当たり前だけど、「言い訳」と「説明」の違いについて。

夏休みに入る前からわかってはいたことでしたが、
無茶苦茶すぎるCarte Blancheが幕を開けました。
Carte Blancheとは、アーティスト自身が主体となって行う企画のことで、
今回、私たちの学校では、
初めて、プロの演出家を招聘しない、
私たちだけの6週間がスタート。
演出家を招聘するのにかかる金額を、
ほぼそのまま私たちに投資してくれる。
長期に渡る話し合いの結果、
完全書き下ろし、全員出演の2作品と、
オプションとして、
私のドキュメンタリーとフィクションの間の映像作品、
『ドキュフィクション』が選出された。
メインとなる2作品は、
クラスのメンバーが自分を除く10人の俳優全員に、
書いた戯曲を、
彼ら自身が演出する。
つまり、5週間で、
全員が、
2作品に関わり、
6週目にモンペリエで公演を行うというもの。
その過程を演出したりしなかったりしながら、
追いかけていくのが、私の初監督作品。
そもそも、映像に関する知識も経験も全くない私が出した、
突拍子もない企画書に、
これまた突拍子もない校長は、
こういう企画こそ、
学校にいるうちじゃないとできないからね、
と言って、
その一週間後には、
校長に雇われた音響スタッフから、
宜しくお願いします、と連絡が来る。
贅沢なだけに、
プレッシャーの多い学校。
それにしても、
朝9時から夜10時まで、
週6日の稽古は、
予想を超えてはるかにきつい。
帰宅後は、毎日、その日に撮った映像を、
編集時のために記録する作業が待っている。
全員が全員いっぱいいっぱいなので、
まわりを見渡す余裕がなかなかできない。
稽古時間以外に、
スタッフとの打ち合わせ、
プランニング作成、
もう片方の俳優としての稽古をこなす、
演出家二人には、
まるで頭があがらない。
稽古開始から10日目にして、
ようやく今の自分を客観することができ始めてから、
「責任」と「言い訳」と「説明」いう言葉を、
反芻している。
演出家と俳優の間に生まれるヒエラルキーについて、
このブログでも何度となく言及してきたのだが、
演出家がグループのメンバーになった場合、
新たな状況が生まれてくる。
それは、
「言い訳」と「説明」の混同である。
例えば、
稽古中に、
演出家に要求されたことに対して、
俳優がその場ですぐに答えられなかったとき、
だんだんとその場の空気が重くなったとする。
演出家にとって一番気になるのは、
俳優がその演出を嫌がっているのか、
それとも単にできないことに腹を立てているのか、
ということらしい。
ここで、
「言い訳」的思考が出てしまうと、
演技が完全にブロックしてしまう。
私の場合、
無意識的に、
あなたの演出のせいで、
うまくできなくなってしまったという色が、
外に出してしまうことがよくある。
演出家との距離が近ければ近いほど、
信頼関係が強ければ強いほど、
この手の傾向に注意しなければならない。
演出家は、
演出家であって、
親ではない。
その場ですぐに答えられないような演出を出された場合、
すこし時間が探す時間がほしいとか、
他の言葉でのイメージを求めるとか、
自分がそこに到達するために必要なヒントを、
こちらから「説明」する必要があるのではないかと感じる。
おそらく、
「言い訳」と「説明」の決定的な違いは、
言葉であるかないかである。
「言い訳」に使われる言語は、
コミュニケーションの道具としては、
みなされないものだと思う。
つまり、
グループに対して、
「責任」を持つということは、
いかに「言葉」をしっかりと使うかということ。
近ければ近いほど、
許容すればするほど、
「馴れ合い」になってしまう可能性を、
孕んでいる。
互いへの敬意を、
「責任」という形で還元するために、
私はもっともっと「言い訳」ではなく、
「説明」のための、
言葉を学ぶ必要がある。
水道管が詰まったら、
水圧を強くして、
無理やりなんとかしようとするのではなく、
詰まってる場所を探して、
めんどくさいけど、
綺麗にすること。
目指すのは、
聞き分けがいい俳優でも、
言い訳がうまい俳優でもなく、
舞台の外でも中でも、
しっかり言葉が使える俳優。

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