上演時間8時間の作品を経て、正しい「自慢」の綴り方を模索する。

じ‐まん【自慢】
[名](スル)自分で、自分に関係の深い物事を褒めて、他人に誇ること。
(goo辞書より)
他人にうまく「自慢話」をすることができる人は、
優れた才能の持ち主だと思う。
自分に起こった素敵な出来事における、
「事実」というよりも、
むしろ、その「感覚」を他人と共有ことができる人。
直接、誰かに「自慢」をすることができたら、
話の内容よりも、
いかに、その出来事が本人にとって素晴らしかったのかということが、
その話し方によって、
「感覚」的に 伝わると思う。
しかし、文章で「自慢」するとなると、
この「感覚」を伝えることは、
随分と難しいことのように感じて、
さっきから、
「自慢」を綴る方法を考えていた。
ブレヒトの異化効果ではないけれど、
「自慢」を始める前に、
前置きしてみたらどうだろう。
皆さん、
これから、「自慢」を始めます。
「自慢」されたくない人は読まないでください。
前置きが長くなりましたが、
昨日、私たちが過ごした時間は、
本当に特別で、
本当に本当に最高だった。
前日の夜に、生徒だけで5時間かけて用意し、
午後13時から、21時まで、
8時間に及ぶ作品を、
10人で演出家の前で発表した。
映像、朗読、シーン、インプロ、写真、ゲーム、音楽、ダンス、録音、電話…
ありとあらゆる手段を使って、
12時間40分に及ぶ、
ジャック・リヴェットの映画『OUT1』を、
私たちの方法で、
interpretation (解釈/通訳/演技)した8時間。
トイレに行くのも、
食事をするのも、
コーヒーを飲むのも、
タバコを吸うのも、
すべて、作品の一部になっていく。
スポーツと一緒で、
よく、
素晴らしいアーティストが、
素晴らしい指導者だとは限らない、
という言葉を耳にしますが、
演劇の場合はとくにそうだと思う。
俳優教育というと、
日本の場合、
演出家が担うことが多い。
もちろん、フランスでも、
クリエーションの場合は、
演出家が招聘されて、
学校にやってくることが多い。
ただし、
学校、
つまり、教育機関におけるクリエーションの場合、
いかに、学生たちが自立して、
作品と関われるかということが問われる。
言われたことを、
こなすのではなくて、
自分の関わり方次第で、
作品の内容自体が変わってくるような可能性を孕む必要がある。
簡単に言ってしまえば、
学校で行われるクリエーションこそ、
ゴールが見えているべきではないのだ。
例えば、今回のプロジェクトの場合、
2015年4月:リサーチ/プレ稽古期間5週間
2016年 冬:本稽古5週間
2016年 夏:初演 
2016年 秋:ツアー
という流れが組まれている。
学校において、
今回私たちが過ごした、
稽古前のリサーチ期間に、
俳優として、演出家と対等に、
プロジェクト関われるというのは、
当たり前、
かつ、財政面でいえば、
やはり、恵まれていると思う。
さて、「素晴らしい」指導者とは何か?
若い俳優にとって、
実際の現場で、
俗に言う、「有名な」演出家と、
クリエーションができるということは、
願ってもいないチャンス。
それと、同時に、
最近よく思うのは、
このメンバーの中で演劇ができて最高!
と、すぐとなりにいる俳優たちを
「自慢」したくなってしまう環境を創れる指導者は、
ファシリテーターとしてとても興味がある。
私を、「自慢」することよりも、
自分がいるグループ、
そして、
周囲の人々を通して、
そんなところにいる私、最高!
と、「自慢」できる環境が、
学校には必要だと感じる。
なぜなら、
カンパニーなど、
すでに、気の合う仲間が集まって、
コミュニティーが派生している場合と違って、
学校の場合、
「たまたま」その年に居合わせメンバーが、
「たまたま」学びをともにしているのだから。
この「たまたま」を誇りに思えるようになったら、
しめたもの。
俄然、学びの効率もあがる。
普段は、脳が疲れ果てて、
授業のあとは、一目散に家に帰る私だけれど、
8時間に及ぶ、
「自慢」の仲間と、
「自慢」の作品のあとには、
「自慢」話がしたくてたまらないので、
みんなでピザを食べにいった。
8時間のプレゼントに、
ご満悦な演出家。
普段は半分しか食べれない、
ヨーロピアンサイズのピザを、
まるまる食べて、
ご満悦な私。

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