2015年8月6日

日本での夏休み、
SEALDsを中心としたデモに参加しながら、
私たちが、今日、
いかに危険な立場に立たされているかということを、
嫌という程、実感させられる毎日。
そして、戦後70年目の今年、
「戦争法案絶対反対」の声が飛び交う中、
念願の広島平和記念式典に参列。
昨晩、広島に到着し平和記念公園を歩く。
実際に目の前に現れた原爆ドームは、
近代化された都市風景の中で、
あまりにも異物であり、
だからこそ、その存在だけで多くのことを、
語っている。
慰霊碑には、
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
責められているような、
または、
試されているような、
気持ちでいっぱいになり、
正直、心が苦しい。
そして、今日、2015年8月6日。
式典が始まる2時間前、
朝6時に平和記念公園に到着すると、
すでに、たくさんの人とたくさんの想いで溢れかえっていた。
ひろしま
昨日立ち止まることができなかった、
原爆ドームの前で、
色とりどりの絵の具をつかって、
原爆ドームの絵を描いている男性。
その絵にわたしと同じように足を止めた、
記者の人が彼に尋ねる。
「何年目ですか?」
「5年目です。」
「そうですか。」
「何もできんからね。」
何もできないと思うからこそ、
何にもならないような、
小さな小さな声を、
上げることができるのかもしれない。
彼が描いたカラフルすぎる原爆ドーム、
「何もできんからね。」と小さく笑って下を向く、
モノクロでしかない彼の小さな小さな存在が、
いっそのことを無関係を装ってしまいそうになる自分に、
しっかりと喝を入れてくれる。
「もし私たちがすべての人の苦痛を感じることができ、
 そうすべきなら、
 私たちは生き続けることができない。」
アウシュヴィッツ強制収容所からの生還者であるイタリア人作家、
プリーモ・レーヴィ氏が、
『溺れるものと救われるもの』で書いた一節。
この一文に、
助けを求める気も、
言い訳のお手伝いをしてもらう気もない。
ただ、今、社会で起きていることに対し、
そして、私たちの過去に対し、
リアクション(反応)するだけでなく、
リフレクション(思考)することを求められた時、
この言葉なしには、
私は、
怖くて怖くて、
その一歩を踏み出すことができないのだ。
戦禍に遭われ亡くなられた方々に、心より哀悼の意を捧げます。

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