鈴木忠志×ピナ・バウシュ:勝手に掛け算されるパリの夜

先週末は、
久々にインプットに全力を注いだ。
来週、本番なので、
当初、週末も稽古を予定していたのだが、
演出家の都合で、
急遽、稽古がキャンセルになったので、
完全完売のピナ・バウシュ舞踊団の公演のため、
3時間半かけて、
パリへ、上京。
20時半からの千秋楽に向けて、
少なくとも3時間前には当日券に並ぶ必要があるので、
昼間は、エネルギーを温存。
ずっと観たかった、
先月23日にゲンロンカフェにて行われたイベント、
鈴木忠志氏と東浩紀氏の対談を、
ニコニコ動画で拝見。
鈴木忠志 × 東浩紀 テロの時代の芸術 ──批判的知性の復活をめぐって
ゲンロンカフェのイベントは、
ほぼすべて、期間限定でネット配信されているので、
海外からもアクセス可能。
対談は、3時間にも及んだのだが、
最初の30分から、
度肝を抜かれまくりで、
メモを取るためと、
頭を整理するために、
動画を、何度も一時停止することなしには、
決して見終えることはなかった。
自分の才能とか、可能性なんて抜きにして、
年を重ねれば、重ねるほど、
「演劇」という芸術媒体の可能性を信じることなしに、
続けることは、不可能になってきていて、
特に、私の場合は、
あと、1年は学生の身なので、
演劇に、利益を求めることなく、
全力投球することも、
時として、無性に恐ろしくなることがありました。
昔、付き合いたての恋人に、
どうして演劇やってるの?と聞かれ、
レボリューション、と答えたことを覚えている。
全く演劇に興味のなかった彼は、
以外に、へー、そうなんだ、と真剣に受け取ってきたので、
「国会も、たくさん人が集まるし、
劇場も、たくさん人が集まるでしょ。
だから、革命できるの。」
と、真面目に続けた。
本当に、あの頃は、
なんの疑いもなく、
演劇が政治と同じくらい、
社会において、力を持っているのだと、
確信していたのだと思う。
そして、
いつのまにか、
演劇を続ければ続けるほど、
どうして、演劇を続けたいのか、
ではなく、
どうすれば、演劇を続けていけるのか、
ばかり、考えていた気がする。
今年75歳になる、
演出家、鈴木忠志氏は、
東氏との対談のなかで、
どこまでも軽やかに、
かつ、一点の曖昧さを残すことなく、
演劇を続ける理由を言ってのけた。
まずは、文化人として、
文化を扱うことが、
社会を考えること。
むしろ、社会を考えるために、
演劇という媒体を選択したそう。
言葉、身体、集団という、
三つの大きな特性を持ったこの芸術は、
社会の中の、
見えてない部分を、
浮き彫りにする手段として、
最も優れているのではないか。
そして、
中でも特に、
印象的だったのが、
「文化」と「芸能」と「芸術」の違いについて。
「文化」は、同じ共同体の中にいる人たちが共有するもの。
同じ価値観を共有していくための教育的側面が大きい。
「芸能」は、同じ共同体を共有する人たちの間で行われる娯楽。
共益のために成立する。
そして、
「芸術」は、異質な価値観を持っている人に対して、
これは、大事なものだと説得する力を持っているもの。
共同体を共有しない人たちに対して、
対話を成立させ、
新しい可能性へ一歩踏み出すこと。
それって、まさしく、
国会を通り越して、
首脳会談に近い影響力を持っているではないか。
私のバイブルと化した、
ニコニコ動画を見終えた直後から、
ピナの当日券のために、
友人とthéâtre de la villeに直行。
3時間前にもかかわらず、
すでに、ふたり並んでいて、
自主的に、当日券リストを作っている。
PINA BAUSCH TANZTHEATER WUPPERTAL
FÜR DIE KINDER VON GESTERN, HEUTE UND MORGEN (2002)
[For yesterday’s, today’s and tomorrow’s children]
g_ThVille15PinaBauschKinder02b.jpg
開演時間を5分過ぎた頃、
当日券が数枚発行され、
なんと、5列目で観劇。
3時間に及ぶダンスを、
身体全体で感じながら、
頭では、鈴木忠志氏の言葉たちが、
目の前にいるダンサーたちよりも、
さらに激しく踊っていて、
肌の内側でも、これが「芸術」なのかと感じ、
肌の外側でも、これが「芸術」なのかと感じ、
完全に飽和状態に陥り、
気づいたら、涙が太ももに溢れた。


客席で、
自分の時間と、
舞台での時間が、
全く別々に流れつつ、
シンクロするような体験は、
本当に久しぶり。
翌日、
また、3時間半かけて、
モンペリエに戻る。
そして、
今日からは、
「文化人」ではなく、
「芸術家」として、
続けるための演劇ではなく、
社会の中で、
胸を張って生きていくために、
それでも、演劇が必要なら、
私は、演劇を続けていくのだろう。
それにしても、
センスという言葉は、
ラテン語の「sentīre」(感じる)という単語が語源になってるそうだけれど、
だとするなら、
ゲンロンカフェという場所の「センス」には感歎。
この「場所」から、
これから、どんなものが産み出されていくのか、
目が離せない。

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