ときどき、ふと稽古の待ち時間にとてつもなく不安になることがある。
学校という環境にいる限り、
時間は規則的に流れていく。
卒業までの3年間。
長期休暇までの4ヶ月。
日曜日までの6日間。
昼休みまでの3時間。
流れゆく時間に身を任せた途端、
自分の意識とは無関係に、
中身の充実感とは無関係に、
ひとつひとつの区切りが終わっていく。
この枠の中で、のうのうと生きていていいのかなと、
とてつもなく不安になるのだ。
しかし、どんなに無駄な時間だとしても、
学校という環境の中で、
一定の規律(discipline) はとても重要。
ひとりひとりが、自分にためになると思うことだけをやったら、
学校は完全に崩壊する。
しかし、
校長曰く、学校という環境において、
師と弟子におけるヒエラルキーを壊す唯一の方法が、
この「不良」になることだという。
このちょっとびっくりな展開に、
私が最近欲している肖像は、
「考える不良」像。
反射的に、反発するのではなく、
「不良」と「思考」が出会ったらどうなるのか?
以前、フランス語の先生に、
現代の世の中は、
リアクション(反応)に溢れているが、
これらが、リフレクション(熟考)に変わるだけで、
学びの効率が上がる、と言われたことがある。
おそらくリフレクション1に対し、リアクション100くらいの時間を要するだろう。
ちなみに、リアクションは人と一緒にいてもできるけど、
リフレクションは、内省と訳されるように、
一人で考える時間が必要。
どんなに時間を費やしていたとしても、
やれと言われたことのリアクションだけでは、
どんなに頑張っても、
どんなに疲れても、
自分自身の消費にほかならない。
そもそも、私たちの生きている現代社会そのものが、
「質より量」的な社会だから、リアクションに陥るのも無理はない。
リフレクションにシフトした途端、
facebookの友達の数も、
ニュースフィードで読んだ情報量も、
全く価値を失ってしまう。
さて、イギリスの小児科医であり、精神分析家でもあった、
ドナルド・ウィニコットは、ひとりでいる(いられる)能力(the capacity to be alone)という、
素晴らしい論文を発表した人だ。
彼に分析されるまで、
「ひとり」のネガティブな面は言及されても、
ポジティブな側面についてはほとんど論じられてこなかった。
他人とは違う自分を受け入れ、
安心して、ひとりでいることのできる能力。
特に、青年期の友人関係における「ひとりでいれなさ」は、
リフレクションの時間を確実に低減させている。
「ひとりでいられる」ということを支える
他者との「つながり」とはなんだろう?
そもそも、ひとりでいることに、
不安があっては、
豊かなリフレクションは得られない。
ということで、まずは、
ひとりでいられる能力を手にいれること。
不良グループの中にいる、不良よりも、
まずは、
「ひとりで考える不良」
考えたうえで、
それでも、
まだ気に入らなかったら、
その時は、
とことん戦いますとも。
反発しますとも。
そんなことを考えながら、
友達の少ない私の休日の言い訳にする。