哲学な日曜日の朝:「寛容」について

先日、インターネットで、
ロシアの小さな村で起こった放射能汚染についての、
ドキュメンタリーを観ました。

あまりにも、
恐ろしすぎる内容に、
目をつぶりたくなりましたが、
知ることしかできないし、
知らなければいけないことなので、
最後まで拝見。
そのときに、偶然見つけたのが、
カネミ油症事件に関するドキュメンタリー。
今から、45年前に起こった「毒」混入事件。

健康に良いと言われていた「カネミライスオイル」に、
猛毒ダイオキシンが混入。
さらに、この毒は、2代目、3代目と今も受け継がれている。
厄介なのは、
症状として、はっきりとしたものがなく、
油症患者は、政府から認定もしてもらえず、
新生児の奇形、身体のだるさをはじめとする、
ありとあらゆる慢性的な症状と戦い続けることになる。
さて、
世の中で、
自分の知らない「苦しみ」を背負った人にであったとき、
どう行動するか。
「可哀想」は、私たちの距離を遠くする。
おそらく、
「考える」ことだけが、
私たちの距離を少しだけ縮めてくれる。
哲学の国、フランスの友人と日曜の朝っぱらから、
2時間に及ぶ議論。
私にとって、
哲学とは、
正解のない問題に、
自分だけの回答を出すこと。
その時に、
いつも思い出すのが、
渡仏当初、
語学学校に2ヶ月間通っていた時の
ディベートのテーマ:「寛容」について
(しかも、初級クラス)
当時、
日本では、出会ったこともないようなお題に、
腰が引けつつも、
どんどん前のめりになっていったことを覚えている。
「寛容」について、
他者とディスカッションを交わすという事実が、
私の記憶に、
2年以上だった今でも、
かすかに、それでも、くっきりと浮き上がっている。
6歳で毒を口にしたカネミ症患者の女性は、
25歳、結婚を目前に、
断られても仕方がないと心に決め、
婚約者にカネミ症患者であることを告白。
そこで、彼が口にした言葉。
「みんな、なんかしら、病気もってるんだから。」
フランスに来て、
演劇を学んでいるときは、
常に、「他の人と違う」自分と、
自分自身、つき合ってきましたが、
今、思えば、
「他の人と違う」自分に対し、
まわりの人には、
自然と「寛容」が求められただろうと思う。
自分と違く見えるもの、
知らないように見えるもの、
わからないように見えるもの、
へんてこに見えるもの、
「寛容」のフィルターを通したら、
きっと、
「同居可能な」異物に変わるだろう。
朝ご飯

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