世の中には、さまざまな容姿の人がいるように、フィクションの世界にも、さまざまな容姿の人が必要。
とは言っても、実際のところ、
俳優という職業において、
容姿が重視されやすい世界であることには間違いない。
なんだかんだ言っても、外見がものを言う。
日本人以上に、
フランス人の外見は異なる。
俳優の履歴書には、
身長、体重のほかに、
目の色、髪の毛の色と質を明記するのが当たり前。
肌の色だって、さまざま。
そして、
フランス演劇界における俳優の容姿というものは、
日本以上にデリケートなものがある。
特に、古典の場合、
肌の色によって、
ドラマツルギー的に演じることができない役があるという価値観もいまだに存在する。
それを言ってしまったら、
アジア人の容姿をもっている私には、
配役の可能性もないのだが。
つまり、
美人とか美人じゃないの前に、
人種的な容姿の問題も介入してくる。
これらをふまえて考えると、
舞台における
「外見」というものは、
ある種「記号」的なものに変換されるのではないか?
例えば、
二枚目俳優、三枚目俳優という言葉は、
歌舞伎からきているが、
二枚目俳優が必ずしも、美男子だったかというとそうでもないらしい。
歌舞伎特有の化粧法、隈取は大きく分類しても50種類ほどあるという。
隈取は、「描く」ではなく、「取る」と表現されるように、
遠くから見てもはっきりわかるように筋を指でぼかす。
女方を演じる俳優からもわかるように、
どうやら、「美人」は生成可能のようだ。
ここで、私がいいたいのは、
歌舞伎の化粧、身のこなし方からもわかるように、
ずばり、
舞台における「美人」とは、
実際に「美人」である俳優のことではなく、
客席から「美人に見える」俳優のことを指すのではないかということ。
巷では、「雰囲気美人」という言葉があるそうだが、
まさに、舞台、特に、古典作品には、
この「雰囲気」というものが欠かせない。
実際、私が、今回「ダントンの死」で演じた、
高級娼婦マリオンの役も、
いわゆる「美人」要素が必要な役。
はっきり言って、
髪の毛が長いことと、
身体の線が、他の人と比べて細いということだけで、
配役されたようなものだと思う。
あとは、身のこなし、特に手の動きで、
美人じゃなくても、記号的「美人」のできあがり。
俳優、特に、女優にとって、
自らの容姿との関係は、
極めてデリケートである。
「美しさ」の定義を、
普遍的に捉えながら、
つまり、外見で判断されながら、
この職業を続けていくのは、
生半可なことではない。
私の場合、
古典作品における、
先に示した、「記号的な」美しさとの付き合い方(受動的)と、
現代作品における、
「革新的な」美しさへの探求(能動的)と分けるように心がけている。
「革新的な」美しさとの初めての出会いは、
2013年に公開された、
ウッディー・アレンの映画でもおなじみ、
スカーレット・ヨハンソン主演の
『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』という映画である。
ここで、彼女が演じている役は、
典型的な「美人」にしかできない役であると同時に、
恐ろしく歪である。

彼女が演じた「美人」は、
私にとって、
一般的な「美人」の概念を覆す、
まさに、「革新的な」美しさであった。
一般的に美人であろうがなかろうが、
俳優にとって、
「革新的」な美しさを探求し、
自分の容姿を用いて、提示する権利を、
積極的に利用しなければと心に誓った。
しかし、
実際は、
お腹が出ちゃったなとか、
肌が荒れてるなとか、
やっぱり鼻が低いなとか、
そんな小さなことで、
気分が伏せるのが、現実である。
これからは、
年齢と「美しさ」の関係にだって、
首を突っ込まざるを得なくなってくるし、
俳優にとって、
容姿の悩みは後を絶たない。
だからこそ、
安易に、
普遍的な「美しさ」の価値観におどらされることなく、
腹を据えて、
そして、
腹を割って、
気長に付き合っていきたいものである。