怒涛の2016年下半期が無事に終わった。
今日が、今年最後の本番。
7月にパリに引っ越してきてから、自分のアパートで寝たのは数えるほどだった。
同じ公演を何回繰り返しても、
俳優と本番前の緊張とは切っても切り離せない関係がある。
逆に、十分に緊張していないと、意識が散漫している感じがして、逆に緊張したりする。
11月に学校でのクリエーションのツアーを終えて、
本格的に学校と離れてから、
理由なき鬱期に突入し、
今まで3年間少しづつ少しづつ積み上げてきた自信が一気に崩壊した。
自信というものが、ここまで確信のないもので、迷信的な存在だとは思わなかった。
理由のある鬱はない。
芥川が、手記の中に書き残している不安のかたちこそが、
鬱の根源であると思う。
”少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。
何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。”
6月に学校を卒業してから、すぐに仕事が始まって、
演出家にも、共演者にも恵まれて、
最高の環境で、クリエーションをして、
新しいアパートに住んで、
家に帰るといつも温かい食事が待っていて、
こんなにぜいたくなことはないと、いつも感謝しながら、
心の底では、全く自分を肯定することができなくなっていた。
いつだって、戦うために必要な涙を流してきたのに、
流れていることさえ気づかないような役立たずの涙が音も立てずに頬を伝った。
俳優にとって、はったりでも、「自分イケてる!」って思えずに、
舞台に立つことは、苦行でしかない。
私の場合、今の作品にも、演出家にも、共演者にも、スタッフにも、心から好意を持っていて、
その中に存在する自分だけに、好意を持つことができなかった。
俳優が、他者からの評価との付き合いかたに注意しなければいけないのはもっともだけど、
私がいつも心がけているのは、
3方向からの評価を決して、混同しないということ。
演出からの評価、
観客からの評価、
そして、自分からの評価。
これら3方向からの評価に向き合っていく、それぞれの姿勢が必要であると思う。
その中でも、最もデリケートで、私の中で重要な場所を占めているのが、
自分からの評価である。
観客に喜んでもらえても、演出家にほめられても、自分自身で納得のできるものができないと、ずっと満足することができなかったい、それでいいと思っていた。
ただ、自分に厳しくあることとか、周りの俳優たちに圧倒されて、自分を下手だと思うこととか、下手すると、なんで自分なんかがこの場所にいるんだろうと疑問に感じることとか、
自分に集中しすぎる態度って、果たして「謙虚」、または、「誠実」と言えるのだろうかという疑問にぶち当たる。
これって、もしかして、逆に「傲慢」??
組織の中での、自分の小ささを嘆いて、縮こまるよりも、
小さな自分だからこそ、
組織に向かって、心も体もひらいていく必要がある。
俳優っていうと、「努力」とか、「鍛錬」とか、
精神論的なものがつきものだけど、
果たして、私たちの仕事ってそんなにミステリアスなのか?
決まった時間に、観客と俳優とスタッフが待ち合わせて、一定時間の間、「物語」が始まる。
そう考えると、実はとっても数学的。
もちろん、人間だから、落ち込む日もあるし、自信がなくなる時だってあるけれど、
それらに対し、感情を表す形容詞を使ったところで、絶対に解決しない。
うまくいかないシーン、もしくは、居心地の悪いシーンがあるならば、
共演者、もしくは、演出家とも話し合い、
再度、稽古の時間をとって、調整していくのみ。
ある作品において、ひとりの俳優だけが、下手ということは、演劇的にほぼありえない。
解釈、もしくは、共演者との間に問題があるだけ。
すべての問いに、答えがある。
どんな難しい数式にも答えがあるように。
ただ、明確な問いがなければ、正しい答えは導き出せない。
文系と思われがちな「演劇」だからこそ、
舞台の外では、「理系」でクールな「演劇」との付き合い方が必要なのではないか?
俳優が抱える問題は、感情論で押し込めようとするのではなく、
具体的に、まずは、問題をクリアにし、そこから、他者と話し合う。
個人プレイの仕事ではないので、少々めんどくさいけれど、これらのステップを確実に踏む必要があると実感する今日この頃。
「感情」と対峙して仕事をするのは、あくまでも、舞台の上の話。
舞台を支える、舞台の外での土台は、不安定な「感情」抜きに、きっちり数学的に設計していくこと。
そんなこんなで2016年度のツアー終了。
来年はまた年明け、文化都市ナントからスタート。
とりあえずは、ほっと一息。