10月から始まったツアーもそろそろ30公演を超えようとしている。
人間は慣れる、そして、黙っていても勝手に上達する生き物なので、
回数を重ねれば、意図としなくとも作品の回転がスムーズになっていってしまう。
ツアーに入ってから、会場ごとに技術スタッフとの合わせの時間はあっても、稽古の時間は一切なし。
プラスに出るところもあれば、システマティックになってしまい面白くなくなってしまうところもあるので、演出家と共演者との綿密なディスカッションが欠かせない。
そして、この作業が、私は大の苦手である。
自分を振り返ることはまだできるし、共演者にアドバイスしてもらえたらとてもありがたいし、自分が出ているシーンの肥やしになるのだが、相手に対して、自分の意見を言うということがなかなかできない。
おそらく、自分のことを下っ端だと思っていやっているから、他の人に対して対等に意見を言うことを、こころのどこかでおこがましいと思ってしまい避けてしまっているのだと思う。
私たちは、ただいい作品を創るという目的のためだけに、集まってきた人たちなのだから、年の差とか、経験の差とか、一切のヒエラルキーは、なんの役にも立たない。
頭ではわかってはいるものの、いい年して、自分を下っ端にみる症候群が治らない。
例えば、4時間のこの作品の中で、私の山場となるのが、神話をもとに書かれたシーンで、姉の夫に監禁され、暴力とレイプを繰り返され、最終的に、舌をかっ切られるというシーンがある。(ちなみに、このシーンが唯一ホラー映画仕立てになっているだけで、全く暗黒な作品ではありません。)
舌をかっ切られる前に、数分暴力的なシーンが続いて、私も、オウィディウス『変身物語』のオリジナルテキストを叫びながら、ワインの瓶(偽)で、相手の頭を殴ったりする。
ただ、どうしても相方が男性役なので、演技云々の前に彼の方が力が強い。
慣れてくるにしたがって、暴力がフィクションを超えてしまうことがたびたびあった。
私が、すぐに、相手にそのことを言えなかったから、あざができたり、頭を打って脳震盪をおこしかけたりした。
そのあとに続くシーンも演技で泣きながら再登場するところに、本気で身体が痛くて泣いて出て行ったこともあった。
演出家に相談したら、俳優同士の信頼を築く上でも、まずふたりで話したほうがいいと言われた。
話してみて、ちょっとうまく伝わらなかったりしたら、3人で話そう、と言われた。
年上の俳優の人にも、映画と演劇を分けて考えなきゃいけないのは、この部分と言われた。
映画は、一回のカットのために渾身を込めて演じて、迫真に迫る演技が撮れたら成功かもしれない。
ただ、演劇の場合、「再生可能なシステム」を探していくことが俳優の重要な仕事の一部になってくる。
観客が圧倒されるような過激なシーンができたとしても、怪我をしたり、精神的に追い詰められたり、それが、毎日続けられないものだとしたら、そのシーンは、成立していないのと同じ。
相手役の俳優とマイクを付け替えるときにたまたま一緒になって、
勇気を出して、頭が床にあたって、かなり痛いから、そこの部分だけは変更したいと言った。
彼の方としては、そこまで強くやっているつもりがなかったので、びっくりして何回も謝られた。
もちろん、わざと相手役に怪我をさせてやろうなんて思っている俳優なんていない。
ただ、人間だから、いい作品を創るために、限界を超えたくなってしまうものなのだ。
一人で限界を超えるのではなく、チームでしか、限界を超えられないが演劇だと思う。
一人では頑張れないということこそが、俳優の難しいところでもある。
ただ、演出家の言う通り、シーンを調節していくことは、俳優の仕事だと思ったし、やってみたら簡単なことだった。
その次の回で、私は、もうどこも痛くなくて、清々しい気持ちで、休憩中に、身体中に付いた血糊を洗い流していたら、演出家が楽屋に飛んできて、怪我してない!?と言いに来た。
え、全然、順調です。と言ったら、
いやー、信じちゃったなー。って。
これが、演劇の力だ。
4月から始まるオデオン座での1ヶ月公演にむけて、今から、身体的にも、精神的にも、「再生可能な演技」にどこまで持っていけるかが勝負だ。
ブザンソンの朝。