永谷園『すし太郎』とハナマルキのおみそ汁で、インプロビゼーション60分。

2週間前から始まった、
パリを拠点に活躍する若手演出家Julie Deliquetとのスタージュ。
彼女は、パリ最大の秋の舞台芸術祭、LE FESTIVAL D’AUTOMNEにて、
なんと3作品も作品をプログラムされた。
Collectif In Vitro/Julie Deliquet『Des années 70 à nos jours…』
彼女は、最近、フランス演劇界でモードなスタイル、
“collectif”というカンパニー形態をとっている。
これは、グループで創作されるというもので、
形式上、彼女は、演出家という役割を担っているが、
実際には、グループのリーダーとして、
俳優たちとともに創作を行っているそう。
今回のスタージュでは、
彼女のカンパニーで実際に行われている創作形式、
”l’écriture sur le plateau”(舞台上での劇作)がテーマである。
これは、俳優たちが、
すでに配役された状態で、
一定の条件のもと、
インプロビゼーションをしながら、
登場人物間の関係性や、
その場で起こりうる事件、
つまり、「プロット」を構成していくというもの。
ここでいう「インプロビゼーション」は、
あくまでも、即興で作品を構成することが目的なのではなく、
演劇の根底である「再現性」可能な上演を目的とする、
過程としてのインプロビゼーションである。
今回のテーマは、
「結婚式」と「お葬式」の食事。
初日に、くじ引きで決められた配役をもとに、
11人が、
11通りの主題に基づいたプロットを提案し、
11回にわたる60分程度のインプロビゼーションを行う。
まず、最初の2日間で、
Julieとの会話、もしくは、
登場人物同士の対話によって、
基本的な設定を構築する。
3日目から、1日2回の食事インプロビゼーション。
一通りの流れとしては、
その日のリーダーが、
11人分の食事、舞台セット、プロットを準備してくる。
20個以上の条件を満たしたプロットを他の10人に伝える。
つまり、インプロビゼーションを進める上で、
最低限必要なポイントを全員で共有する。
そして、60分を目安としたインプロビゼーションスタート。
Julieとのフィードバック。
これを、1日に2回繰り返していたので、
つまり、1日のうち、
2回は舞台の上で、食事をとるということ。
週の後半には、完全に自律神経破綻していた。
インプロビゼーションということで、
事前に決められた台詞は一切ないので、
一週目は、そもそも自分と限りなく近い「役」と自分の間の境界線を、
言葉のハンデによって、
完全に崩壊される。
2日間は、かなり重度の吃音的症状が出た。
実際に、物を食べるという行為をしている事実であるとか、
言葉がうまくしゃべれないという事実であるとか、
フィクションを作り上げることに邪魔と思われる要素に満ちあふれていた。
このフラストレーションをJulieに打ち明けると、
それは、「役」のイメージを無意識につくってしまっているせいだということ。
俳優は、戯曲を渡されたときに、
戯曲を読み解くと同時に、
自分に渡された役が、
どのような性格なのか、
どのような喋り方をするのか、
どのように振る舞うのか、
イメージをつくってしまいがち。
ただ、これらは、
その人が、今、初めて出会った人たちの中にいるのか、
心の知れ渡った友人たちの中にいるのか、
その時の状況により、
不確定なもの。
「役」がおかれている環境において、
「役」、もしくは、俳優の身体に起きる「リアル」を探していく作業が、
このインプロビゼーション。
つまり、うまく言葉がでなくなるという事実や、
この状況では、食べ物も喉を通らないという事実、
すべてが、発見なのである。
まっさらな状態から、
事前に共有した設定だけを頼りに、
他の登場人物との関係性を作っていく。
そして、8回目のインプロビゼーションとなった、
私担当の回は、
以前、このブログでも扱った、
ロラン・バルトが日本について書いた本、
L’empire des signes『記号の国』より
「中心のない食べ物」をテーマにプロットを作りました。
(過去ブログ記事:芸術作品としてのフランス語で綴られる日本の姿が愛おしすぎる件
準備した食事は、
ちらし寿司‼︎
当日は、いかに他の10人に、
自分のプロットを効率良く伝えられるか、
そして、準備の指示が出せるかということにテンパっていて、
(ちなみに、「テンパる」とは、麻雀用語の「あと一枚で上がれる状態」を意味する『聴牌(てんぱい)』から来ているらしい。そして、まさしくそんな心中穏やかでない状況だった。)
写真を撮り忘れたけど、
超豪華なちらし寿司ができた。
susi.png
中心のない食べ物。
中心のない装飾。
中心のないテーブル。
中心のない人間関係。
そして、
中心のない会話。
最近、グループ創作というものに強く関心を抱いている。
そもそも、演劇は、グループ創作なのだが、
俳優という職業で考えれば、
なんとも、競争に満ちた、
個人競技的なイメージがどうしてもある。
私も、もともと、
団体競技より、断然、個人競技のが得意なタイプなので、
今まで、グループで創作するということにあまり魅力を感じていた方ではなかった。
Julieは自分たちのカンパニーにおいても、
俳優ひとりひとりが、
グループの「トップ」に立つ機会を必ず与えるのだという。
自分の構想を、
他者に伝え、
それを、実現していくことの難しさと魅力。
他者とのずれ。
そして、
ずれから生まれる奇跡的なハプニング。
全部が大きな発見となって、
自分に返ってくる。
この過程を踏むことで、
本番、俳優たちは、
ストレスのない状況で自分たち自らが創りあげた
時間と空間を、
「再び」生きることができるのだと思う。
他者が、責任を担っている場所で生きるということは、
時として、多大なストレスを生じさせる。
演出家が全責任を背負っているような舞台に立っている場合、
俳優としては、責任を背負えない分、
失敗するのが怖い。
リスクは、背負わないと、冒せない。
来週からは、この2週間の11回に及ぶインプロビゼーションから生まれた
山のような素材をもとに、
最終的なプロットをより細かく書いていくことになる。
この私たちの通ってきた道から、
どんな結果が生まれるのか楽しみ。
そういえば、今、日本で公開中の映画『6才のボクが、大人になるまで。


『ビフォア』シリーズなどで有名なリチャード・リンクレイター監督作品。
6歳の­少年とその家族の12年にわたるストーリー。
なんと主人公を演じたエラー­・コルトレーンをはじめ、
主要人物4人を同じ俳優が12年間演じた。
撮影当初、エラー­・コルトレーンが小学生だったこともあり、
撮影は、毎年、夏休みに行われていたそう。
この映画を絶賛する映画評論家の町山智浩氏は、
この映画の成功の秘訣は、
終着点を決めなかったことにあるという。
12年前、この映画の撮影が始まったころ、
ストーリとして、3年分くらいの構想はあったそうだが、
そのあとは、実際にそれぞれの俳優に起きた変化から、
監督が影響を受けながら、ストーリーが展開していったという。
「ラストシーン」を決めない創作こそ、
リスクの共有につながると思う。
「ラストシーン」の決まっていない人生も、
リスクは多いけど、
重いリスクを背負ったら、
身体は意外に軽くなったりするのかも。
リスクは、背負えば、冒せるのだから。

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