日本で問題になっている全人格労働の過酷についての記事を読みながら、
先週の稽古について振り返っていた。
はっきり言って、先週一週間の我々のスケジュールも、
いくら学生とはいえ、
全人格労働だった。
稽古といっても、映像スタッフとのテクニック合わせが中心だったので、
きっかけ合わせにほとんどの時間が費やされる。
月曜日に渡されたプランニングは、
脅威の10時開から深夜24時まで6日間連日。
木曜日には、24時稽古終了後から、
さらに翌週の映画撮影の打ち合わせが始まり、
帰宅は深夜2時近く。
自分たちがクリエーションに直接関わっていれば、
時間が過ぎるのもあっという間だが、
テクニカルスタッフとの合わせとなると、
待ちの時間も含め、
疲労感が溜まる一方。
週の後半にもなると、
みんなの人格もすこしづつ変わり始め、
ちょっとのことでいらいらしたり、泣き出したりする人、さらに、倒れる人まで続出。
この作品の演出は、
このブログでも、登場回数多数の我が校長が担当しているのだが、
普段は、友達みたいな校長と私たちの関係にもひびが入るような出来事が。
ひとりひとりが、疲労も手伝って、
生産的な空気を出せなくなってきていた週も後半にさしかかった深夜23時、
一人が、もうこのままだと我慢できない(さまざまな理由はあった)から、
終わった後ふたりで話す時間をください、と稽古中に校長にいきなり申告。
そもそも、校長が私たちの学校に就任してから、
一貫して言い続けてきたのは、
演出家と対等にクリエーションができる俳優になること。
(過去のブログ:演出家とうまくいかない時、俳優はどうしたらいいの?)
このブログでも、さまざまな方法で、
俳優と演出家の間にヒエラルキーが生まれないような創作現場を作るための俳優の意識や態度というものを考えてきた。
ただ、ここにきて、私たちと演出家である校長の間に、
良好「すぎる」関係が生まれてしまったようだ。
翌日、校長は、稽古前にミーティングを提案し、
ゆっくり時間をとって、私たちと話し合った。
今までだって、彼は一貫して、私たちの要望に耳を傾ける姿勢をとってきた。
その中で、
少しづつ、
見えないところで、
私たちの態度が、
「率直」が「無遠慮」に、
「親密」が「傲慢」に、
「信頼」が「甘え」に、
変容していってしまったのではないかと思う。
前日、校長と彼女の間では、
暴力的ともいえるようなディスカッションが交わされたらしく、
彼の私たちへの「愛」が、
こういうかたちになってかえってきてしまったことが正直ショックだったと話していた。
校長自身も、私たちとヒエラルキーのない関係を目指していただけあって、
自分自身、距離を縮めすぎてしまったところもあると言及。
毎日顔をあわせる10人とも、
話せば話すほど仲良くなった校長とも、
関係が近くなればなるほど、
一緒にいる時間が長くなればなるほど、
「他者」ということを常に認識し続けなければいけないのだと思った。
起きてる時間以外ほぼずっと行動を一緒にしているメンバーとの生活。
気がつけば、
主語が「私」ではなく、「私たち」になってしまっていることがある。
校長との関係も、それぞれの1対1ではなく、
無意識のうちに、校長対私たち11人になってしまうことだってあったと思う。
家族も、恋人も、親しい友人も、
関係が近ければ近いほど、
「私のことをわかってくれる」という甘えが出る。
自分の中に彼らを「包括」してしまっているリスク。
自分が、極度に疲れていたり、追い込まれていたりしている時は尚更だ。
そんな時こそ、
彼らの「他者性」を肝に銘じる。
「私」は、「私」しかいない。
つまり、「私」以外は、みんな「他人」なのだ。
小学校の頃に言われてた、
「人に優しくしなさい」という言葉。
あれは、「私」と「他人」を切り離すためのおまじないだったのかも。