舞台におけるビデオワークスタージュ、
第3週目。
今週の課題は、「オートフィクション」
「自己」の意味を持つ、
ドキュメンタリー要素が強い言葉”auto”と、
フィクションという言葉が合体した、
何とも矛盾する言葉。
要は、Autoportrait(自画像、自伝)でありながら、
あくまでもFiction(虚構)を維持するということ。
イギリスの劇作家、Danis Kelly(デニス・ケリー)『ラブ・アンド・マネー』の中のモノローグを、
それぞれに与えられ、
各自が撮影した、写真、ビデオ、
そして、音、音楽などを使って、
個人で作品を創作する。
ちなみに、デニス・ケリー作品のドラマツルギーは、
フランスでも、
現代戯曲界でも、
かなりの敬意を受けているそう。
そもそも、イギリス人の戯曲に関する、
ドラマツルギーの精度の高さは、
ドイツとはまた違った意味で、
抜群と言われている。
デニス・ケリーに関して言うなら、
ミュージカル、テレビドラマ、演劇、さらには、映画の脚本まで、
手がけている、凄腕。
フランスでも公開されている、
彼が脚本を手がけたテレビドラマ『Utopia(ユートピア)』は、
世代問わず、アーティストから抜群の支持を受けているそう。
映像の取り方も、ドラマとは思えない斬新さ。
彼以外では、
フランスの国際演劇マーケットで、
Mike Bartlett
Martin Crimp
は、絶対に押さえておきたいイギリス人劇作家である。
今回の課題における、
「オートフィクション」の拘束はというと、
自分が書いたものではない、
つまり、他人のストーリーを素材として、
自分を埋め込んでいくというもの。
基本的に、
創作前の質問は、
あまり受け付けてもらえず、
とりあえず、やってごらん、という感じで、
技術スタッフとの打ち合わせを含め、
丸一日の猶予が与えられる。
もちろん、
映画に使うようなビデオカメラを用いたり、
スタジオを使っての撮影も可能だが、
「オートフィクション」の定義をクリアにしない限り、
アイディア先攻の作品になってしまう。
「なんで、アーティストやってるの?
アーティストとして、何が言いたいの?」
だけを、問われ続けてきた2週間だったので、
コンセプト、つまり、「核」の部分がすかすかな作品は、
すぐ見抜かれる。
そもそも、オートフィクションという言葉は、
フランス人小説家Serge Doubrovsky(セルジュ・ドゥブロフスキー)が、
最初に用いた言葉で、
彼がこの手法を用いて書いた『Fils(息子)』という作品で、
次のように、オートフィクションを定義している。
(前略)
それは出会い、言葉の繋がりであり、
頭韻、押韻、不調和であり、
文学に先行あるいは追随するエクリチュールであり、
言ってみれば音楽のように具体的なエクリチュールである。
あるいはまた、自分の快感を人に伝えようとして
根気強く自慰行為にふけるオートフリクションなのである。 (引用)
そもそも、性行為というものは、
他者を必要とするものなので、
多かれ少なかれ、
両者がその悦びを分かち合うものである。
しかし、この定義の面白いところは、
他者を介さない自慰行為というものに関して、
そもそも、他者とは分かちあうことのできない悦びを、
他者にわかってもらおうという、
なんとも押し付けがましい行為なのである。
彼が、最後につかっている言葉、
フリクション(friction)はラテン語で、
「こすること」を意味する単語。
生半可に、こすっていたのでは、
決して生まれることのない、
本人にとっても、
奇跡的な快楽の場所を、
探し続ける行為なのである。
そして、
この場所こそが、
auto(自己)が、
frictionを介して、
fictionに出会う場所であり、
fictionが介在することで、
アート作品として、
他人が享受する価値のあるものに生まれ変わるのだと思う。
このように考えていくと、
現代社会において、
オートフィクションの種、
つまり、
オートフリクションは、
あらゆるところに巻かれている。
facebookに載せる写真を選ぶことだったり、
スカイプ時に、自分の写りを調節したり、
ケータイで自撮りすることだったり、
twitterのつぶやきだったり。
おそらく、タイムラインを辿って、
過去にさかのぼっていくと、
自分でも気づいてなかったオートフィクションが生まれているかも。
学校生活1年目は、
困難と達成のくりかえしで、
七転八倒な、
ダイナミックな毎日を送っていたけど、
2年目は、
地味だ。
果てしなく、地味。
ただ、極上にポジティブで贅沢な「地味」な期間。
ひとつの言葉との出会いが、
じわじわと身体に浸透していくことで、
回りの世界が変わっていく感じ。
私は、このオートフィクションという言葉に出会ってから、
本を読むのも、
映画を見るのも、
舞台を観るのも、
完全に視野が変わった。
だから、最近は、
昔、読んだ作品を読み返したりすることが楽しかったりする。
クラスメート10人のオートフィクションをみて、
改めて、『みんなちがって、みんないい』(金子みすず)と思えたし、
一つの戯曲が、
11色に染められて、
眩しい時間だった。
他の子たちは、
ciné-théâtre(シネテアトル)の課題に移行したけれど、
オートフィクションに完全に、
ハートを掴まれた私は、
他のテキストで、
この他に2作品、
テクニックを駆使した、
パフォーマンス作品を創ることになった。
「地味」の期間に突入してからは、
人と比べることなく、
自分のやりたいこと、
じぶんに、
惜しみなく時間を注ぐことができる。
ありがとう、
マイ「地味」デイズ。