地獄のクリエーションが続いております。
土曜日は毎週、ランス市民に公開リハーサルが催され、先週末は、2階席が埋まるくらいの人がやってきて、びっくり。
フランスの公共劇場は、すべて年間単位でプログラムが配られているので、来年6月までの分厚いプログラムが、各地にも、すでに配られているそう。
まだ、今シーズンオープン前だというのに、連日、年間通しチケットかったり、早割引などの予約をしに劇場に足を運ぶ人の姿が絶えない。
これはフランスに限ったことじゃないと思うけど、私たちの座組の特徴はとにかく、俳優とスタッフの垣根がないということだと思う。
大きな現場になればなるほど、スタッフとのチームワークでしか、作品は成立しないので、必然的に関わりが強くなるため、仲が良くなる。
例えば、本番前の小道具などのプリセットも最初のシーンを覗いて、あとは、すべて美術スタッフが転換ごとに舞台裏をセットするので、彼らに任せるしかない。
休憩中も、稽古後も、休日も、俳優・スタッフ混ざって過ごすことがとても多い。
まさに、大きな作品を創るということは、信頼の輪を大きくしていく作業と実感する毎日。
そんな新たな発見があった今週は、シェイクスピアに悩まされまくった1週間だった。
そもそも、シェイクスピアと言ったら、ロミジュリ(ロミオとジュリエット)、そして、夏夢(真夏の夜の夢)というぐらい、いま、私が挑んでいる夏夢は有名な作品だから、なんとなく内容を知っている人は多いと思う。
演劇をやっていなくても、シェイクスピアの文章を読んだことがある人はいくらでもいると思うし、研究者もたくさんいるだろう。
しかし、俳優にとって、シェイクスピアほど、難解な戯曲はないと思う。
フランス人、おそらく、ヨーロッパの俳優にとっては、シェイクスピア作品は、日本人俳優とはまた明らかに違った距離感が見られる。
イギリス人とフランス人の間にも、もちろん差異はあるだろうが、シェイクスピアの言語に対する「背負い方」のようなものが、私たち日本人とは圧倒的に違う。
そして、その台詞の「背負い方」が、現在、私は、全くつかめないでいる。
特に、夏夢に関しては、幻想的で詩的な台詞が多いため、叙情的な(いかにもクラシックな)演技になりがちなのだが、だからこそ、どこまで具体的に台詞を話せるかが重要。
台詞の強度に負けて、相手と演技ができなくなった瞬間に、シェイクスピアのほくそ笑む顔が見える。彼の文章を味わうだけなら、むしろ家でひとりで読書にふけった方がいい。
それでも、シェイクスピアは、「演劇」という媒体で人々に自分の文章が届くことを選んだ。
おそらく、私が演じているのは、夏夢の中で一番台詞が少ない役だと思うが、その究極に短い台詞が言えない。もちろん、もう数ヶ月も前から暗記しているし、発音も完璧なはずなのだが、ここまでくると、舞台で言葉が通じないのは、発音のせいではないと断言できる。
たとえば、フランス人が私と同じ台詞を話したとしても、その人が自分の解釈なしに、ただ、台詞を暗記して台詞を扱っていたら、やはり観客にはなにも伝わらないのである。
大きな劇場で、自分の台詞が、すべて同じ音のようにただ響いて、自分の耳に聞こえてくる感覚は何事にもなして耐えがたい。
まずは、クラシック特有の調子の取り方や、声の出し方から、解放されること。
共演者に手伝ってもらいながら、ひたすら、台詞を「歌う」のではなく、「話す」訓練。
声に出しても、出しても、正直、シェイクスピアの美しすぎる旋律が、なにも響いてこない自分の身体が恨めしくて涙が出る。
「私たちフランス人だって、シェイクスピアの台詞になったら、自分の国の言葉で話してるとは思えないんだから、あなたがそんな簡単にできるわけないでしょ!」と笑われる。
4行の台詞に1時間かけて、ようやく、台詞を「話し」始められるようになった。
今回の共演者たちの居心地がいいところは、なにしろ、みんな職人気質であること。精密に精密に、シーンを創っていく。そして、職人気質を保ったまま、クリエーションができる環境が用意されていること。