「相対的幸福」から解放されて、目指すところは「超絶対的幸福」!!

2015年度前期の4週間に及ぶ目玉スタージュ、
Cyril TESTEとの舞台におけるビデオワークの授業が始まりました。
自分が日本人でありながら、
この空間にいることに疑問を投げかけられながら始まった、
先週のスタージュ(過去記事:Living Beahavior (生命的行為)へのために、私自ら「実験台」になります。)とは、
打って変わって、
「なんだか、フランス人ばっかで変な感じだなあ。」
という演出家の一言から始まる。
彼は、劇団ではなく、
写真家、役者、作曲家、映像、ドラマツルギー、
などからなるアーティスト集団を組んで、
舞台芸術に取り組んでいる演出家。
ということで、
演劇学校というより、
美術学校(ボザール)や、
ヨーロッパでも1,2を争うと言われている総合芸術研究所Le Fresnoy(フレノワ)などで教えているので、
フランスの国立の学校は、
インターナショナルな環境で当たり前という価値観があるそう。
「確かに、演劇は言葉使うからねー、
でも、しゃべれる言葉でやればいいよねー。」
という綿毛のような言葉に、
先週悩んでいて自分は何だったんだ、と、
思わずたんぽぽが咲く。
いつも、この繰り返し。
だから、やめられない。
2年前に、私たちの一つ上の卒業生と創った作品は、
さまざまな劇場に購入され、
今年から、ツアーが始まります。

Teaser de Nobody, création de Cyril Teste avec les comédiens de l’ENSAD/Maison Louis Jouvet et le collectif MxM from ENSAD Montpellier on Vimeo.

この映像作品は、舞台上に組まれた巨大なセットの中で、
実際に上演しているところを、
5台のカメラを使って、撮影したものです。
つまり、客席で、直接観ている観客には、
スクリーンに映るこの映像と、
実際に、舞台セットの中で動き回る俳優たちの全体図と、
撮影しているカメラが見えているということ。
彼は、このように、
現在進行形の中で、映像を創っていく、
”ciné-théâtre”というプロジェクトを、
行っている人だ。
そして、なんといっても、
大の日本好き。
黒澤明や、小津安二郎は、もちろんのこと、
居酒屋から、
清少納言まで話に出てきてびっくりした。
今週は、毎日、
前半3時間:アート開拓
後半3時間:映像と身体
というプログラムで行われた。
アート開拓というのは、
1, 秘密
2, 家族
3, 仕事場
4, 共同体(コミュニティー)
以上の4つのテーマをもとに、
写真、小説、戯曲、絵画、映像、映画、音楽、彫刻、ダンス、
ありとあら芸術分野から、
自分の観点と一緒にプレゼンするというもの。
モノを捉える方法を幅広くしていくことで、
総合芸術としての演劇の幅を広げていく。
舞台芸術のことだったら負けない自信のある私だけど、
それ以外の分野のアートになると、
一気に知識量が下がる。
それぞれのプレゼン内容や、
クラスメートの反応をみていて、
やはり、フランス人にとって、
アートと娯楽の境界線が限りなく、
あいまいであることを実感させられる。
アートに触れるということが、
お金がかからない行為ということもあると思うし、
ヨーロッパのアートには、
言葉の壁があっても、
国境はないように感じる。
ドイツやイギリス、スペインなどのアーティストも、
自国のアーティストのように話す。
そもそも、アーティストに対して、
自らと同じ国籍か否かという問題があまり重要ではないのかも。
毎日、深夜まで、
WikipediaとGoogleを駆使して、
知らないアーティストたちを検索する5日間であったが、
多数のアーティストが、
何らかの理由で、
「フランス(、もしくはパリ)を拠点に活動」に行き着いていることに気づく。
やはり、
芸術の都と言われるだけのことはある。
授業の一環として、
必ず全員が参加する上映会が催され、
アーティストとして絶対観なきゃいけない映画1作目に選ばれたのは、
なんと、黒沢清『トウキョウソナタ』(2008)


以前私がパリで出演した、
短編映画の監督もこの作品が大好きで、
たくさんの影響を受けたと話していたことを思い出す。
(過去記事:主演短編映画撮影、終了(2)〜「独り」との上手なつき合い方〜
河瀬直美監督にしても、小津監督にしても、
日本映画から学ばないといけない姿勢は、
「待つ姿勢」だという。
何かを起こすのではでなく、
何かが起きることを待つということ。
Observation(観察)の法則。
つまり、
風をどう撮るか。
まずは、
ニーチェの言葉にあるように、
「耳で見て、目で聞けるようになること」
と。
このフレーズがやけに耳に残って、
ニーチェについて調べていたら、
なんと鈴木大拙氏が全く同じことを言っていた。
耳で見て、目で聞く。そうすれば正しく見ることができる。
正しく、真実に、正確に聞くことができるのです。
禅がわれわれに期待するのは、こうした体験です。
でも、あるいは皆さんはおっしゃるかもしれない。
それでは見ないことになってしまうじゃないか、と。

ー『大拙 禅を語る―世界を感動させた三つの英語講演 (CDブック)』より引用
夏休みに、知人に会ったとき、
「ヨーロッパで出会うたくさんの知らないことを、
消化していく過程で、
鈴木大拙あたりが、ふらっと入ってきたら、
最強ですね。」
と、言われて手帳にメモった人だ!!
鈴木大拙は、
禅について、英語で本を書き、
世界に禅の文化を知らしめた偉大な人。
たくさんアンテナはって生きてきたつもりだったのに、
毎日、耳にしたり、目にしたりするものの、
9割が知らないことという環境の中で、
まずは、フランス人が知っていることを網羅しなくては、と、
躍起になっていたけれど、
どうやら、アートに国境も教科書もないようで、
自分が「好き!」と思ったものを探っていくと、
昨日「好き!」と思ったものとつながったり、
「え?」とか、
「まさか!」とか、
「おお!」とか、
「やっぱり!」とか、
思わず声を上げながら、
オリジナル・マップが少しずつ広がっていく。
われわれが耳で聞くと言うとき、
この耳には空間的な場所があって、
五感の一つに数えられます。
明らかに耳のついている場所があります。
目で見ると言うときも同じく、明らかに場所があります。
その耳も目も、ある特定の空間を占有しているからです。
しかし、もし空間を意識すると意識は個別化され、
コチラとかアチラといった一定の方向性をもちます。
そうなると、もはや全体性(totality)は失われます。
自己分裂した状態です。
人格全体はある方向に向かい、もはや全体は”それ自体”ではなくなる。
いわゆる無意識の領域を含むわれわれの意識は、全体性を失う。

ー『大拙 禅を語る―世界を感動させた三つの英語講演 (CDブック)』より引用
おそらく、人間は、
目で見て、耳で聞くことをやめたとき、
今、目に見えているもの、
自分の社会的立場とか、
自分の容姿とか、
自分が人にどう思われているかとか、
そういったものの外側、
もっと遠くに広がる場所に、
アクセスすることができるんだと思う。
仏教用語の『修行』の定義は、まさにそこにある。
おなじみWikipediaより。
財産・名誉・性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から解放され、
生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することを指す。

前半は、賛成だけど、
後半は、反対。
「相対的幸福」から解放されて、
「絶対的幸福」をに浸るなんて物足りない!
生きてるだけじゃ満足できない!
目指すところは、
「超絶対的幸福」
つまり、
絶対値を常にあげていくことで、
一生「修行中」ということ。
シングルCDがまだ小さかったころ、
一番好きな歌は、
PUFFY『これが私の生きる道』だった。
http://youtu.be/ixEL1CXwCP0
「まだまだこれからがいいところ
 最後までみていてね
 くれぐれも じゃましないでね」

この厚かましい歌詞に、
子どもながら、罪悪感を感じたことをはっきり覚えている。
でも、今なら、言えちゃう。
私たち、人間は、
欲張りだ。
あえて、今は全く必要のないくらいの大きな紙を選ぶ。
欲張りな私たちには、たくさんの余白が必要。
いつでも、知らないことに出会えるように。

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