悪循環の対義語「好循環」という言葉が、
存在するということを、
昨日まで知らなかった。
好循環よりも、
悪循環という言葉を使う頻度が圧倒的に多かったんだな、
と苦笑い。
それにしても、
わたしは、この「好循環」という言葉を、
先月から探していたはず。
いいことが、
いいことを運んでくる。
「好循環」を止めないために、
あえて、
勇気を持って、
「努力」を止めてみる時間。
おそらく半年近く前から、
ずっとみたいと思っていた映画。
むしろ、
みなければいけないと思っていた映画。
映画「アクト・オブ・キリング」
「あなたが行った虐殺を、
もう一度演じてみませんか?」
2分間の予告編で、
みたこの文章に背筋が凍る。
予告編大賞なんていうものがあったら、
この映画の予告編は、
必ず入賞するだろうし、
もう、本編なんてみなくてもいい、
むしろ、
みたくないと思ってしまうかもしれない。
この映画の存在を知った時、
フランスでの公開がすでに終了していたのをいいことに、
「すごくみたかったのに、みられなかった映画」
として、
どこか安堵に似た感覚を覚えながら、
大切な友人たちに、
ことあるごとにこの映画の話をしてきた。
この映画、
みてもいないのに。
実際に行っていない行為(アクト)を、
さも行ったかのように演技(アクト)してしまうことが、
しばしば。
日本に一時帰国中、
ANARCHYからの、
「好循環」のおかげなのかどうなのか、
『アクト・オブ・キリング』がイメージ・フォーラムで公開中であることを知り、
もはや、
逃げ道はなくなった。
勝手に、この映画の似非キャンペーンガールになりすましていた私は、
友人たちとおそるおそる映画館に向かう。

60年代インドネシアで密かに行われた100万人規模の大虐殺。
実行者たちは、一人当たり1000人あたりの人間を殺害。
彼らは、いまも”国民的英雄”として楽しく暮らしている…
演劇人として、
「アクト」とは何か、
という本質を考えざるを得ない作品。
出演者は演技(アクト)を楽しむうちに、
自らの行いを追体験し、
あるいは仲間たちが演じる様子を見ることで、
彼らは人生で初めて、
自分たちのした行為(アクト)に向き合うことになる。
(上演パンフレットより)
第86回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされ、
全世界で60以上の映画賞を総なめにし、
興行的にも大成功したこの作品、
残虐なテーマにもかかわらず、
思わずくすっと笑ってしまう自分にぞっとしながら、
壮絶なスピードで過ぎ去っていった2時間46分の後に待っていたのは、
「匿名希望」で塗り尽くされた、
エンディングロールだった。
これが、
この映画のすべてを物語っている、
過去と、
現実と、
そして、
未来。
匿名にしている理由は、
今も彼らの身に危険が及ぶ可能性があるからです。
彼らは、大学教授、記者、人権団体のリーダーといった肩書きを持っていましたが、
自分のキャリアを捨ててまで、
8年間という時間をこの作品のために費やしてくれました。
それも、この国に本当の意味での変化が起こらない限りは、
自分の名前をクレジットに載せることはできない、
というのを知ってのことでした。
ー『アクト・オブ・キリング』監督:ジョシュア・オッペンハイマー
自分の行った行為(アクト)を、
演技(アクト)すること、
それは、
「栄光の歴史」として扱われることが多い。
少なくとも、
意識的にしろ、
無意識的にしろ、
「栄光の歴史」として思い込んでいるからこそ、
2度目のアクトには、
スペクタクル性が付随することになる。
それでは、
すでに再現性(representation)の側面を持つ、
演劇においての「アクト」を執行する、
「アクター」に求められる姿勢とは?
「歴史(戯曲)」を、
栄光にも、
没落にも、
書き換えない、
神聖なほど圧倒的な、
中立的立場だと思う。
ドキュメンタリーとフィクションの境界性を、
こんなにも揺さぶることに成功した映画に、
出会えたことは、
一生の宝物だと思う。
そして、
この映画を運んできてくれた、
「好循環」にも感謝。
鑑賞を終え、
足下をふらつかせながら、
映画館のロビーに出て行くと、
次の回の上映を待つ友人と遭遇。
おもわず、
「え、なんで?」
と、びっくりして尋ねると、
「香子に言われたんじゃん。」
と、当たり前のように言われる。
似非キャンペーン・ガールだけに、
自分の行った行為(アクト)に、
いまいち、責任がない。
ただ、
そのとき、
観てもいないのに、
この映画を観てほしいということを、
直感だけを頼りにした演技(アクト)には、
多少の信憑性があったようだ。
渋谷イメージ・フォーラムにて、
朝10時半からまだ公開中です。
お時間あるかたは、ぜひ!!
http://aok-movie.com/tokushu/