土曜日も稽古をしたそうな演出家に、
さりげなく、私の同期がパリで公演するから観に行けたらいいなあ、
とプッシュしてみた甲斐があって、3週間ぶりの土日休み!
木ノ下歌舞伎『黒塚』を観に、
いざ、パリへ。
KINOSHITA-KABUKI Spectacles – 28 > 30 jan. 2016 à 20h « KUROZUKA »
パリ日本文化会館という場所上、
どうしても演劇人よりも、
日本人もしくは、
日本文化に関心があるフランス人が集まりやすいにもかかわらず、
会場は、割と一般的な劇場の雰囲気に近かった気がする。
今まで、日本のカンパニーのフランス公演を数々観てきたけど、
この客層の厚みというものは、
生き物である舞台芸術作品にとって、ものすごく意味を持つものだと思う。
会場もほぼ満員。
木ノ下歌舞伎公演に関しては、
日本でもなかなか見る機会がなく、
今回が初めてだったのだが、
俳優の顔ぶれは、
共演含め、絶対的に信用できる人たちだったので、
フランス人の友人たちと共に会場に向かった。
全く日本びいきではないフランス人たちと、
日本の作品を隣り合わせで拝見するというのは、
少々プレッシャーを感じるものだ。
突如、強いアイデンティティのようなものが芽生え、
目の前にいる俳優たちと一緒になって、
観客の反応を見てしまう。
終演後、会場は、
完全に「劇場」と化していた。
日本文化のひとつのカタチとしてでなく、
純粋な舞台芸術作品としての、
正当な評価、もしくは議論を交わすに値する、
極めてハイレベルな作品であったと思う。
フランス人の友人たちとも、
歌舞伎について、
質問や意見をされるというより、
作品主体のディスカッションがとても心地よい。
個人的には、
出演者5人に完全に圧倒された。
俳優としてのプロフェッショナルの定義を、
いとも鮮やかに提示されてしまった感じ。
私が、フランスに来てから、
ずっと考え続けてきた、
演出家と俳優の関係のひとつの理想的な答えをみたような感覚。
例えば、
フランスの演劇界においても、
造形芸術出身、もしくは、それに近いタイプの作品における演出の場合、
俳優の具体的な「仕事」というのは、
目に入りにくい。
空間の美しさの一部になってしまうことが多い。
観客として、心を動かされたとしても、
俳優として、作品に関わってみたいと興味を持つことは正直少ない。
今回の作品の場合、
観客としてではなく、
いち俳優として、作品から、
透けてみえるような彼らの創作過程に心からの敬意を持った。
一言で言ってしまえば、
演出が一切見えない。
ひとりひとりの俳優たちは、
自身に対する演出家の役目を完全に担っていた。
彼らひとりひとりの能力、もしくは、提案、演出に対し、
演出家は、
夢をみせられ、
感化されながら、
空間を「構成」「構築」する役目を担っているように見えた。
たまに、俳優に自分がやってみせる演出家がいるけれど、
演出家にはやって見せてあげられないことを、
俳優にしかできないことが、
非常に純度が高いかたちで舞台上にあげられていた。
演出家と俳優の仕事は、違う。
木ノ下歌舞伎の場合、
主催の木ノ下さんの「作品の補綴・監修」という立場を含め、
それぞれがみんな自分の仕事をやっている。
完全なるコラボレーションシステムだった。
ただし、
このコラボレーションシステムの成功にあたって、
忘れてはならない要素が、
それぞれのスペシャリティであると思う。
俳優が、自分の仕事に対する、
強烈な責任と能力なくしては、
はっきりいって、このシステムを形成させることはできないと思う。
そう考えると、
自分が俳優として社会に出るまでの5ヶ月の時間に、
ここまで演出家に「夢をみせられる」俳優になれるかどうか、
自分には到底無理なような気もするけれど、
今までも、無理だ無理だと思いながら、
すこしづつ進んできたわけだから、
このタイミングで、「黒塚」という作品に出会えたことに感謝して、
明日からもやるしかない!
2016年、木ノ下歌舞伎は10周年を迎えるようで、
木ノ下”大”歌舞伎として、
日本でもたくさん観劇できる機会があるみたいです。