最近、稽古をしながら、よく演技の「再現性」について考える。
そもそも、日本で大学の外の公演に出演しはじめたときに、
自分の演技の不確定性に、公演期間が延びれば延びるほど危機を感じ、
早く言えば、このままだと、お金を稼いで生きていけないと思い、
渡仏したわけだけど、
5年もかかって、ようやく、日本にいたときの自分の当初の課題にぶち当たるとは、
なんとも、遠回りをしたものである。
とはいえ、今になって、6月に控えた3週間公演と、11月のツアー。
また、別の作品での1年契約など、
人間、目の前に壁が迫ってきたからこそ、
腰をすえて、どうその壁をよじ登ろうかと考えられる。
というわけで、最近、常に課題にしているのが、
稽古の段階から、100回公演を前提とした、
演技を構築していくこと。
たとえば、今回の作品では、
男女の殴り合いに近いような壮絶な喧嘩シーンがある。
演出家と、相手役の俳優と、
5時間くらいかけて、ベースとなるシーンを創り上げた。
演出家から、Okも出てなかなかいいシーンができたものの、
俳優にしかわからない、身体のコンディションとしては最悪。
あえて、身体を硬直させて、声を張り上げるため、
喉は、心配だし、
激しい動きに翌日は、予想どおりの筋肉痛。
これぞ、「10回公演ならぎりできるけど、100回公演は無理な演技」の典型。
ここから、演出家抜きで、
相手役の俳優と何回も繰り返し、
同じシーンのリズム、演出、エネルギーを保ったまま、
自分の身体に一番負荷がすくない場所を探していく。
その中で、完全に、100回あったら100回同じように演じる必要があるポイントを決める。
特に、序盤。
序盤のリズムが正しければ、後半、幾つかフリーゾーンを残しておいても、
演技をガチガチに固めることなく、
フォームをつくることができる。
なんて、まだまだ分析途中。
そういえば、以前、宮本武蔵『五輪書』に関わる、
作品の翻訳を頼まれたときに、
少々勉強したのだが、
地の巻で、この「リズム(拍子)」について、宮本武蔵が書いていることがとても興味深く、演技へのヒントも盛りだくさんだった。
「何事についても、拍子(リズム、テンポ)があるものだが、兵法では拍子が大切であり、これは鍛錬なしには達しえないものである。
拍子がはっきりしているのは舞踊や音楽などである。
これは拍子がよく合うことによって、調子よくおこなわれる。
武芸の道について、弓を射、鉄砲を打ち、馬に乗ることまでも、拍子・調子がある。
いろいろな武芸や技能について、拍子を乱してはならぬ。
二天一流の兵法の道は、朝に夕に、たゆみなく実践することによって自然と心が広くなり、集団的あるいは個人的な兵法として、世に伝えられるのである。」(宮本武蔵『五輪書』より抜粋)
以前は、いい俳優とは果たして毎公演同じ演技ができる俳優なのか、ということに、常に疑問を抱いていたけど、
実際の演劇マーケットは、作品の内容に関わらず、
上に行けば行くほど、
「再現性」、つまり、長期にわたる公演期間に耐えられる俳優が必然的に必要となってくる。
ここでいう「再現性」とは、
もちろん、演技のクオリティももちろんだが、大前提として、身体のコンディションを日々「再現」できること。
宮本武蔵のいう「拍子」の概念も同じで、
繰り返される稽古によって、身体の中に、リズムを叩き込む。
一定の「演技」の拍子は、それを刻むことができる「身体」をもってして、生まれる。
私が目指す「再現性」とは、窮屈でストレスフルな絶対繰り返しの演技ではなく、
身体の中に「拍子」があるからこそ、毎回自由にやっても狂わない「演技」のことなのではないか。
とりあえず、言葉で、ごちゃごちゃ言ってもしょうがないので、
自ら実験台となり最善を尽くします。