裸をめぐる、自分との対話。

6月の公演に向けて、
連日深夜に及ぶクリエーションが、
遠回りしながら、
丁寧に進んでいます。
この2週間の基本的なリズム:
1、演出家が俳優にシーンのイメージを伝える。
2、俳優が演技・演出プランを創作、稽古、発表。
3、演出家が、2をふまえて、シーンを演出。
(4、俳優が気に入らなかった場合は、再度、新たなプランを提出。)
この作業の繰り返しのため、
演出家から、
直接的に演出を受けるということはほとんどない。
稽古は、常に演出家と俳優の対話のもとに成り立っているので、
当然、自分から、積極的にプロポジション(提案)を持ってくる俳優に、
時間は割かれていく。
とは言っても、
プロポジションの際には、
必ず、他の俳優が必要になるので、
俳優ひとりひとりがリーダーになる場面が自ずと存在する。
ということで、稽古以外の時間も、
常に、頭は、フル回転。
基本、夢の中でも、稽古しているので、
毎週、木曜日くらいには、気が狂いそうになる。
さて、昨日は、
私が演じる冒頭シーンの抜き稽古があって、
私と相手役、そして、演出家、スタッフとで、
6時間に及ぶ稽古がありました。
なぜ、こんなに時間をとってくれたのかというと、
おそらく裸のシーンだったから。
私が演じる役は、
性に対して、快楽主義的志向を持っている女性で、
裸になるという行為に関しても、
なんの抵抗もない。
つまり、
彼女にとって、
服を着ている状態と、
裸の状態は、イコールに等しいと言える。
去年の今頃にも、パゾリーニを扱っていて、
当時、自分でかいたブログを思い出した。
(過去のブログ記事:私の裸は、誰のもの?
この時は、
下着姿について、考えていたので、
やはり、全裸とはわけがちがう。
あの時は、
「私の体は、私のもの。」
と言えたのに、
裸になると、
まるで、
舞台上での自分の身体が他者の視線によって、
自分から離れていく感覚を覚えた。
役者だから、
演出されれば、
なんでもできるというのは、
やはりなにかおかしいと思う。
私は、そもそも、演劇に関して、
器用なタイプでは決してないので、
相手役とも、
演出家とも、
スタッフとも、
他の共演者とも、
充分すぎる信頼関係と、対話と、時間が必要だった。
フィクションである演劇の時間の中で、
存在する、
私にとって、
ノン・フィクションでしかなく、
くっきりと鮮やかに存在する、
何よりもリアリティーなもの、
「私の裸」
稽古を終えて、
仲間たちに会いにいくと、
友人が、フランスの哲学者ジャック・デリダの猫の話をしてくれる。
これは、デリタの著書『動物ゆえにわれあり(L’animal que donc je suis)』の中の、
とっても有名なエピソードらしい。
デリタは、お風呂に入るとき、自分の裸を、
飼い猫に見られて、恥ずかしいと感じる。
そして、恥ずかしがっている自分を、
さらに恥ずかしいと感じる。

私は、裸で稽古した経験をもとに、
このエピソードを、
恥ずかしいと感じる自分を客観視してしまうことで、
恥ずかしくなってしまうもうひとりの自分が生まれると、
解釈する。
逆に言えば、
恥ずかしいと感じる自分を、
露呈させている身体と切り離せないという、
絶対的主観空間が、
身体を介在させることで成り立っているから、
恥ずかしいとも言える。
つまり、
演技は、ぶれるが、
身体は、ぶれないということ。
俳優なんだから、
こういうことも、覚悟の上でやってるんでしょ、
と言われてしまうかもしれないけど、
私は、あえて「大げさ」に扱いたいと思うし、
それが許容される環境(学校)にいるので、
自分が納得いくまで、
考えたいと思うし、
対話を続けたいと思う。
それにしても、
舞台における身体性というのは、
実に未知に溢れていると思う。
初対面の人の前で、
何重にも共有される、
俳優の身体。
舞台上での行為のプライベート指数が一定値を超えると、
(一般的に、見ず知らずの人の前ではできないこと)
観客は、俳優を、自分たちとは違う生物、
もしくは、「物体」のように、
捉えてしまうのではないか。
と、恐ろしくなる時がある。
だからこそ、
観客と同じ「身体」を持つ、
人間として、
「違和感」や「恥ずかしさ」、
これら生身の感覚としっかり向き合った上で、
プライベート指数をどこまでも上昇させていけたらと思う。

3件のコメント

  1. もろーか · 5月 26, 2014

    SECRET: 0
    PASS: fa4831161e7051d5acb4e64abc84a321
    [斜体]舞台上での行為のプライベート指数が一定値を超えると、
    (一般的に、見ず知らずの人の前ではできないこと)
    観客は、俳優を、自分たちとは違う生物、
    もしくは、「物体」のように、
    捉えてしまうのではないか。[/斜体]
    あたしの場合かなり自己満足というか、そんなに「大げさに」考えたことなかったんだけど、プライベート指数って面白いね!
    その自己満足っていうのを改めて考えてみると、もちろん単純に自分を開放したいというか、世間的に一定以上の関係性が無いと起こりえない「他人の裸体」を見ると行為を、そのボーダーを意図的に破ることで得られる快感みたいなものが好き。それに他人に裸体を観られている自分に興奮するという感情も無視できないなと思う。
    面白いよね、裸って。

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  2. 竹中香子 · 5月 26, 2014

    SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    そうなの。なんか、プライベート指数がかなりたかまると、
    匿名化しちゃって、観客と同じ人間じゃなくなっちゃう感じ。
    いっきに、マイノリティーになるから、
    服きている人とのヒエラルキーも感じるし。
    ヌーディズムとかは大勢による行為だから、また違うと思うけど。
    私は、物語のコンテスト抜きに捉えると、
    かなり動物になった気分だった。
    たぶん、あと、3週間あるから、変わってくると思うけど。
    本番は、ちょっと怖いなああ。
    > [斜体]舞台上での行為のプライベート指数が一定値を超えると、
    > (一般的に、見ず知らずの人の前ではできないこと)
    > 観客は、俳優を、自分たちとは違う生物、
    > もしくは、「物体」のように、
    > 捉えてしまうのではないか。[/斜体]
    >
    >
    > あたしの場合かなり自己満足というか、そんなに「大げさに」考えたことなかったんだけど、プライベート指数って面白いね!
    > その自己満足っていうのを改めて考えてみると、もちろん単純に自分を開放したいというか、世間的に一定以上の関係性が無いと起こりえない「他人の裸体」を見ると行為を、そのボーダーを意図的に破ることで得られる快感みたいなものが好き。それに他人に裸体を観られている自分に興奮するという感情も無視できないなと思う。
    > 面白いよね、裸って。

    いいね

  3. もろーか · 5月 29, 2014

    SECRET: 0
    PASS: fa4831161e7051d5acb4e64abc84a321
    [斜体]匿名化しちゃって、観客と同じ人間じゃなくなっちゃう感じ。
    いっきに、マイノリティーになるから、
    服きている人とのヒエラルキーも感じるし。
    ヌーディズムとかは大勢による行為だから、また違うと思うけど。
    私は、物語のコンテスト抜きに捉えると、
    かなり動物になった気分だった。 [/斜体]
    なんというかそれこそ<ある特定の舞台>で裸である意味というか、そこに主眼があるかないかでまた違ってもくるよね。もともと匿名化とか動物化とか演者と観客の関係性を主題にした舞台だってあるわけでしょ?たぶん。
    何より本番までも楽しみです!

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