土居健郎『「甘え」の構造』と、ヒエラルキーの不在。

一週間の芸術理論に関する授業。
フランスの国立高等演劇学校では、卒業時に、
大学卒業資格を得ることができるので、
同時に大学に登録します。
年間前期後期合わせて、50時間の授業に加え、
課題(作品)を提出することで、
必須単位の代わりになる。
ちなみに、最近は、政府の管理が厳しくなったそうで、
英語の授業も追加されました。
フランス語で学ぶ、忘れかけた英語…
私にとっては、非常に苦しい時間。
長時間、椅子に座りっぱなしで、
どうにも不完全燃焼な私たちは、
毎日、19時に授業が終わることをいいことに、
Carte Blancheを決行。
フランス語で、直訳すると「白紙委任状」という意味の
Carte Blanche(カルト・ブランシュ)という音葉は、
広い意味で、「一任する」という意味があるそうです。
つまり、どこかの組織が、企画するのではなく、
アーティスト自らが、自分のプロジェクトを発信するということ。
私たちの場合は、普段は、学校側のプログラムに沿って、
創作しているので、
一から、プロジェクトを立ち上げ、
学校のプログラム外の時間で稽古を進めていくということは、
なかなかの困難。
私が俳優として関わっている企画は、
イギリスの劇作家、エドワードボンドの作品。
演出家含め、4人グループ。
大学の授業のあと、20時から深夜近くまで、
一週間の集中稽古を行うことに決め、
指導者なしの、私たちだけのプロジェクトが始まりました。
昨年の9月にも、プレ稽古を行っていたのですが、
たっぷり時間をとっての創作は、
はじめて。
作品の内容に合わせて、
一人っきりで、1時間のインプロビゼーションしたり、
作品に関して、ディスカッションを重ねたりと、
とても贅沢な時間だった。
今回、一番考えさせられたことは、
演劇における、
「ヒエラルキーの不在」について。
テクニカルスタッフを含め、
さまざまなスペシャリストが集結する演劇の現場において、
演出家、および、役者内におけるヒエラルキーはつきもの。
今回は、同級生の一人が発案者であり、
演出家を担っている。
つまり、彼女の立場が、演出家であったとしても、
私たち役者との間に、
経歴的なヒエラルキーは存在しない。
そんなフラットな理想的な現場に、
寄生したのが「甘え」だ。
「甘え」と言えば、一番に、
土居健郎氏の『「甘え」の構造』(1971)を思い出す。
157207.jpg
精神科医であった彼が、
米国から帰国後、
日本社会を「甘え」という観点から説いたこの本は、
まさに、代表的な日本人論。
そして、いうまでもなく、
彼は、「甘え」のスペシャリスト。
以下、土井氏の「甘え」シリーズ。
http://www.koubundou.co.jp/book/b157207.html
彼は、この本の中で、「甘え」がいけないと言っているのではなく、
あくまでも、
「甘え」が失われた社会に「甘やかし」と「甘ったれ」が蔓延している
と説いている。
例えば、舞台で、
演出家に見られながら、
稽古している時、
どうしてもうまくいかない時がある。
もしくは、
昨日、できたのにできなくなっていることがある。
途中で、演技をやめてしまいたくなることがある。
それでも、演出家とのヒエラルキーに支えられ、
良くも悪くも、
こうしたネガティブな感情を押さえつけて、
稽古を進めていくことができるのは、
多かれ少なかれ、「効率的」である。
ただ、相手との立場がフラットなだけに、
いま思っていることをすぐに打ち明けてしまいたくなる。
これは、単なる「甘ったれ」
つまり、よくない「甘え」の構造とは、
他人との境界線をあいまいにしてしまうことにあるようだ。
自分うまくできないからといって、
ふてくされた態度をとったり、
パニックに陥ったり、
年の離れた演出家とは決して水面下に現れないような、
私の友人でもある彼女(演出)への「甘え」が、
完全に浮き彫りになった一週間だった。
人間は、ヒエラルキーのない現場でこそ、
本性を露わにする。
そんな自分の「甘ったれ」な態度に、
疲弊しながらも、
土居氏の「気の概念」に少々助けられる。
以下、抜粋。
日本の社会ではわがままは原則として許さないが、
気ままはわがままにならない限り許すということは面白いことである。
このことは恐らく次のようなことを暗示しているのかもしれない。
甘えは本質的に全く対象依存的であり、主客合一を願う動きである。
したがって甘えをむき出しにしたわがままは、
他者に依存すると同時に他者を支配しようとする。
しかし甘えを気の動きとしてとらえるならば、
それをある程度まで客観視することができ、
その限りにおいて主体の立場を確保し、
それとともに他者との距離を維持することも可能となる。
甘えの世界である日本の社会で特殊な気の概念が発達したのは、
このような事情に由来するのではないかと考えられるのである。
(第二章 「甘え」の論理 気の概念 より)

「気の動き」として捉えてもらえるためにも、
「甘ったれ」は長居させないことように努力。
「さっき泣いたカラスが、もう笑った」でいいじゃないか、
演劇だもの!

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