「シャルリー・エブド」以降

1月7日は、
フランスで冬季セールが始まる日で、
ハイヒールが安くなっていたら買いたいな、とか、
そんな平凡なことを思っていた日に、
「シャルリー・エブド」襲撃事件が起きました。
http://www.asahi.com/articles/ASH176S4RH17UHBI01D.html
学校に行っても、
話題は、「シャルリー・エブド」で持ちきりで、
震災のような外側の変化は一切ないのだけれど、
人々の内側は、そして、関係は、
一瞬にして、
昨日までのそれらと違っていることが、
外国人の私にもはっきりわかりました。
フランスに来て、もうすぐ3年。
はじめて、社会で起きていることが、
ダイレクトに自分の思想と理想にアクセスしてきて、
情報の多さと足りなさの間で、
翻弄されていました。
モンペリエでも、
家から数分のところで、
「シャルリー・エブド」事件の翌日に人質事件が起こり、
最終的に、事件と直接的な関わりはなかったものの、
授業を中断し、
学校を完全に閉鎖し、
数人の子が過呼吸に陥ったりしながら、
目に見えない暴力に心が震えました。
毎日、朝6時に起きて、
2時間近く、
日本語で読める情報とフランス語でしか読めない情報の間で翻弄されながら、
さまざまな情報と、
出会っては別れ、
別れてはまた出会い、
すこし疲弊しはじめた頃には、
全く文章を書く気分は残っていませんでした。
11日の日曜日には、
追悼と「表現の自由」を守るための、
静寂の行進が各地で行われ、
私たちは、11時から21時の稽古の合間に、
2時間休憩をとって、
この行進に参加しました。
私が現地にいるからといって、
この事件を語るには、
あまりにも知識がなさすぎるけれど、
フランスと日本での報道を比べて、
一番感じるのは、
この事件はただの襲撃事件ではないということ。
ただ、12人の人が殺されたという事件ではないということ。
この事件の詳しい背景に関しては、
フランス文化研究家の飛幡祐規氏が書かれているコラムをお勧めする。
http://www.labornetjp.org/news/2015/0119pari
アメリカの医師、ダンカン・マクドゥーガル氏は、
人間が死ぬ際の体重の変化を記録することで、
人間の魂の重さを計ろうと試みた人である。
結果的に、「人間の魂の重さは21グラムである」という結論を導いたわけなのだが、
それなのに、
依然として、
人の命が重いのなぜだろう。
人の命が「重い」のは「想い」のせい。
その人の身体がこの世から消えることよりも、
その人の過去から続く、
長い長い「想い」が、
人の命を重くする。
今回の事件で特に感じたのが、
思想の死であり、
残された人たちに突きつけられたは、
理想の再構築だったのではないかと思う。
日本を離れてから、
日本語で綴るこのブログや、
日本語で書き始めていた小説、
他国にいながら、
日常生活では、もうほぼ使うことがないこの言語で、
感覚を、感情を言葉にしていくこと。
この言語を使う人たちと、
つながっていたいと思う気持ち。
そんな書くという作業が身体の一部になり始めていた頃。
あの事件以来、
文章を書くからあっという間に遠のき、
むしろ、恐怖すら感じていたと思う。
そして、昨日、
授業終了後、
先週から予定されていた、
私がフランス語ではじめて書いた戯曲の読み合わせがあった。
昨年の9月に書き上げたこの作品。
ドラマツルギー担当の生徒以外には、
まだ誰にもお披露目していなかったので、
俗にいう、緊張と不安と楽しみで、
胸がいっぱいだった。
学校の印刷機をあえて使わずに、
近くの印刷屋さんで、
自分でお金を払って、
上質な紙に印刷する。
読み合わせを始める前に、
簡単な概要とどのようなかたちで、
協力して欲しいかという旨を全員に伝え、
一人芝居の戯曲なので、
Kyokoの役とト書きを、
10人が回しながら声に出して読んでいった。
心臓が胃の方まで侵食して、
内臓全体が脈打っているようなくすぐったい気持ちで、
みんなの読み合わせを聞いていた。
自分でしか読んだことがなかったから、
当たり前だけど、
Kyoko役のフランス語が上手すぎて、
変な感じで笑った。
そんなみんなの声が奏でる、
はじめて立体化した自分の文章を聞きながら、
また書こうと思った。
やっぱり、
いろんなことがあるけれど、
産み続けたいと思った。
産んで、育てて、巣立っていくことの繰り返し。
いじめにあうことだってあるだろうし、
挫折することだってあるかもしれないけど、
どんどん産みたい。
どんどん産んで、
どんどん傷つかせて、
たくましい作品になったらいい。
2015年から就任した、
我が学校の新しい校長、Gildas Milin氏の言葉:
絶対に、rentabilité(収益性)を考えるな。
どんなに時間をかけて、
1行しか書けなくてもいいし、
どんなに予算がなくても、
お城みたいな舞台美術を考えろ。
最終的に、どんなにシンプルな作品ができても、
どれだけ夢をみたかで、密度が変わる。
だから、とにかく夢をみろ。
暇さえあれば、夢をみろ。
ということで、
自分の中で、
どうしても書けなかったこのブログも、
あっけなく再開。
今は、来月から始まる、
映画の撮影の一部分で使う、
(夜見る)夢に関するテキストを執筆中。
朝、
夢から醒めても、
夢をみる生活をつづけられますように。

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