ソロ創作期間含む、
約4週間に渡る映画撮影が終了しました。
入学以来初めて行われた本格的な映画スタージュ。
フランスの国立演劇学校では、
3年間を通して、
映像に関するスタージュが、
少なくとも2回は含まれているのが一般的なようです。
演劇と映画の違いは、
なんといっても、
スタッフの数。
今回の撮影でも、
常時、4人の技術スタッフが、
稽古期間から同行してくれていました。
基本的に、
毎日、待ち時間も含め、
朝、9時から深夜まで、
大家族のように生活するということで、
組織としてのあり方の観点から、
学ぶことの多い時間でした。
それは、ひとえに、
今回の作品の総監督である、
私たちの学校長の一貫した態度のおかげに他ならなかったと思う。
どんなに忙しくても、
毎朝、校長は、自ら、
スタッフ、俳優、ひとりひとりのところに挨拶をしにいく。
挨拶といっても、
南仏の場合、頬に3回キスするので、
多人数の場合、
正直、かなりの時間をとる。
早朝撮影で、
遅刻する人がいた時も、
自宅まで、迎えに行ってあげよう、
と、提案。
時間が押して、
撮影場所利用可能時間ぎりぎりになって、
撮影が終わらなくても、
また、別の場所を探せばいいからと、
俳優へストレスが生じる環境では、
決して撮影は行わない。
そんな彼の口癖は、
「善意(bienveillance)」と「感謝(gratitude)」
撮影が進むにしたがって、
精神的にも、肉体的にも、疲れがたまっていくのに、
不思議と、
関係者全員、どんどん寛容になっていく感じ。
そして、極め付けは、
どんなに忙しくても、
スタッフ・俳優全員で、
撮影中も頻繁に行われた、
作品と創作過程に関するブレインストーミング。
その中で、
彼が語っていた印象的な話が、
「蛇口を開けっぱなし」にする生き方について。
組織で仕事をするときに、
一番、大切なことがひとりひとりが「NO」と言える環境を作ること。
そして、ひとりひとりは「NO」と言うために、
学ぶことをやめないこと。
そして、その「NO」は常に流動的である必要があるということ。
具体的にどのようなことかというと、
例えば、
組織の中のひとりに、不信感を抱いていたとする。
不信感を抱くことは、
とても自然なこと。
ただ、この不信感を決して、不動のものにしてはいけない。
今日、彼のことが全く信用できなくても、
明日、彼のことが大好きになっていることを受け入れられるために、
意識の蛇口は、常に開けっぱなしにする。
「NO」ということは、言動ではなく、行為。
つまり、「NO」といったからには、
必然的にそれに対するアクションがつきもの。
「NO」の直後から始まる、
「行為」を伴う可変性に富む関係から、
壊れやすいけれど、
本物の人間関係がはじまる。
逆に、信用をすでに獲得している関係に対しても同じ。
一度できた関係性に甘えないために、
蛇口は、常に開けっぱなしにする。
不信も、信用も生もの。
世話を怠ると、
知らないうちに、
カビが生えていたりするのかも。
変わらないものなんて、
なにもない。
だから、動き続ける。
学校での創作において、
確実に得たと言えることがひとつだけあるとするなら、
いつだって、
それは、
創作態度に関することばかり。
残念ながら、
俳優として、
特別なことができるようになったとか、
演技がうまくなったと感じたことは、
正直、一度もない。
そもそも、俳優という職業自体が、
「人間」になるための修行のような部分が大きいので、
普通のことなのかもしれない。
しいて、今回、
演技に関することで小さな発見があったとすれば、
以下のことが言えると思う。
演劇は、うまくいった瞬間にはじまり、
映像は、うまくいった瞬間に終わるということ。
演劇という媒体の根本的な特徴は、
再現(reproduire) 芸術であるという点にあるので、
うまくいった感覚をどのように、
くり返していくかを探していく作業が、
そこから始まる。
撮影を担当したカメラマンに言われたことが、
舞台上では、俳優自身が、
再現を可能にするために、
遠くから俯瞰して自分を見るような
「オブジェクティブな目」が必要かもしれないけれど、
逆に、映像では、この作業は、カメラマンの仕事。
主観の目だけを持って、
一回一回の撮影が、
最初で最後であると思って、
演じること。
蛇口は常にあけっぱなし。
ためておけるものなんて何もない。
それでも、
水圧は一定に、
新鮮な水が、
いつだって勢いよく流れ出しているように。
今日も、更新されるわたし。