本番がなかったら、意味がない!!

おととい、奇跡的に初日があけまして、
今日は、休演日で、ちょっと一息。
モンペリエ公演に続いて、
パリ公演が29日まであるのですが、
こちらの公演も、
一連のストライキ騒動で、
まだまだ、どうなるかわからない状況。
パリ公演詳細:http://www.theatredelaquarium.net/Festival-des-Ecoles-du-Theatre,354
vignette_site-2.jpg
Une Vitalité désespérée
d’après Pier Paolo Pasolini, mise en scène Christophe Perton
avec les élèves de la Maison Louis Jouvet / Ensad de Montpellier
26 juin 21h
27 juin 21h
28 juin 16h
29 juin 18h
Entrée libre.
Réservations au 01-43-74-99-61
モンペリエ公演も、来週の金曜日まで続くのですが、
こんなにも舞台芸術という存在が、
儚くて、脆くて、幻みたいなものだなんて、
考えたこともなかった。
1ヶ月半、
毎日10時間に及ぶ稽古を積んできて、
そこからでき上がった、
掴むことも、
触れることも、
残すこともできない、
空間と時間を、
観客と共有できない可能性がある芸術なんて、
ある意味、残酷過ぎる。
フランスは、文化政策及びアーティストへの支援が進んでいて、
いかにも、芸術モデル国のようなイメージがあるので、
そんな環境を求めて、
世界中から、アーティストが集まってくる訳ですが、
だからこそ、
国とアーティストの結びつきが強い
イコール、政治との結びつきが強いということで、
政治体制が変わると、
いっきに、アート環境も変わってしまったりする。
支援を受けるということは、
ある意味、
だれかの手中に入っていることとも言える。
実際、私たちがプログラムされていた、
モンペリエの演劇祭:Le Printemps des Comédiensは、
すでに、技術スタッフのストライキにより、
ほぼすべての招聘プログラムのキャンセルが決まった。
http://www.printempsdescomediens.com/
それでも、
いったん幕があけてしまえば、
舞台空間は、私たちのもので、
劇場外の問題なんて、
おかまいなしに、公演は進んでいく。
フィクションの力、
強し。
wikipediaにおけるフィクションの定義は、
このようになっていますが:
「fiction フィクション」は一般には「事実でないことを事実らしく作り上げること」を意味している。つまり、虚構、絵空事、作り話、事実ではないもの、想像上のもの、捏造されたものなどを指す。
私が、ここで使いたい「フィクション」とは、
現実の出来事に侵されることのできない、
隔離された特別な時間と空間。
私たち、
俳優は、
現実社会に生きつつ、
「フィクション」をもたらす人。
フィクションの運び屋さん。
いま、私は、
自分自身の身体と脳と精神を実験台にして、
ミステリーすぎる「俳優の構造」を解明すべく、
日々、ノートをとり続ける生活を送っています。
演出家に、将来は、思想家になることが夢です。
と、言ったら、
じゃあ、演劇やっててよかったね。
と、言われた。
やっぱり、演劇と思想は、
切っても切り話せない存在なんだ。
とにかく、
今は、毎日毎日が、
最後の公演になるかもしれない状況で、
本番を送っているので、
万全のコンディションで望みつつ、
お客さんには、
そんなこと微塵も感じさせないような「軽さ」を、
しっかり残しつつ、
走りきりたいと思います。
作品の中の、
私が提案したシーンが、
宣伝用ビデオになりました◎

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