アイデンティティー【identity】とは??
(三省堂ワードワイズ・ウェブより)
広義には、
「同一性」
「個性」
「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」
「特定のある人・ものであること」
などの意味で用いられます。
学術用語としてのアイデンティティーの定義は、
哲学分野では、
「ものがそれ自身に対して同じであって、一個のものとして存在すること」です。
心理学・社会学・人間学などでは、
「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、
自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」
と説明され、「本質的自己規定」をさします。
「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」
でありながら、
「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、
自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」
という記述は、
私にとっては、
矛盾に思えて仕方がない。
2年半前、
私が渡仏した日は、
なんと、3.11「東日本大震災」の前日。
その日から、
「アイデンティティの欠如」
という言葉が、
アイデンティティなんて、洒落た言葉使ったこともなかったのに、
頭の片隅にひっそりと存在している。
現在、学校でクリエーションを行っている、
モリエール『ヴェルサイユ即興』のなかで、
モリエールが、当時、ライバル劇団だったブルゴーニュ座の、
名優のモノマネをして、
劇団員たちを笑わせているシーンがあります。
私たちだけの脚色バージョンを創るにあたって、
それぞれが、
即興で、
有名俳優や演出家、映画監督のモノマネを披露。
まわりが、爆笑している中、
私は、この「コード」を共有することができず、
自分でもびっくりするほど、
悲しみに襲われてしまった。
「共有する」言葉や、
「共有する」過去の記憶に関する、
アイデンティティの欠如は、
時として、
人を完全にひとりぼっちにする。
最近、
ぽつぽつと想うことは、
アイデンティティは、
いくつも持てるものではないということ。
日本語を全く話さない生活が始まってから、
はや2ヶ月。
日本語を使用しているときには、
考えられないような、
フランス語を話している自分の攻撃的な性格に違和感を感じたり、
フランス語で演じているときの大胆さに高揚したり、
二重人格に陥っているのか、
それとも、
演じているのか、
演じていないのか、
やっていることが演劇なだけに、
ふっと湧きあがった小さな感情は、
あっという間に、
2倍、3倍増しになって、
ドラマチックに染めてしまう。
おそらく、
アイデンティティの定義を、
「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」
から、
「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、
自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」
への、
転換期。
日本人としてのアイデンティティが欠如し始めたとか、
フランス人としてのアイデンティティには決して届かないとか、
そこは、
おそらくどうでもいい。
アイデンティティは、
持っているものではなく、
受け入れて、
そして、
超えていくもの。
自分の現在置かれている状況や、
自分の育ってきた環境、
すべてを受け入れて、
超えていく。
その中で、
国や民族、
自分が属する、
なんらかのグループを見つけるのではなく、
「自分」に
「自分」を
しっかり所属させてみる。
そうしたら、
アンジェラ・アキの名曲に、
心が痛くなるほど感動したり、
(万人のものである「芸術」というものを、
個人的な「贈り物」くらいまで、
親密さのレベルを高められる彼女は、
本当に天才だと思う。)
スタジオで床に座って、
先生の話を聞く時、
私だけ、正座して聞いてたり、
そんなことも、
すこしずつ、
「自分」に
「自分」を
所属させていくための、
ステップだと思う。
おまけ。
39歳からはじめて、
現役100歳で、
ブラジルで現代美術の巨匠として活躍する、
日本人画家、大竹富江さん の記事。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFE06023_R11C13A1TY5000/
まさしく、
「アイデンティティ」の結晶。
格好いい。