ピエロ・パウロ・パゾリーニからはじまり、
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーを通って、
先週から扱っているホモ・セクシュアル(ファスビンダーはバイ・セクシュアル)の作家3人目は、Copi(1939-1987)
アルゼンチン出身の作家、劇作家、漫画家で、
フランス語で執筆を行っていた。
日本にいたときは、
ヨーロッパの演劇は、なんて政治的なんだろうと思っていたけれど、
中に入ってみると、
必然的にそれらのテーマに触れているようにしか思えない。
例えば、
園子温監督の『ヒミズ』
製作準備期間中に3.11が発生し、園監督は脚本をリライト。
舞台を震災後の日本に変更されたそうです。
インタビューで、
園子温監督は、
アーティストとして、
この出来事に触れない訳にはいかなかった、と語っている。
今、自分の目の前に転がっている問題を無視して、
他に何を表現することがあるのか。
去年、
私が通っていたパリのコンセルバトワールでは、
男の子6人中3人がホモセクシュアルだった。
今年は、
私以外、全員フランス国籍だけど、その中に、
黒人の子がいて、
アラブ系の子がいて、
ユダヤ系の子がいる、
そして、アジア系の私がいる。
先日驚いたことは、
ユダヤ系の女の子から恋愛相談を受けていて、
クラスにいいなって思っている子がいるけど、
彼は、ユダヤ人じゃないから、
お付き合いすることはできない、ということだった。
こんな身近に、
宗教的制限を恋愛に受けている子がいるなんて、
思わなかった。
Copiに関して、
日本語の資料は見つからなかったのですが、
時期でいうと、
『戦場のピクニック』で有名な、フェルナンド・アラバールと同時期に活躍していた作家です。
(BOOK ASAHI.COMで水野美紀さんのインタビュー発見:水野美紀さん(俳優)と読む『戦場のピクニック アラバール戯曲集1』)
私が持っている、在庫切れのアラバール戯曲集!(宝物)

世界観も、ちょっと似ている。
基本的に登場人物は、
ホモ・セクシュエル。
いま、二人の男の子と創作している、
« L’homosexuel ou la difficulté de s’exprimer » (1973)
(ホモセクシャルあるいは語ることの難しさ)
http://www.theatre-video.net/embed/oXVdUFOV
Andrés Cifuentes・演出
モンペリエに来て以来、
ホモ・セクシュアルばかり扱っている気がするけど、
ヨーロッパにいると何も疑問に感じない。
リアリティーとして、存在しなければ、
わざわざ、フィクションにする必要はないから。
フランスでは、近年、
演出家を持たない俳優集団”Collectif d’acteurs”というスタイルが増えてきている。
Copiの作品を多く扱っている、
ブルターニュ地方Rennesの高等コンセルバトワールTNBの卒業生によって結成されたユニットThéâtre des Luciolesもそのひとつ。
『Les poulets n’ont pas de chaises / Loretta Strong』
http://www.theatre-video.net/embed/kigNtjNf
「マイノリティー」もしくは、「差別」的な役を、
自分のバック・グラウンド(個人的リアリティー)と共に演じること。
つまり、アラブ人の役をアラブ系の子がやることだったり、
黒人の役を、黒人の子がやることだったり。
もちろん、
私の場合は、
アジア系の役を西洋人の中でやること。
そして、
ホモ・セクシュアルの役を、
ホモ・セクシュアルの子がやること。
ヨーロッパにいると、
自分の容姿というものを、常に問われる。
舞台に、わたしの身体が、
存在するだけで、
なんらかの意味合いが自ずとうまれる。
どこまで、
自分の身体を客観視して、
自分自身の身体を、
軽やかに利用できるかが問われているように思う。
先日、前校長が学校を訪れて、
ミーティングをしたときに、
役者として一番必要な才能は、
「忘れること」
という言葉を、おいて帰っていった。
私も、受験の実技試験で気が狂いそうになったけど、
役者という職業は、
オーディションや、本番で、
作品とアーティストが同一のため、
どうしても距離が近くなりすぎてしまい、
作品を評価されたのではなく、
自分自身を常にジャッジされている感覚に陥ってしまうそう。
作品の中で、
自分の身体が「差別」を受けていることは、
いかに客観、そして達観して、
遊べるか。
「忘れる」才能。
無精者の私には、
悪くないかも。