ある日の電車の中。ガタンゴトン、ガタンゴトンという一定のリズムに揺られている。
唐突に、となりに座っているいた人が音もなく立ち上がり、
服を脱ぎ始めたらどうするか?
驚いて、あたりを見回すと、
斜め前の座席に座っていた人も立ち上がり、彼もまた徐に服を脱ぎ始める。
そして、すっかり全裸になるとまた座席に座りなおす。
デンマーク出身の振付家Mette Ingvartsenの『7 Pleasures』は、
例えるなら、まさにこのように幕を開けた。
http://fta.ca/spectacle/7-pleasures/
モントリオール初演となるこの演目は、2015年に初演を迎え、
すでに、ダンス界では一目置かれるリパートリー作品となっていた。
数年前から、私の舞台芸術版『観ずに死ねるか!』リストに入っていた作品である。
FTAでの初日、もちろんチケットは完売。
当日券の列ができている。
この日にモントリオール入りして、チケットのなかった私に天使の手が現れる。
会場に行こうと道に迷っていたところに、声をかけてくれたフェスティバルスタッフが、
チケットの世話までしてくれ、どこからか入手してきた。
海外で路頭に迷っていると、いつだってどうにかなるから不思議だ。
開場は開演5分前。
客席への扉が開かれる前から、
深夜のクラブを思わせる音楽が漏れている。
爆音が鳴り響く中、客席へ。
舞台には、洗練された家庭のリビングを思わせる家具が置かれている。
客席がいっぱいになり、
爆音の音に負けずと、談笑を続ける観客たち。
そろそろ開演かなと思う間も無く、
同列に座っていた男性が、徐にたちあがり、滑らかに服を脱ぎ始める。
あまりの自然さに、ただただ目が点。
客席前方に視線を移すと、すでに別の女性が、トップレスになっていて、
まさにズボンを脱いでいるところだった。
同列の男性に視線を戻すと、
すっかり全裸になって、また何事もなかったかのように、
私たち観客たちと一緒に座っている。
私の周りに座っていた高校生ぐらいの女の子のグループは、
視線のやり場に困りながら、
他にリアクションの仕方がわからないといった様子で、
互いに顔を見合わせながらくすくすと笑いあっている。
数分後、ようやく、観客が、
パフォーマンスがすでに「開演」していたことに気づいたころ、
彼らは、また立ち上がり、観客の間を縫って、客席から舞台に向かう。
性器丸出しの男性に、席をたって、(思わず下を向いてしまいながら)通り道をつくってあげた経験は、
未だかつてなかったと思う。
さっきまで、舞台上ではなく、自分たち観客と同じ空間にいた、
12体の裸体が、舞台の上で、重なり、離れ、そして、また群れとなり移動していく。
60 年代、すべての人間が所持している「身体」は、
なによりも政治的な存在であった。
この政治的発言権を持つ「身体」を使って、
新しいコミュニティの形を提示することは、彼女にとって必然であった。
そして、現在、政治とセクシュアリティ、政治と身体、そして、裸との関係は、さらに複雑なものに変化していると語る。
資本主義社会において、私たちの身体は、身体そのものというよりも、身体が与える「イメージ」がどのように「生産」されるかということにその存在を左右される。
例えば、セクシュアルなイメージを付加された身体を用いた広告で、性的欲求を誘発することは簡単なこと。
この作品において、彼女がうたいたかったことは、
社会において定着してしまった、「身体」のイメージの修正である。
難しい話はさておき、
舞台芸術作品の「始まる」瞬間、
つまり、観客と作品、二つの空間が「融合」をし始めるその瞬間が、
いかに重要かということをアーティストとして再認識させられた時間だった。
舞台芸術に関わるアーティストは、客入れ、そして、舞台の始まりを彼らが客席で待つ時間、そこまでオーガナイズできる権利を持っている。
もちろん、その権利を行使するかしないかは、アーティストの自由として。
少なくとも、自分と同じ立場、もしくは、空間を、その他複数の人間とともに共有していたひとりが、
ある瞬間に、「服を脱ぐ」という特殊な行為を行ったことで生じた「違和」は、
上演中、消えることは一度たりともなかった。
少なくとも、あの瞬間、
客席は、「フィクション」を享受するというお約束のもとに、守られた場所ではなくなっていた。
電車と同じくらい、日常でありながら、
少しでもおかしなことが起きた途端にその均衡は崩れてしまう可能性を秘めた、実に不安定な空間であった。
このようにデザインされた空間に立ちあえるということは、
舞台芸術という分野でしか、味わうことのできない最高のご馳走である。