日本で俳優をしていた時から、よく考えていたことなのだが、
自分はなぜ演出家を尊敬しすぎてしまうのかとよく自問していた。
そして、尊敬してしすぎてしまう関係に限って、俳優としてのいい仕事ができていなかったというのが実態である。
当時は、自分も若かったし、演出家が年上の場合が多かったから、年齢差とか、
もしくは、演出家と劇作家が兼任している作品が多かったから、知識量の差だとか安易に考えていた。
ただ、最近、公演以外の時に自由な時間ができ始めてわかってきたことがある。
なぜ、俳優が演出家に対して、なんとなく自ら下の立場にたってしまうか、それは、作品に対する仕事量、つまり、作品に対するコミット量の差からきているのである。
現在、私は、ツアーの間に、ソロ作品の稽古をしてる。
この12月の初めから定期的に、演出家とふたりで定期的に会って、稽古をしているのだが、
私が、よく自問していた演出家とのヒエラルキーを感じたことは一度もない。
どう考えても、経験的にも、年齢的にも、彼の上ではあるが、
作品に対する仕事量が、内容は違うにせよ、ほぼ同等なのである。
例えば、助成金、もしくは、稽古場申請の企画書も、もともとは、私の企画であるので、二人で行う。
連日の稽古の時は、翌日までに、私はセリフを覚えてシーンを進め、演出家は、私が書いた脚本を脚色し、書き直していく作業をする。
それに対して、大きな作品に関わっている時は、
俳優一人当たりが、作品に対してコミットしている量(時間)と演出家ひとりが抱える仕事量(時間)が同等になることはまずない。
どう考えても、忙しさも、責任の量も変わってくる。
それを、肌で感じとっている俳優たちは、なんとなく、演出家を社長のように祭り上げ、俳優という自分の立場を下の方においてしまう。
ただ、これは当たり前のことで、受け入れるものなのだ。
たとえば、ツアー中、フランス人の俳優は、昼間、なんもしないで寝ることも立派な俳優の仕事のうちと聞いて感銘を受けたことがある。
まさに、これは、日本人的なのかもしれないけれど、忙しい=偉い、という方程式からどこかで解放される必要があるのだと思う。
同時に思うのは、内容が異なれば、演出家の仕事(作品創作)に対するコミット量と俳優の自分の仕事(日々の訓練など)に対するコミット量を同等にすることは可能であるということ。
例えば、演出家の主な仕事は、作品創作に直接的に結びつくものが多いのだが、俳優の場合はそうではないということ。
稽古以外の時間に、身体を調整すること、精神を健康に保つことを、コミット量に含めることは可能である。
今週は、ツアーがお休みなので、ソロ作品の稽古をパリで行っているのだが、演出家が作品につけたタイトルがこれからの自分の俳優としての居場所を示唆するようなものだったので、やけに気に入った。
“Kyoko Takenaka Do It Yourself”
つまり、日曜大工でいうところの D.I.Y.である。お金を払って、人に何かをやってもらうのではなく、自分で何かを作ったり、修理したりすること。
そもそも D.I.Y.の理念は、「(ひとまかせにせず)自分でやる」ということ。
俳優を一時的なものではなく、長期的に続けていくということは、どこかで、D.I.Y.俳優にシフトしていくということだと思う。
そもそも、D.I.Y.という言葉はパンクミュージックの世界では、アンチ消費主義を唱えている。
演出家に選んでもらう、演出家に教えてもらう、演出家に指示してもらうことを待っているだけでは、俳優は確実に消費される。
インターネットの普及に伴って、社会では一足先に、D.I.Y.が定着してしまっている。
就活で入りたい会社がなかったら、自分で会社をつくってしまう若者たちが出てきている時代だから、私も頑張ってもがこうと思う。
オーディションは、その場でもらったセリフがうまく発音できないし、あんまり感じよく話せない、配役されても、フランス語がまだまだ下手だから、セリフは少ないし、だったら、自分にセリフを書いちゃおう!そして、演出家を私がキャスティングしてしまった!
そして、D.I.Y.俳優たちの行為が、同じ志を持った人たちの仲間集めのプロセスになることを切に願う。これは、まだ先の話か。自分自身がまだD.I.Y.俳優になれてないわけだから。
そんなこんなで、これから稽古に行ってきます。