、私語は慎む。そして、作品に触れてはいないけない。」という慣習が産み出した、アーティストとそれを見るものの間に存在するヒエラルキーである。
静寂を強要された空間で、観客は、作品を共有するというよりも、おのずと「享受」する立場に回されてしまう。
彼女たちが身体をうごかしたり、スピーチをしたり、舞台上で行われたすべてのアクトに対して、意図は確実に存在していた。
ただひとつだけ特異な点があるとすれば、「見せる」意識が完全に欠落していたことである。
それによって、観客の立場は、ただ、作品を享受する立場から、彼女たちと同じレベルでこの作品をサポートする重要なひとつの要素に転換されたのである。
俳優はどんなに頑張っても子供と動物には勝てない。
しかし、俳優が持つ舞台上での責任感を少し観客に肩代わりしてもらえた時、
もしくは、肩代わりしてもらう勇気が持てた時、
彼女たちの魅力に近づくことはできるのかもしれない。